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23品目――箸休めの2-出口先生の憂鬱-

「先生、本日もご来店ありがとうございました。また、よろしくお願いしますね」

 “藤華”から出てきた男に、出入り口の引き戸を後ろにした女将が頭を下げる。


「あー、うん。また来るよ」

 先生と呼ばれた男――出口は、歯切れ悪く言って一度は背を向けるものの、直ぐに足を止めて振り返る。

 年齢に似合わぬほど爽やかに整った顔が、酒の所為≪せい≫か赤らんでいるのが女将――小夜子には見て取れた。

 その赤い顔が真っ直ぐに小夜子を見据えて口を開く。


「個室の事、前向きに考えて欲しいな。それと……今日のお酒は小夜ちゃんの煮物で呑みたかった」

 それとからは、再び背を向けながら小声で言った。


(俺は何を言ってるんだ、小夜ちゃんをまた困らせてしまう。……思ったより酔ってるな)

「はい。色々と考えてみます。先生、気を付けてお帰り下さいね」

 出口の心の内など解るはずもなく、小夜子はいつも通りの微笑み――女将スマイル――を張り付けて見送る。

 背中に向けられているであろう、微笑みに出口の心は珍しく乱される。


(本当に今日は酔ってる……このままだとマズい)

 何とか虚勢を張り、歩み始める事たったの二歩。その二歩目で彼はつまずき、大きくバランスを崩す。


「――っ、先生!」

 小夜子に腕を捕まえてもらえたおかげで、転倒という事態は避けれたものの、妙に情けない気分になってしまうのは、彼だからなのか、彼女に面倒をかけたからのか。


「本当に大丈夫ですか? 歩けます?」

 裏心など無く、本心から心配してくれる優しさに満ちた女の顔が目の前にあった。

 まだ彼女が幼く、近所の公園に遊びに連れて行ってあげた時にはやんちゃの盛りで、自分の方が心配していたものだったのだが、いつの間にか一人前の女性に成長し、反対に自分が心配されるようになってしまった。


(僕が年を取ったわけだ……)

 心の中で自嘲じちょうし、昔を思い出しながら彼女の顔に目を向ける。


 やんちゃだったが、そこがまた可愛くもあった幼い頃。

 慣れない和服に身を包み、しどろもどろな口調で接客をこなしていた四年前。

 そして現在いまは――。

 すっかり着慣れた和服姿で、一生懸命に家業に打ち込む彼女はそう、美しい。見栄えばかりに気を使い、中身が全く無い職場の若い看護師(おんな)達とは比較にならないほど。

 回想を終え、今日、職場であった嫌な事を思い出し……彼は心の欲求通りに身体が動いた。いや、動いてしまった。


「へっ!? せんせ――」

 掌に触れるサラリとした和服の布地。腕に跳ね返ってくる柔らかくて年相応の張りのある感触。頬をさらりとした髪が撫で、鼻孔には種々の料理の匂いとともに彼女の優しい香りが流れ込んでくる。


「ゴメン。少しだけ……」

 腕の中で身体を強張らせたのは解っていた。けれど、健気けなげな彼女は一言で身体の力を抜いて委ねてくれる。

 本当に健気で、負けん気があって人一倍面倒見が良くて優しくて……だから、だからこそ甘える訳にはいかない。


 何と言っても、今の彼女には想い人がいる。その相手は自分も好ましく思っている男で、彼は現代に適応しようと、小夜子に内緒で出口に頭を下げ、真摯に教えを乞うている。

 そんな若い二人に自分が甘えてしまえば、迷惑をかけることになる――大人は決してそんな事はしない。それは彼が自身に課した自分の在り方だった。


 わずかな時間、出口は強く小夜子を抱きしめ、そして解放する。



「ありがとう、元気出た」

「……今日の先生、ちょっと変です。また、お仕事で何かあったんでしょう?」

 転ばないように強くしがみ付いた風を装ったのだが、本当に勘が良い――いや、お客の事を良く見ている。そんな事を思いつつ、彼の頭には今日の出来事が過った。



 ――――――――――――――――――――



 今日、出口が診察の合間に手洗いへ行き、診察室へ戻っている時だった。


「えー!? 出口先生ってこんなのが好みなの? 全然大したことないじゃん」

「でしょ? 古臭い着物なんか着ちゃってさ、絶対あたしらより年上のオバサンだよね」

「うんうん。絶対、ウチらの方がイケてるし若いって~」

 手洗いの近くに設置されている給湯室からそんな声と、スマートフォンでも操作しているのか独特の電子音が聞こえてくる。

 声の主は他ならない、医院に勤務している若い看護師達だ。給湯室での簡素な雑談事態は気にするものでも無いが、自分の名前が出た事と、その音量についつい足を止めてしまった。


