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――平成25年8月某日――
「……暑い……」
真夏の太陽が照りつける中、あたし――藤原小夜子――は徒歩で学校から帰っていた。
今日は夏休み中に設けられた登校日だ。
何十年も前に終わった戦争の悲劇を忘れないようにするための平和学習をする日で、ここら辺の小学校から高校は軒並み登校日となっている。
戦争をしないという事は大事だけれど、この炎天下の中わざわざ登校し、クソ暑い体育館で今や実体験者から聞いた話を元に別人が語るのは如何なものかと思う。
昔は戦争の惨禍を生き残った人が、辛い気持ちを堪えながら話してくれたらしく、あまりにも凄惨な話だった時は、トラウマになる子もいたらしいが……今は全くそんな事はない。
もはや、酷暑の体育館で戦争の悲劇だと言われる話を我慢して聞き、
『戦争なんてものがあったから、貴重な夏休みの一日を潰して苦行しなくていけない』
という間違った方向に皆が理解しつつある。
まあ、今日もそんな良く解らない話を聞かされ、HRで先生が配り忘れた夏休みの宿題であるプリントを多数配布され、ゲンナリした気分でバス停に向かえば、夏休みで運行本数が少なくなったバスに見事に置いて行かれていた。
そのお陰で、徒歩で帰宅する羽目になるという、季節に対して殺意を抱きたくなるような状況だ。
クラスメイトは親に迎えに来てもらったり、次――1時間以上後――のバスを待って帰るらしく、近くのコンビニや喫茶店に消えて行ったのだが、あたしは家業である小料理屋の手伝いをするために歩いて帰る決断をした……のだが、この暑さ、尋常ではない!
「うぅ。喉、乾いた」
気持ちが挫けそうになった所で、目の前に大きいスーパーが現れる。
飲み物を買って、室内のベンチスペースで涼みたい気持ちを懸命に抑え、あたしは鞄から水筒を取り出すと、一気に呷る。
保冷タイプの水筒に入った冷たいお茶が、あたしの喉を潤す。
「早く帰って仕込み、手伝わなきゃ……」
ちょっとだけ気力が戻ったあたしは、呟いて歩みを再開した。
あたしの実家は小料理屋を営んでいる。
お父さんが修行中にお母さんと知り合い、結婚後に今のお店“藤華”を構えた。
当初は周囲が新興の住宅団地だったことから、他の料理屋や飲み屋もほとんど無く、順風満帆……逆に寝る暇も惜しんで仕込みをしないといけない時期もあったのだそうだ。
しかし、サービス業の常と言うか、需要が多ければ供給も多く出てくるのがこの世界の成合。今や大手チェーン店から個人の居酒屋、果てはスナックまで、多くの料理店、飲み屋がこの町には出てきた。
当然、お客は減って売上が落ちたのだが……お父さんは経営の舵取りが上手くできなかった。
お父さんはこれまでとは打って変わり、高級料亭路線へと舵を切った。
高級食材を大量に仕入れ、お高いご馳走を用意するのだが、住宅団地の住人からすれば、高級料理に大金を出すより、大衆的な料理と値段の方が足を運びやすいに決まっている。住宅団地は家族連れのお客様が多いしね。
少数のグルメな常連さんと、高収入のお客さんは残ってくれたが、家族連れやカップルといった数多くいる客層が全くというほど来なくなってしまった。
流石に経営も苦しくなり、家族4人が食べて行くのにギリギリとなっては、お母さんも小言が多くなる。当時子供だったあたしでも、夜な夜な二人が言い争いをしていた事を覚えているほど。
そして、経営が改善されないまま、月日が流れ、あたしが中学生になった時、お母さんは言った。
『お母さんとお父さん、どっちと一緒にいたい?』
その時の事は、あんまり思い出したく無い。
最終的にあたしは、泣きながらお父さんの裾を握っていた。
『賢介さん。小夜子はあなたを選んだのよ? 例え、あなたが死んでも小夜子だけは幸せにしないと……あたしは絶対に許さないからね!』
お母さんが家を出るとき、お父さんに言った言葉である。
兄を連れ、振り向く事無く家を去っていったお母さん。その背中を見送っていたお父さんは泣いていた。そんなお父さんにあたしは、
『……今日から、あたしがお店手伝うから泣かないで』
と言った事は、今でもしっかり覚えている。
そんなこんなで、中学生の時からあたしは女将と料理補助を兼ね、朝と放課後は家業に精を出してきた。
同級生達は放課後、青春の代名詞である部活に一生懸命で、1年生だった去年は勧誘されたりもして、スポーツも好きなあたしは、自分の運命を呪ったりもしたが……あたしは、自分の青春は小料理屋“藤華”のためにと決めている。
何と言っても“藤華”の華の字はお母さんの名前――華夜子――から取っているしね。
そのためには一刻も早く帰宅し、仕込みを手伝わなくてならない。
……え? 青春と言えば恋――異性ではないかって?
