25品目――変わり鉢 ―千秋の心―
「……と言う訳で、ヒロには千秋さんと親方が納得してくれればという条件で、昨日、一応承諾は得たんだけど、えと、その、お給料が約束できないのにこんな事お願いしても――」
「住む処に加えて美味しいご飯も出ているのですから、お話の内容は謹んでお受けさせて頂きます」
しどろもどろになっている女将さんの言葉を先読みして、私は承諾する意思を告げました。
私の言葉が女将さんの耳に吸い込まれると、彼女は深々と頭を下げた。
女将さんの動きに併せて、遠くの空からゴロゴロという低い音が響いてくる。
私が苦手にしているものの一つ、雷です。
うん。でも、まだこの距離なら大丈夫。
「時間外の夜中に、こんな話しちゃってごめんなさい。あと、千秋さんからの要望とか希望があれば聞いておきたいんですけど、良いですか?」
雷の音が止み、女将さんが申し訳なさそうな顔で聞いてきました。本当にこの人は私が今まで見てきた人達と違うんだなと思わされますよ。
今まで生きていた所は、そう、家出した実家もホステスとして働かせてもらっていた所も、みんな自分が先にある人達ばかりだった。女将さんは真逆。先に相手の事があって、相手の為に何とかしようとする気持ちが強い。
本当に良い人――。
だから、捻くれそうになってた私は女将さんには感謝の念しか無く、これ以上の要望も希望ある訳がありません。
「特に無――」
言いかけた瞬間。
ピシャンッ! ガラガラガラッ!!
近くに雷が落ちた。間違いない。
音が聞こえると共に、部屋がビリビリと小刻みに震え、パッと音がしそうな感じで停電した。
「あちゃー。停電しちゃったか」
真っ暗だというのに落ち着いた声で女将さんは言った。
だけど、この時の女将さんの声は私の耳には届かない。だって私は真っ暗な部屋、彼女の目の前で自分の膝を抱き、ガクガクと震えているのだから。
色々な経験を積み、大抵の事は何でもできるようになってきている私ですが、露骨に身体を狙ってくる男と雷は数少ない鬼門なのです。
雷は昔、すぐそばの木に落ちるのを目撃してしまい、それがトラウマになっています。近くに雷が落ちると、私は恐怖のあまり、身動きが取れなくなってしまうほどに。
「千秋さん、今日は停電もしちゃったし、要望とか聞かせてもらうのは明日にしましょうか?」
女将さんが言葉を発して、私が何とか口を開こうとしている最中――。
ガラッ! ドドーン!!!
第二波が容赦なく近くで響く。
「ひ、ひぃっ」
それまで何とか堪えていた悲鳴が開きかけていた口から洩れてしまった。
「えと、大丈夫ですか?」
心配げな女将さんの声。
「は、はひ……」
何とか返事をしようと喉から声を捻り出すのだけれど、震える唇から呼気が漏れて裏返った情けないものになってしまいました。
「もしかして千秋さん、雷が苦手だったりします?」
「に、に、苦手どこ、ろか、こ、こ、こ、怖くて」
唇まで震えている所為で、呂律の回ってない口調が自分の耳にも聞こえる。私の方が年上なのに、情けないことこの上ないのですけれど、今はそんな事を気にする余裕などありません。
「まだ電気も回復しないみたいですし、ちょっと懐中電灯を取ってきますね」
暗がりの中、女将さんは席を立とうとする。
「や、い、行かないで!」
「へ? でも――」
バリバリッ! ババーン!!
「ひぁっ!!」
第三波に思わず私は女将さんに抱き付いてしまった。
「だ、大丈夫ですよ。ここは階段状の団地で上があるし、万が一落ちても火事なったりしませんから」
女将さんは震える私に、子供に諭すような口調で優しく言ってくれるのですが、トラウマを甘く見てはいけません。
「だ、ダメ。私、本当に雷だけはダメなんですよ」
本当に、幼子のように力いっぱい女将さんのしがみ付き、胸に顔を埋めてカタカタと震える。
そんな私の頭に、母のように優しい掌が載せられ、ゆっくりと恐怖を払うかのように前後へと動かされた。
温かい――私は頭の上から感じる温もりを離すまいと、一層握る手の力を強め、
「女将さん、その、き、希望なんですが、今日、一緒に寝て下さい!」
と強張っている唇を必死の念で懸命に動かしたのでした。
「え、ええっ!?」
頭上で頓狂な声が上がる。
後で考えれば、何でこんな言い方をしてしまったのか、と凹んでしまうところなのですが、余裕の無い私にはこれだけを言うのが精一杯でした。
……一応、お断りしておきますが、私は別に同性を好む性癖は持ち合わせておりませんのであしからず。
「だ、ダメでしょうか。雷だけは――」
言いかけた所でまたも雷鳴が轟き、悲鳴を上げて縮こまってしまう。
「…………わ、解りました。ニンゲン、誰しも苦手なものってありますもんね」
何となく発音がおかしかった気もしますが、女将さんは私を支えるように立ち上がり、ベッドへと連れて行ってくれる。