「だよね。こんなのに貢がなくても、あたしらに声掛けてくれればいーのにね」

「そうそう、食事でも何でも行ってあげるよね」

「おやおや、何でもにはラブホも含まれてそうね」

 声音から察するに、しきりに出口にモーションを掛けてくる若い――と言っても二十代中盤の――3人組のようだ。

 この3人、言動もそうだが、身成に関しても、出口は品が無いと思っている。

 髪をブラウンにするのはまあ良いとしよう、だが、ネイルアート――全部の指ということまではないが――をしてきたり、ナース服を妙に着崩してみたり。勤務時間中もちょくちょく化粧を直しに行き、アフターファイブの露骨な誘いも多く、出口は辟易しているところだった。

 そもそも、衛生的な身成を心がけねばならない病院勤務で、思い思いに伸ばした爪に装飾をしたり、着崩した服装をするのはいかがなものかと思ってしまう。口下手を自覚する出口自身は、貼り紙や配布するプリントなど、書面で注意を促すようにしているのだが、この3人の目には入っていない。もちろん、出口以外にも看護師長や主任看護師からも口頭で注意されているのだが、彼女達は『ナニよ、自分がババァだからって偉そうに!』と、全く聞く耳を持っていなかった。


「もちろんよ。あんな料理屋の女なんか、メじゃないくらいに骨抜きにしてやるって」

「おやおや、抜け駆け宣言ですか~?」

「抜け駆けしても、玉の輿はウチらで共有してよね」

 キャハキャハと品のない笑い声を上げる。

 3人の大きすぎる笑い声に、出口は内心、この廊下は患者も通るんだぞ! と憤慨してみるが、思うだけでは当然伝わらない。大人しい彼にできる事は精々、わざとらしく足音を立てて歩くことくらいだった。

 その足音も意に介さず、3人は件の料理屋の女をこき下ろす。


「先生もこんなオバサンじゃなくて、ウチらみたいに若いコの方がイイに決まってるのにさ、きっと、この女に何かソクバクされてんじゃない?」

「あー、ありそうありそう。昔の女で弱みを握られてズルズルとか?」

「だから、あたしらが誘ってあげてもダメなんじゃない」

 そんな訳ないだろう! と怒鳴りたい気持ちを抑え、彼は給湯室の扉を開く。


「「「あ、出口先生、お疲れ様でーす」」」

 練習でもしているのではないかと思ってしまうほど、息もピッタリに3人が笑顔で挨拶をする。

 先ほどまで悪口あっこうが嘘のように、にこやかな顔が出口へ向けられた。


「お疲れ様、3人ともここに居たんだね。主任が探してたよ?」

 彼は仕事柄鍛えられている感情を表に出さない爽やかな表情と声で、3人に何でもない事の様に言う。もちろん嘘なのだが、日頃から忙しくしている主任看護師の彼女ならば、これ幸いとこき使ってくれるだろうと打算して。


「「「は、はーい」」」

 素直に返事をするものの、3人組の笑顔が引きつっているのが、くだんの主任看護師の人となりを解りやすく表しているだろう。

 その3人組はチラチラと出口へ意味ありげな視線――出口から簡単な仕事を頼まれれば、それを盾に他の仕事を断れるから――を送ってくるが、彼はにこやかな顔で気付かない振りをし通した。


 にこやかな出口の顔――。だが、その内心は

(表面だけ取り繕った人間に、小夜ちゃんの良さが解ってたまるか! だいたい、彼女はお前たちより年下の可愛い娘だ)

 と、怒りに満ちていた。



 ――――――――――――――――――――



 その年下の可愛い娘にそんな怒りとも不満とも言えなくはない愚痴をこぼして、心の内を吐き出してしまえばどれだけ楽になるだろうか。しかし、それは彼女への罪悪感も同時に抱え込んでしまう。何度となく考え、幾度も導き出した結論。それを今日も巡らせ、彼は彼女に負けないように爽やかな笑顔を張り付けて

「大丈夫。何があっても、小夜ちゃんの顔見てお酒を呑んだら僕は元気になるから」

と答えた。



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