26品目
昨晩の雷での停電には驚いた――千秋さんが雷が苦手なのはもっと驚いた――けれど、ヒロと千秋さんの承諾を盾に、親方へと個室利用の承諾を取ることができた。
お店の調理場から控えの和室で“お父さん”に戻った時には『小夜子のおもてなしを受けれるなら、お父さんが毎日通いたいくらいだよ!』と、相変わらず斜め上な事を言っていたけれどね。
皆で話し合った結果、個室の利用開始は一週間後。そのため、この一週間は通常の仕事をしつつ、個室の予約が入った時の練習もしないといけない。
作法の復習や身成の再調整をするあたしは元より、献立にある料理の調理法を完璧にすると言ったヒロまで、睡眠時間を相当削って備える事になったのはバツが悪かった。
朝、4時前には起床し、あたしは女将装束――メイク含む――をいかに短時間でセットするかを練習した後、ヒロが作った料理を個室に配膳する。これを二時間ほど繰り返すと、今度はお弁当とお昼の賄の下拵えに掛かる。お昼は主にヒロが賄を作るのだけど、一から十までお任せというのはあまりにも酷すぎる――ヒロは全部するぞと言ってくれるけど――ので、一品は焼くだけや炒めるだけの状態まで調理し、一品はヒロにお任せ、一品は煮物などの作り置きを昼食としてもらっている。お蔭で、お昼はちょっと物足りないんじゃないかと心配になるけど、夜に頑張って作らせてもらうから勘弁してと心の中で頭を下げる。
そのため、あたしのお弁当はこの下拵えしたものを完成させた一品と作り置きの一品、ヒロの練習作――主には朝ごはんになるけれど――をおかずに詰め合わさせてもらってたりするんだけどね。
今日のお弁当は、甘辛いタレに漬けこむところまで下拵えしている焼きつくねと、作り置きしているニンジンとカボチャの煮物、ヒロが作ってくれたナスの煮びたしだ。見事に地味な色合いのお弁当だけど、つくねは言わずもがな、ニンジンとカボチャ煮物は素材を活かしたあっさり目の味付けだけど、ニンジンとカボチャの甘さと醤油の塩分で甘辛くなっている優秀なおかずだし、ナスの煮びたしについては、嫁に食わすな秋茄子と言われるくらいの旬の美味しい野菜を、ヒロが調理――練習と言っているけれど、お店の味を完全にマスターしているようで、お客様に出しているのと遜色無い――したお蔭で、鰹出汁が染み込んだナスは美味しさが一段も二段も上がって立派な料理になっている。
本当に、お弁当の事を考えただけでヨダレが出てしまうよ。早くお昼にならないかな~。
おっと、脱線してしまったけれど、学校には7時半には家を出れば歩いてギリギリ遅刻しないで済むので、制服であるキャラメル色のブレザーに着替え、メイクも落としていざ出発。
夏休み明けまではバスを使ったりもしていたけれど、涼しくなってきたことに加え、生活費圧縮と試食が嵩んで増えてきた体重を減らすためにも、今は登下校共歩きだ。
学校では真面目に授業を受け――睡眠学習含む――つつ、HRが終わるとダッシュで帰路に就く。
帰ってきてからは夕食の用意と仕込みの手伝い、掃除のチェック――昼間に千秋さんが掃除してくれている。トイレはあたしが帰ってきてから掃除してる――をしてから夕食、開店だ。
お店は大体22時くらいまで開けており、お客さんが長居をする場合は若干伸びる事がある。その後に片付け、入浴、睡眠で一日は終わるのだけど、あたしは皆が入浴している間に個室の掃除と片付けと作法の復習をして、入浴後に洗濯機のセットをしてから寝床に入るので、大体日付が変わって1時くらいになってしまう。
平均睡眠時間、3時間ほどか……ま、一週間の辛抱だしね。と楽観視して、そんな生活を続けていると、シワ寄せは学校に向かうワケでして……はい。
「……藤原、先生はお前が家の手伝いを頑張っている事を否定はせん。家業も大変だろうからな。だが、お前は何のために学校に来ていると思っとるんだ、ん?」
週番の報告日誌を提出しに職員室を訪れたあたしは、担任の先生から、日誌を提出する前にお小言を頂くことになってしまった。
「それはまあ、お勉強の為ですかね」
視線を泳がせながら曖昧な返答を職員室でする。
「解っているんだったらな。全授業爆睡する奴があるか!」
「はい。すみません」
昨日の授業は全て座学だった事もあり、眠っちゃったんだよね。流石に授業の間の休み時間にはそれなりに目を覚ましていたけれど、先生の話が始まると一気に眠気が、とねぇ。
そんな自覚症状と共に、あたしは素直に頭を下げる。
普段は大人しく、声を荒げる事が無い先生も、珍しく独特の静かで強い口調で怒りを露わにしており、あたしは背中へ冷たい汗が流れるのを感じていた。
