27品目
……これは、夢?
あたしの目の前にはヒロの顔がある。困ったような怒っているような、それでいて心配しているような瞳をした。
さっきまで洗濯機の予約をしていたハズだから、ヒロが目の前にいるなんてきっと夢だ。
眠い目を擦りながらパネルの操作もしていたし、そのまま寝ちゃったのかもしれない。だから、これはきっと夢。だって、今のあたしは所謂お姫様抱っこをされているのだから。
それにしても、ヒロにお姫様抱っこされるなんて、夢みたい。いや、夢なんだろうけれど何だか嬉しい。
ほんわかした気持ちを味わい、こんな気持ちがずっと続けば良いのにと思いつつも、嬉しい時間は直ぐに終わりがやってくる。
背中からは柔らかい感触と、お日様の匂いがする。そう、畳の上に敷かれた布団へあたしは横たえられたのだ。
畳に布団って、ヒロの部屋か控えの和室しかないじゃない! 何で夢なのにリアリティが強いんだろ。
折角夢なのだから、ホテルのスイートルームとかなら俄然気持ちも盛り上がるのに。
って言っても、あたしとヒロだとそんな肩が凝るような所よりも、旅館が良いとか言いだしかねないか。だからきっと、ここは旅館! うん、夢なんだし、そう思うことにする。
布団の上に仰向けになっているあたしの目前にはヒロの顔。それも間近のアップだ。
多分、今から嬉恥ずかしい大人の時間をそれこそ夢中で味わうんだろうけれど、その前に、キ、キ、キスをする感触を夢に見てもバチは当たらないよね。
などと思うが早いか、あたしは頬を緩めてヒロが顔を離す前に彼の首に腕を回したのだった。
ちゅっ。
と、妙にリアルなヒロの頬っぺたの感触と温かさ、そしてドキドキした時特有の心地よさが自分の唇に伝わる。
ちゃんと彼の口元めがけたハズなのに……。
夢だからか、大胆にガッカリするあたしに、ヒロは視線を泳がせて慌てていた。
「な、小夜子――」
「ヒロ、温か~い」
キスの狙いが外れたことへの残念な気持ちはあっという間にどこかへ行ってしまい、あたしは思いっきり甘えた声を出して、両腕で固定した彼へ頬ずりする。
妙にドギマギしているヒロは本物としか思えない程だけれど、うん、嬉しい事はこれくらいハッキリしている方があたしも良い。
「そ、そうか、では、良いのだな」
「何? 何でも良いよ」
照れくさそうにしているけれど、ヒロはあたしの目を見てそんな事を言った。その彼が可愛く感じた事もあってか、あたしは上機嫌でそう答える。
夢なんだから、楽しまなくては損、損という思いと共に。
「……………………」
ヒロはあたしが首に回した腕を解くと、前に未遂だった時を上回るほどの真剣な表情で布団へ押さえつけた。
押さえつけられた腕からは、相変わらずピリピリとした心地よさ――快楽があたしの身体へ送られてくる。こんなにもリアルな夢をみるのはいつ以来だろ。
ふわふわとした頭でそんな事を考えている間に、ヒロの顔――唇――があたしの間近に迫っていたのだ。
全くもって無防備なあたしは、ヒロの顔が近いな位にしか考えておらず、彼の顔に見入っていた。
そして――。
ちゅ。
すっとした触れるだけのキスがあたしの唇を奪う。
リアリティのあり過ぎる、柔らかくて甘い感触と電気でも走ったかのような快楽に、あたしの心と体は蕩けるどころか、むしろ現実へと引き戻される誘い水になってしまった。
「う、嘘……」
離される唇と時を同じくして、夢の世界から引き離されたあたしの口からは、震えた声音が洩れてしまう。
「夢じゃ……ない」
表情を怪訝なものに変えるヒロを置いておき、自分で言って唇に触れると、そこにはヒロと触れ合った快楽の余韻と、甘い温かさが残っており、夢でも空想でもない事を冷酷に物語っていた。
「夢がどうした?」
「……」
どうしよう、ムードも何も無く気分とノリだけであたしはファーストキスを終わらせてしまった。
それもこれも――はい、あたしの所為です。あたしが悪いんです。
だってねぇ、ヒロの顔には清々しいほどの笑みが浮いており、自分の所作を呪う以外にあるわけがないじゃない。
そりゃ、あたしだって曲がりなりにも年頃の女だ。ファーストキスにロマンチックな要素だって求めてしまう。それがこんな、寝ぼけた上にムードも洒落っ気も何も無い……もう、泣きたいやら怒りたいやら頭の中が滅茶苦茶になってしまう。
「今の、ファーストキス」
できるだけ新語を使わないようにしていた気遣いも忘れ、ヒロを上に乗せたままのあたしは顔を横向けてポツリと呟いた。
「ふぁーす、何だ?」