二人揃ってベッドに入るのは恥ずかしくて、女将さんも改めて躊躇したみたいですが、こっちはそれを気に掛ける余裕なんかこれっぽっちもなく、懸命にしがみ付いて震えることしかできてません。
私が余りにも必死にしがみ付いている所為か、女将さんがまるで子供を安心させるように柔らかく背中を撫でてくれた気がして、少しだけ気持ちに余裕が生まれる。
もちろん、雷が克服できる程では無いけれど、ある程度の時間撫でて貰っていると、安心の度合いは上昇するようで、私は腕の力を緩めて女将さんの顔を覗き込んだのでした。
ちょっとだけ困ったような照れているような光が目に浮かんでいるけれど、それでいて心配顔の女将さんと目が合う。
「あの、その、少しは……落ち着きました?」
「す、少しだけ」
あからさまに安堵の表情が浮かんでいるのですが、私はまだまだ女将さんから手を離せません。
「でも、千秋さんにも苦手なものがあったんですね。失礼な言い方ですけど、少し安心しました」
先ほどまでの母のような表情が一変し、年相応の無邪気な笑顔がありました。
「子供っぽいので秘密にしていました。……誰にも言わないで下さいよ」
「解ってますって。言いませんから」
困り顔の私に即答する女将さん。
こればかりは回りにバレると恥ずかしいので、本当に言わないでくださいよと念を押しておく。
でも、この歳になって添い寝を要求する私は論外ですが、それに応じてくれる女将さんの人の好さには改めて感謝です。願わくば、これからも女将さんにはずっとこうあってもらいたい、と思ってしまうのは我儘なのかな。いや、きっと大丈夫。女将さんには松永さんも付いているから。
「……ごめんなさい。本当は添い寝するなら、女将さん、松永さんの方が良かったですよね」
「へ? なな、な、何でヒロ!?」
暗くて良く見えないけれど、今の女将さんは真っ赤な顔をしているのでしょう。解りやすいですね。
「見ていれば誰でも解りますよ。好きなんでしょう?」
「そんな事は――」
「お顔、真っ赤ですよ?」
カマ掛けの一言に、女将さんは両手で顔を隠す。全く、それだと好きだと白状しているものなのに。
でも、そこが女将さんらしくて私は好きですよ。
「……誰にも言わないで下さい」
「言いませんけど、多分、皆さんご存知です」
ふふ、秘密の共有ができた。これで女将さんが、私の弱点を話して回ることは無いでしょう。
「う、嘘……」
両手を頬に当てて恥ずかしがる女将さんは、やっと年下に見えて可愛い限りです。
ここからは私のターンと言ったところでしょうか。微笑ましいものを見るように、頬が緩むのが自覚できる。
「愛称呼び捨てに加えて、仕事中のアイコンタクト、夕食の一品は必ず松永さんの希望の料理となればですね」
「そ、それは全然好きだからとかじゃな――」
「世間では、好きだから出来る事との認識なんですよ」
推測とカマ掛けが見事に当たったようなので、女将さんが慌てている間に畳みかけます。
私からの指摘に、うわーうわーと頭を抱えてしまう女将さん。この人、恋愛の事に関しては何にも考えずに行動していたのね。そうであれば放っておくワケにはいきません。
私は不自然にならないように話を誘導し、一度、松永さんの話題から仕事の話題――仲居としての注意点や気付いた事の確認など――や、家族の話題――女将さんが父子家庭の理由や、今まで黙っていた私の家出理由である両親の仲が悪く仮面夫婦で家庭が既に崩壊している事――へと逸らす。
こういう時にホステスの経験が役に立つのは、因縁めいたものを感じますが、今こそ持てる技能の全てを使う時でしょう。
「……何だか、千秋さんの話を聞くと泣けてきた。ちゃんとしたお給料が出せるように頑張ろう」
自分への言い聞かせとも取れるような発言だった。
「そんなに自分を追い詰めないで下さい。先ほどお話したように、うちは家計だけは裕福でしたので、ここで住む所と食事が確保されていますので、生活に困ることが無いくらいの貯金はありますから」
「いや、そういう問題じゃなくてですね――」
「いえ、その程度の問題です」
ニッコリと女将さんに微笑み、それ以上にお金の話題を打ち切る私。父は仕事のみが生き甲斐で家に寄り付かず、母は放蕩三昧のロクでも無い家族でしたが、お小遣いは潤沢に貰えていたので、そこそこの額の貯金ができているから大丈夫ですよ。
もちろん、住居費から食費までを賄っていたら、すぐに干上がってしまいますが……。
でも、色々とお話をして雰囲気を和やかにしたからでしょうか、何だか色々とお喋りをしていると、話に聞くお泊り会みたいだなと思ってしまいました。
だから私は――
「私からも、女将さんに提案があるのですが」
「へ? は、はい?」
「個室利用が上手くいって、私にお金が出せるようになるのでしたら、是非、松永さんとお出かけでもして下さい」
と自然と柔らかい表情で女将さんに言うのでした。
心中で、しっかりお二人を応援させて頂きますよと付け足し、真っ赤になったであろう無言の女将さんを暗闇の先に見つめながら。