そりゃ、同級生は部活以外にも彼氏彼女がどうのこうのと一生懸命だ。
女子が多いうちの学校で、男子からは全く人気の無いあたしにも、友達の茉莉彩が『メル友にどう?』とか言って紹介してくるのだが……はっきり言って、あたしは同世代の男なんてどうでもいい。
あの人生舐めてるようなバカタレ共と一緒にいるくらいなら、あたしは一生独身の方がいい!
説明した通り、あたしは放課後から夜の11時くらいまでは家の手伝いと家事で、メールなんてしている暇は無い。事前にその事を伝えているにも関わらず、
『藤原さんって、家の手伝いって言ってばかりでメールの返事無いし、ラインも見て無いよね。構われないこっちの身にもなってよ!』
とか、
『自分の都合優先って、小夜子って自己中だよな。そんなヤツ、こっちから願い下げだわ!』
とかとか。
挙句の果てには、
『イケメンのオレにヤって貰いたいんだロ? ヤってやるから、今から出て来いヨ』
など、自意識過剰と言うか、バカ丸出しの輩まで紹介され、あたしは静かにキレつつ、毎回、着信拒否にしてメアドも変えた。
ちなみに、最後に出てきた男は、お父さんが居ない時にお店にまで乗り込んで来たので、
「あたしにお造りさせたら上手いよ~。自慢の顔でやってあげようか?」
と、刺身包丁を顔につきつけながら、渾身の笑顔で言ってやったら、走って逃げていった。
しかし、その男への怒りが収まらなかったあたしは、紹介してきた茉莉彩に文句と愚痴をぶちまけ、そして……『あのバカに、そんな撃退方法があったんだ』と爆笑された。
まったく、思い出しただけでも腹が立つ!
……とにかく、あんな甘ったれ共には殺意しか沸かない。
もういっそ、十歳以上年上になってもいいから、しっかりした大人な人とお付き合いしたい。
それもこれも、この“藤華”が軌道に乗ってからの話だが……。
昔の事を思い出していたら家に着いたらしい。
あたしは目の前のドアノブに手を掛けた。
「ただいまー」
家の玄関――お店の入口とは別――から入る。
……おかしい。いつもなら、オーバーアクションで出迎えてくれるお父さんが居ない。
あたしは汗だくのまま、お店の勝手口から中に入る。
微かにだが、お店の奥から物音が聞こえるんだけど……。
「お父さん?」
一番奥の物置にしている和室からガタガタと音がするだけで返事が無い。
(まさか泥棒!? こんなビンボーなトコ狙わずに、回りの高級住宅狙ってよ!)
などと不謹慎な事を考えながら、あたしは脇に立てかけているモップを手に、和室の襖を開――こうとしたら中から開かれ、お父さんが飛び出して来た。
「小夜子。おかえりー!」
飛び出して来るやいなや、お父さんはあたしに抱きつき、抱え上げる。
「ちょ、お父さん!」
抱っこされた格好になったあたしは、嫌悪感も露わにお父さんに怒鳴る。
「お父さんは一人で寂しかったよ。小夜子はお父さんの元気の源だよ~」
あたしの怒鳴り声などどこ吹く風。お父さんはあたしに頬ずりし、どさくさに紛れて胸やら尻やらを撫でてくる。
「っ! いい加減にしろ!」
曲がりなりにも年頃の娘であるあたしは、持っているモップを力いっぱい振り回した。
――――――――――――――――――――
「……全治二週間だな」
包帯を巻き終えたお医者の出口先生――近所に診療所を構えているお父さんの中学時代の同級生――が苦笑しながら言った。
「……そうか。全治二時間に負からんか?」
「治癒期間は負からん。診察料と治療費は日本酒一本に負けてやろう」
「先生。それ、負けてないし高過ぎです」
出口先生が提示した診療費に、あたしは間髪入れず異を唱えた。
「ははっ。小夜ちゃんが御酌してくれるんだったら、一合でいいよ?」
「ホント!? お客さんが少ない時って条件付きでお願いしてもいい?」
こういう時、げんきんなあたしの頭は結構な速さで回転してくれる。勉強は出来ないのにね。
お店で出している日本酒――純米酒以上しか置いてない――の一番高いやつでも一合で1,500円で、出口先生が一合開けるのにかかる時間は10分くらい。お父さんの診療費はざっと見積もっても2,500円以上だろうから、その差1,000円が、地味で若オバサンを自覚するあたしの10分間の御酌で賄える事になる。しかも相手は子供の頃から知っている出口先生で、お父さんに御酌をするのと心情的には変わらない。いや、年齢の割には爽やかで顔も良い出口先生の方が良いぐらいだ。