「人生で初めての口付けのこと」
半ばやけくそに言い切ると、流石に通じたのか、ヒロは驚いて黙ってしまった。
沈黙が二人の間に入り込む。
その沈黙に耐えられず、あたしは即興で思い浮かんだ考えを口にした。
「ね、今のはナシ」
「ん? どういうことだ」
「さっきのは事故。脱衣所で寝てたあたしを和室の布団まで運ぼうとしていたら事故で触れちゃっただけ」
自分でもかなり無理やりだと思うけど、告白も受けたこと無いのにキスまで体験済みというのは勘弁してもらいたいと思い、自分のアイデアを強めの口調で言い切った。
あ〜あ、もう、何で毎日見ている控えの和室を旅館だと思い込もうとしたのか……恥ずかしい。穴があったら入りたいとはこのことだよ。
「事故……か。小夜子はそうしたいのか?」
「だって、告白だってされた事無いのに、勘違いでく、くち……」
ヒロから向けられた問いに、あたしは思っていた事をそのまま口に出してしまった。いや、口に出そうとして最後で口ごもり、恥ずかしさから顔を背けてしまったのが正しい。
「……一度しか言わん」
わずかな時間で逡巡したヒロは、普段とは比べ物にならないほどの固い口調を正面からぶつけてきた。その妙に迫力ある口調に、あたしは背けていた顔をヒロへと戻す。
「先ほどの事は事故でも何でもない。俺が小夜子を好いているから行ったのだ」
固い口調だけど淀みなく、調理場に立っている時さながらの真剣な表情で訴えられた言葉。
……うわ、い、言わせちゃったよ。
彼が言葉を紡ぎ終えると、あたしは全身が痺れる程の快感が駆け抜けるのを感じたのだ。これまで、何となくは感じていても、ハッキリと想いを伝えられて叶うという互いの相思がこれ程嬉しくて幸せな気持ちになれるとは。
あたしは頬から順に全身の力が抜けていくのが他人事の様に解るのだけど、思考も何も蕩けてしまったかの様に、無防備になった身体をヒロへと向けていた。
身体を支配する快楽は、文字通りあたしを骨抜きにし、熱でもあるんじゃないかと思ってしまう頭と瞳で、あたしはぽぉっとヒロに見入っていた。きっと期待を込めた表情をして。
だからだろう、彼がもう一度の逡巡後に再び唇を重ねてきても、あたしは何の抵抗も無くそれを受け入れ、あまつさえ自分から求めるように手を、舌を動かした。
「ふぅ……んっ」
繋いだ手と絡まり合う舌からは、それだけで登り詰めれそうな程の刺激と熱が脳みそに伝えられ、沸騰しそうな程の幸福感となってあたしを包み込んだ。
自分で慰めた時とは全く違う快楽に酔いしれ、ギュッと強く彼の手を俗に言う恋人繋で握る。
口を付けていたのはどれくらいの間なのか……どちらからともなく離した唇は銀色の糸で結ばれたままだった。
うわ。告白されてのキスってこんなに艶めかしいものだったんだ。与えられる快楽と自分が感じる興奮は、身体へと熱を広げて火照らせ、より相手を欲する感情が鎌首をもたげる。
でも、その前にちゃんとあたしも返答しなきゃ。それが最低限の礼儀だよね。
「あたしもね…………ヒロが、ヒロが好き」
言って自分からヒロへと唇を重ねる。今度は流石に軽く触れ合うやつだ。
……もう、明日死んでも後悔は無い。あたしは先ほどの寝ぼけを超える程ぽーっとなった頭で考えるのだけど、あたしの心配を他所に、ヒロは唇とを離すと手を寝間着へと掛けてきた。
彼は無言のままあたしの目を見つめてくる。あたしは小さく頷き、背中を少しだけ浮かせる。今回は優しく寝間着とインナーシャツにまとめて手をかけ――。
「誰かいるの?」
お父さんの声によって手は離され、間を測ったかのようにヒロは一瞬で距離を取った。
スッという音と共に襖が開けられ、顔を覗かせるお父さん。
あたしは布団から上体を起こしており、ヒロは少し離れた所から様子を伺っている。それをお父さんが見ているという構図だ。
「あれ? 小夜子にヒロ君……」
キョトンとした顔で言うお父さんを前に、あたしは少々ワザとらしくヒロに言った。
「ヒロ、もう大丈夫だから。心配かけてゴメンね」
その意図を伝心といわんばかりに感じ取ってか、ヒロはヒロで、
「ああ。脱衣所で寝ては風邪を引いてしまうからな。温かくして眠ってくれ」
と言って自分の部屋へ下がっていった。
本当はお父さんを睨み付けて下がらせたいくらいだけど、実際にやってしまうとお父さんがヒロを警戒――お父さんが邪魔になるようなナニかをしようとしていたと邪推――してしまう。そんな事態は避けたいあたしは何とか怒りの矛先を収めるのだった。
――――――――――――――――――――