先生が怒っているのを見るのは、川中が実習中に悪ふざけ――火が着いたガスコンロにヘアスプレーを吹きかけた――をして火事を起こしそうになった時以来、というだけに、内心の恐怖もひとしおだったりする。
「申し開きがあれば聞くが、何かあったか?」
「ら、来週からは多分、大丈夫だと思います。きっと」
下げた頭を上げても、恐怖からか先生の顔を直視することはできず、曖昧を通りこして、グダグダな返答をしてしまう。
「どういうことだ? 何故今週は居眠りをするのか、何故来週は大丈夫なのか、ちゃんと理由を言え」
「えっと、来週からウチのお店で新たなサービスが始まるので、その準備に今週は追われておりまして、睡眠時間を削ってしまった結果が出てしまったと言うか何と言うか」
さっさとこの場を収めてしまいたい思いと、あまり詳しく説明したくない思惑から、しどろもどろに現状を説明する。
流石に、ヒロや千秋さんの為にも授業時間が一番惜しいですとは口が裂けても言えない。
「……まったく、家の手伝いも大事だろうが、学校は授業料を払って来ているのだから授業中は寝るな。藤原はこれまで真面目だったからな、今回だけは大目に見てやるが、次は無いと思え。解ったら日誌を置いて、帰っていいぞ」
先生はやれやれとばかりに、険しかった表情を緩めて椅子を回して机の書類へと向いた。あたしは先生の机の端に持っていた日誌を置き、失礼しますとだけ言って逃げるように職員室を後にする。
職員室の扉を開け、ほぅと安堵半分、溜息半分といった息をついたところで、ちょうど町田と鉢合わせた。
「藤原さん、時間掛かってたけど何かあったの?」
町田独特の淡々とした口調で疑問が飛んでくる。
「あー、うん。ちょっとね。あんたこそ職員室に何か用事?」
用事があったのなら日誌の提出も頼めば良かったかなと、不埒な考えが頭を過る。
うちの学校は商業高校という事もあって、3年間クラス替えはあろうはずもなく、担任の先生も変わらない事が多い。そのため、うちのクラスの先生のように、最初に決めた順番でずっと週番が回され、あたしが週番をする時はもれなく相方は町田になるのだ。
町田は勉強が好きと自称するだけあってか、日誌も手際良く整理、記入してくれるので、あたしは日誌の受領、確認、提出、授業始終の礼、黒板の掃除をするという分担が暗黙の内に出来上がっていた。
「……遅かったから、記入漏れでもあったのかと心配になって」
「あんたが気付かないような記入漏れなんて、先生も気付かないって」
気安く、背中をバシバシと叩きながらあたしは言う。実際、町田が記入した日誌をあたしも内容確認はしているけれど、彼が記入ミスをした事など一度も無いしね。
「そ、そっか、なら良いんだ。じゃあ、帰ろう」
「そうね。車に気を付けて帰りなさいよー」
町田はすぐに帰るのだろうと思い、手まで振って言ったのに、彼は意外にも止まったままだった。
「……と、途中まで一緒に、か、帰らない? えと、藤原さんが、その、良かったらだけど」
彼は顔を引きつらせ、珍しくシドロモドロになりながらそんな事を言ってきた。
バス通学の町田と徒歩通学のあたしの帰路で途中と言ってもバス停までだし、学校からバス停までは一本道なんだから、わざわざ言わなくても帰り道は一緒なんだけどな。
ちなみに、茉莉彩、くるみともあたしは住んでる住宅団地が違うので、時間が合えばバス停までは一緒に歩く事はあっても、普段から一緒に帰っているワケではない。そのため、帰りは時間が一緒になるクラスメイトが居れば、お互い適当にお喋りしながら帰るのがあたしの日常だったりする。
「途中って言っても、そこのバス停までじゃない」
そんな理由もあってか、気軽に思ったことをそのまま言葉にして出した。
「藤原さんってあじさい団地の中に住んでるんだろう?」
「そうだけど、と言ってもギリギリ団地の中ってくらいの端っこだけどね」
「だったら、途中までバス一緒だよ。俺、あじさい団地を通るバスに乗って青葉駅まで行って、そこから二駅先が家だから」
「へ? 町田の家って結構遠いんだ。だったら尚更早く帰れば良かったのに」
母子家庭だとは聞いていたけど、てっきり家は近くなんだと思っていただけに驚いてしまう。
そう言えばお互いの住所の話題とか無かったハズなのに、何で町田は家を知ってたんだろう? まあ、細かい事はいっか。
「学校を早く出ても、結局は駅で待つし」
ははーん。それで暇つぶしに付き合わせようってワケね。ところがそうはいかないんだ。今から急いで帰って仕込みしなきゃいけないし。
「そんなに電車って少なかったっけ?」
言いながらスマートフォンを操作し、駅の時刻表を呼び出す。この時間帯は周辺の学校とも下校時間が重なるため、そこそこの本数があったはずなんだけど。