「OK! 交渉成立ってことで」
瞬時に計算してニコニコ顔のあたしに、出口先生が持ち前の爽やかな笑顔で答え――横からムスっとしたお父さんが割り込んできた。
「……智――出口先生の名前――、お前は人の娘を酌婦扱いするとは――」
「お父さんは黙ってて!」
冷たさ全開で睨みつけるあたし。
「いや、お父さんは小夜子の事を心配してだな――」
「だったら、お父さんが怪我をしなければ何事も無かったんだけど?」
「ご、ごめんなさい。ゴメンナサイ」
怒気をはらんで低くなったあたしの声に、お父さんは電光石火で土下座する。
「さて、俺はそろそろ時間だし、戻るね」
土下座するお父さんを尻目に、出口先生は優しい笑顔でうちを後にする。
あたしは出口先生を玄関まで送り、
「今日もありがとうございました。今度はご来店をお待ちしてます」
と言って頭を下げる。
「うん。小夜ちゃんの御酌、楽しみにしてるよ~」
出口先生はそう言って手を振り、診療所へ戻っていった。
あたしが和室に戻ると、お父さんは包帯が巻かれた自分の右手を見て、ぼんやりしていた。
お父さんは、あたしが帰ってくる直前――ちょうどお昼のランチタイムが終わって店を閉めた時、片付けていなかった酒瓶に足を取られて転んでしまったのだそうだ。
普段からあれほど片付けろと言っていたにも関わらず『メンドクサイしいっか~』と放置していたのだ。まったく、プロの料理人が聞いて呆れる!
しかも、よりにもよって、利き腕を捻挫してしまったらしく、あたしが戻ってくる前に痛み止めを塗って誤魔化そうとしていたらしい。
そんな手であたしを抱き上げ、いたらん所を撫で回したりするもんだから、腫れが酷くなって、出口先生からも怒られていた。
……言っておくけど、決してあたしがモップで叩いたりしたわけでは無い。
「どうしたの?」
俯いているお父さんに声を掛ける。
「いや~。明日、予約が入っている事を思い出したんだ」
「何人の予約? 2人? 3人?」
何組からか予約を受ければ、メモだけはしても、あたしに言い忘れる事はたまにある。
そう思って気楽に聞いた。
「確か20人」
「は? あたし、聞いて無いんだけど」
「うん。忘れてたから言って無い」
「……20人なんてお店貸切になる人数じゃないの! 手伝いも頼めて無いし、お父さんが怪我もしちゃったのに、どーするのよっ!!」
お父さんから伝えられた人数に、あたしは本気で怒鳴っていた。
「お父さんが気合入れて料理する。小夜子が気合入れて運ぶ。解決――」
「しないわよ! フザけた事言ってると、二度と背中流してあげないんだから!」
収まらない怒りに任せて言い返すと、お父さんはシュンと小さくなってしまった。
お父さんは修行中の怪我が元で、一人で背中を上手く洗えない。そのため、3~4日に一度、あたしが背中を流しており『背中流してあげない』はお父さんへの最上級の脅し文句だ。
ちなみに、背中を流す時のあたしは服を着たままか、下着の上に大きいバスタオルを巻いてからだ。
親子で裸のお付き合いを夢見る父親は多いようで、お父さんも時々一緒に入らないかと誘ってはくるが、あたしは『父親なんかに裸を見せれるか!』という考えのため断っている。
背中は流しても一緒にお風呂に入る事は断じて無い。
「うぅ。ゴメンナサイ。小夜子大明神様~」
情けなく縋ってくるお父さん。滅茶苦茶ウザい。
こんな巫山戯たように見えるお父さんだが、こと料理に関しては凄い。
今回の団体さんの事だって、怪我してないお父さんが本気になれば20人分の料理を用意できるし、出て行ったお母さんが本気になれば20人への配膳からお酒の注文まで何とかなるだろう。……実際に昔、見たこともあるし。
だから、20人という人数を相手にできないのは、あたしの力不足の面もあるため、一方的にお父さんが悪いと責める事はできない。
「だったら、今日の仕込みをしてる間に、明日のことも話し合いましょ」
「うう。頑張る。……あと、お父さんの背中なんだが……」
全く、調理場に立ってない時はダメダメなんだから……。
「はいはい。無事に明日を乗り切ったら、ちゃんと背中流すから、頑張ろうね」
「おぉ。それを聞いて安心した」
あたしの返答に、目に見えて安堵するお父さん。だったら最初からしっかりしろっての。
それから、あたしは汗を流して、着物のように見える作務衣に着替え、お父さんと遅めの昼食をさっさと済ませると、二人して調理場での仕込みに入った。