その晩、今度こそ本当に眠ったあたしは狙ったかのように夢を見た。
夢にはヒロが出てきて、誰かと言い争っていたのだった。相手は良く見えなかったけれど、言い争いの種はどうやらあたしの事っぽかった。と言っても、内容は全く聞こえなかったのだけど。
ただ、種が種なだけに、あたしは何とかヒロを宥めようとするのだが、彼の耳には全く届いていないのか、ひたすらに相手へと言い返していた。
彼ら二人は言い争って――と言っても、争うような口調だったのはヒロだけだが――いたのだけれど、しばらくして相手は虚空へと消え、悲痛な面持ちのヒロが最後に言った一言だけがハッキリと聞こえ、次の瞬間にはベッドの上で跳ね起きていた。
「小夜子って呼んでた……」
最後の一場面を思い浮かべたあたしは、寝間着のまま一階――ヒロの部屋へ走った。
ドタドタといかにもあたしらしいガサツな音を立て、階段を下って廊下を突っ切ってヒロの部屋、襖をノックも無く開ける。
日も出ていない時間、豆球だけが照らす薄暗い部屋――空襲を警戒していた頃の癖で、明かりは最小限にしている――でヒロは割烹着へ着替えていた。
「どうした? こんなに早く」
流石に驚いたのか、彼は顔をこちらに向けて言った。
一先ずは彼が変わらずに居たことに安堵する。彼の顔は夢で見た悲痛な表情とは真逆に、機嫌良くちょっと嬉しそうですらあった。
「ううん。何でもない」
夢が杞憂であった事を知り、安心してこちらも負けないくらい機嫌良く――いや、語尾にハートマークでも付けそうな勢いであたしは返答する。
何だろう、昨日の朝とは違ってヒロと言葉を交わすだけでとてつもなく幸せを感じる。ううん、最早これは気持ち良いと言っていいくらい。
それから少しだけお喋り――お互い、昨日の事が夢じゃなかったか不安になった事を中心に――し、短い話が終わるとあたしは着替える為に部屋へ戻るべく、名残を惜しみながらも席を立つ。
でも、こんな時まで嬉しいアクシデントが起こり、彼との運命を益々感じてしまった。
だってねぇ、席を立って最初の一歩で躓いてしまっあたしを、ヒロが優しく抱き留めてくれたのだ。もうね、あたしの胸の音はヒロに筒抜けなんじゃないかってくらい、大きく大きく脈を打っていた。
……もちろんしっかりとお礼を言い、えっと、高揚感に任せてあたしはヒロに軽くキスをした。多分、お互いに真っ赤だったと思うけれど、恥ずかしくなったあたしは彼の顔を見ずに部屋へと戻った。自分で口元が緩むのが解る程上機嫌で。
――――――――――――――――――――
「あれ? 今日は何かお祝い事もあったっけ?」
朝食の時間、お父さんが食卓に並んだ料理を前に言った。
「別に~」
鼻歌でも口ずさみそうな程の上機嫌で袖にするあたしに、千秋さんまでもがツッコミを入れる。
「その割には女将さん、上機嫌ですよね」
「うんうん。ご飯も豪勢だし」
千秋さんに乗っかる形でお父さんも再度問うてくる。
まあ、今日の朝食のメニューを見ればそうも言いたくなるか。なんてったって今日はいつもと違い、栗ご飯に秋ゴボウと厚揚げのトン汁、鮭――マスじゃない本物――の塩焼き、出汁巻き卵、ワケギのぬた、ナスの塩もみ、サツマイモの金団という夕食でも通用しそうな程のラインナップだからだ。
確かに、普段であれば絶対に出さないレベルの豪勢な朝食ではある。
早朝、着替えを終えたあたしはいつものように配膳と作法の練習を――早々に切り上げ、ヒロに美味しいと言ってもらうべく心血を注いで豪勢な朝食作りへ挑んだのだった。
もちろん、こんな理由を二人に言う訳にはいかない。というか、言えないので仕方がない、ここは考えていた理由を使うとしよう。
「ちょっと夢見が良かっただけよ」
できるだけ何でもない事の様に答えるが、お父さんが予想通り食い下がってきた。
「へ〜。どんな夢? お父さんとデートとか?」
取りあえず、机が戦場にならないように卓袱台の下から、ニヤケるお父さんの足目がけてお盆をフリスビーの要領で投げつける。
見事にクリーンヒットした足を押さえ、後ろに転がるお父さんをしり目に、あたしは
「明日からの個室利用が上手くいって、お店が繁盛した夢よ」
と用意しておいた答えをにこやかに返す。
「お、女将さんらしいと言えばらしいですね……」
最近は慣れてきたのか、のたうち回るお父さんをチラ見だけした千秋さんが言う。
ボロを出さない内にと思い、あたしはでしょうとだけ相槌を打ってご飯へと箸を付けるのだった。何となく、ヒロの視線を感じつつ。