操作すること数秒。案の定、今すぐに走ってバスに乗れば間に合う電車があった。
「ほら、今からバス停まで走れば、すぐの電車に間に合うわよ」
スマートフォンの時刻表――乗り換え分も表示されるヤツ――を見せ、言うより行動とばかりに、町田の背中を押して駆け出すあたし。
「そんな走ってまでとか、いいよ」
「なーに言ってんの! 時は金なりよ。商人の基本的な考えじゃない」
グイグイと更に背中を押し出し、そのまま町田と二人そろって学校の前の坂を走って下る。
当初の下校時刻より遅い事もあってか、少ない同校生を追い抜き、あたし達はバス停まで向かった。
『青葉駅行です。ご乗車の方は――』
バス停に着く直前にバスが到着し、アナウンスとともに音を立てて扉が開く。
「ほらほら、急いで」
半ば押し込むような形で町田をバスに送り込む。
「って、藤原さんは?」
「え? あたし歩き――」
だから、という一言を切られる形でドアが警告音を立てて閉まる。
やれやれ、何とか間に合った。
ちょっと息切れはしてるけど、走った距離も大したこと無いし、今は涼しい季節という事もあって、あたしは一呼吸置いただけで家路へと歩を進めた。
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帰ってきてからは仕込みの手伝いと掃除、夕食の準備をして開店に備える。
おっと、もちろんブレザーから和服に着替えも済ませいるけどね。
お店に出ようとする前に、控えの和室であたしはヒロに捕まった。
「小夜子、お前は疲れが溜まっているのではないか。親方と話したのだがな、今日はもう休め」
呼び止められると同時に切り出されたのは、仕事を休めとの話だった。
なんて事をを言われても、あたしの返事は決まっている。
「何言ってんの、頑張るなら今でしょ! 今週を休んじゃったらいつ頑張るのよ」
それに、ヒロが頑張っているのに女将のあたしが休むなんてもっての外だ。と、心中で付け足す。
「気付いていないかもしれないが、顔色が悪く、足取りも怪しいぞ」
「大丈夫よ。お客様も待っているんだし、それくらいで休んでなんかいられないって」
明るく言ったつもりだけど、目の奥に見える光からヒロの機嫌が悪くなったのが解る。何か気に障るような言い方になっちゃったかなと冷りとするけれど、ヒロの方こそ休んでもらいたいしと思った事を口にした。
「それに、あたしが休めるのなら、ヒロの方こそ休んでよ」
「俺が休むなど以ての外だ!」
「だったら、あたしが休めるワケ無いじゃない。ヒロに働かせて休むなんて、女将失格もイイところじゃない!」
何でだろう、お互いに感情的な言い方で互いの気遣いをぶつけ合う。
あたし、こんな言い方したい訳じゃ無いのに……。
そう心の中で思った時だった。突然、頬を熱いものが伝う。
「な、何も泣かなくてもだな……」
「ご、ごめ……ん」
な、何で!? と心中は半ばパニックになるが、あたしは俯き慌てて手の甲で涙を拭う。
涙で歪んだ視界の端には、珍しくヒロが狼狽える姿が映っていた。
でもどうしたんだろう、ヒロに言われるように疲れているのかな。別に悲しかったり悔しかったりするワケでは無いのだけれど涙は出てくるし、さっきも感情的になっちゃったし。
「そのだな……無理だけはしないでくれ」
あたしを泣かせてしまったと思ったのか、彼は顔を背けてバツが悪そうに言った。
ヒロの所為では無いからそんなに気にしなくても大丈夫だよ。どちらかと言えば、泣き顔を見られたあたしの方が恥ずかしくて顔を逸らしたいくらいなんだけどね。
「明日までの辛抱だから大丈夫。ごめんね、心配かけて」
「少しでも疲れを感じたら、頼むから下がってくれ。俺だけじゃあなく、親方も千秋も心配している」
恥じらいを黙殺し、元気さをアピールしようと笑顔を作ったつもりだったけれど、あっさりとヒロには見破られていたらしい。狼狽えを通り越し、悲痛な面持ち――と言っても、眉根が少し寄るだけだけど――で彼は全員が心配している事を告げてきた。
「う……はい」
その顔が余りにも痛々しく感じたからだろうか、あたしは心にグサリとするものを感じ、素直に肯定の返事をする。
でも、結局はヒロの心配は当たっていたんだよね。
あたしは自分で感じてる以上に疲労を溜め込んでいたようで、今日の仕事は何とかこなしたものの、個室の片付けと入浴を終えた直後、それはやってきた。
「さて、洗濯機のセットも終わったし、あとは寝るだけ――」
お風呂上りの寝間着姿で洗濯機のパネルを操作し、スタートボタンを押した所であたしの意識は途切れてしまっていた。