16品目
海水浴場から戻ってきたあたしは、お店の調理場で買ってきたサザエと小貝を洗っている。隣りではヒロがカサゴの下処理をしていた。
帰りの車中で、茉莉彩は打ち上げを“藤華”でするべく、山内さん達に積極的にアプローチしていた。
前に来た時、二次会も残ってくれていたメンバーだけに、二つ返事で即答――別の車になった組には、茉莉彩は電話まで駆使して確認した――だったようだ。
あたし達をウチに降ろして山内さんと岩村さんは車を置きに一度帰ったのだけど、二人共ウチに結構近い所に実家があるらしくて、すぐに来ると言っていた。
どうせ用意する時間がかかるから、ゆっくりでいいよとは伝えてあるけど。
そんなワケで今、ヒロとあたし意外の4人は、残ったアラカルト――フランクフルトやフライドポテト――をアテに、先に出しておいたジュースやお酒に口を付けつつ、調理場の前にあるテーブル席で歓談している。
「それで、小夜子ったら相手の顔に刺身包丁を突きつけたんだってー」
調子の良い語り口で茉莉彩が言うと、笑いが起こった。
声からして一番笑っているのは浜崎さんなんだろうけど、あたしをネタにするのは止めて欲しい。大体、そのネタどんだけ引っ張るのよ、もー。
今すぐ、アンタが紹介したのがロクでも無い男だったからでしょーが! と言い返しに行きたい衝動をいかんいかんと頭を振って抑え、あたしは目の前の小貝に集中した。
小貝は洗い終わると、直ぐにザルに打ち上げて水気を良く切る。
洗う前に火に掛けた鍋の水に塩を入れてお玉でかき回し、水を切った小貝を一気に放り込んだ。
小貝は茹で過ぎない方が良いので、ほぼ水の状態から火に掛け、沸騰する前には火を止める。こうする事で貝の身が硬くならずに済む。あと、お湯の量はギリギリ小貝が浸かるくらいにすることで、貝から出た出汁を余すことなく活用する事ができる。
そうこうしてる間に、フツフツと登ってくる小さな泡の数が増えてきた鍋へ、あたしは調味料入れから料理用のお酒――純米酒――を取りだしてお玉に取ると、回す様にして鍋に入れた。これは貝の磯臭さを軽減する処置なんだけど、磯の香りを好む人ならなくても良い。
一度は減った泡の量が増え、もう少しで沸騰する頃合で火を止めて鍋に蓋をして、氷水を張ったボウルへ鍋を浸ける。今日は時間が無いのでこれに氷を追加し、冷めるのを待てば完成。
海辺で食べられていた夏の風物詩、小貝の塩茹でだ。
「これで良し! っと。ヒロ、あたしはキュウセンの塩焼きにかかるけど、本当に良いの? お味噌汁とお刺身任せて……」
「ああ。それでも作る品は小夜子の方が多いからな。逆に、サザエの壷焼は俺がしても良いのだぞ」
「ううん。そんな時間があるなら、休日出勤のヒロは早めに向こうに混ざって楽しんでよ」
週に一度しかない貴重な休みを使わせてる負い目から言うのだけど、ヒロは逆にムスっとした顔をして、
「小夜子の学友との親睦会だ、俺が行くより小夜子が行った方が良いだろうに」
と言ってきた。
「ヒロを働かせてあたしが遊ぶなんてできないわよ!」
「ならば、さっさと二人でやって終わらせばいい」
さすがにあたしが遊んでヒロを働かせるのは無いと思い、強い口調で言うのだけど……見事にヒロに言いくるめられてしまった。
いいもん。絶対に美味しいつぼ焼き作ってお礼してあげるんだから!
ヒロの言葉に従うワケではないけれど、それからは口数を極力少なくし、結構な速さで手を動かす事にした。
まな板を流しに設置し、キュウセンのウロコと内蔵を除き、塩で洗ってヌメリを取る。濯いで水気を拭き取ると串を打って荒塩を振る。あとは塩が馴染んだら焼くだけだ。
そこまで用意をした所で、ガラガラとスライド式の扉を鳴らして岩村さんが入って来た。
「お待たせ。って、まだ山内来てないの?」
「先に――って、そうだけど」
何かあったのかと福田さんが目を丸くする。
「いや、俺が家を出るより前に今から出るとメールあったからな」
岩村さんが福田さんに言うと同時に、ガラガラと再び入口の扉がスライドして洒落っ気の無いイケメンが入ってくる。
「悪い、遅くなった。家出る時に、晩酌してた親父に捕まってた」
悪びれる風でもなく断り、山内さんは席に着くので、あたしはすかさず、
「生でいいですか?」
と聞いた。
「あー、うん。おっと会費会費。2,000円だっけ?」
茉莉彩に設定された今日の会費を生ビールと引き換える形で受け取る。この値段では材料費と飲み物2杯分にしかならないけど、今回、あたし達の料理と生ビールと、日本酒、焼酎、ジュースのボトルにを用意している。
そんな事をすれば儲け無しになるが、それはそれ。この場で料理と給仕の練習をさせて貰ってると思えば、材料費がかからないだけでもありがたいのだ。
……ただ、ヒロを巻き込んじゃったことには抵抗があるんだけど、確かに、一人より二人の方が早いし、今日は甘させてもらうことにした。
お金を受け取ると、先に始めてるよと茉莉彩に言われ、あたしは頷いて調理場へと回れ右する。
調理場へ戻ってくれば先程の小貝が程よく冷めており、小鉢に取り分け、別の小皿へ煮汁に醤油を足したタレとお盆に乗せて席まで運んだ。
「小貝の塩茹でです。爪楊枝で貝の身を取り出して、お好みで小皿のタレに浸けて下さい」
お盆から小鉢と小皿を取り、並べて行く。
浜崎さんの前まで手を伸ばしたところで、
「和服じゃなければ普通の女の子なのにね」
と言われ、思わず顔を上げてしまった。
今のあたしは仕事用の和装ではなく、Tシャツにショートパンツという夏真っ盛りの私服姿に申し訳程度のエプロンを着けている。もちろん海でしてもらったメイクはそのままだ。
……でも、和装の時だって薄くだけどメイクはしているんだけどな。
「小夜子の和装は色が地味だから」
「そう、それよ! 女将さん、もっと若々しい色の着物とか持ってないの?」
身を乗り出し、大きな声で浜崎さんが言った。なんだか妙に目が据わっているんだけど……これってやっぱり酔ってるんだろうなぁ。って待った。確か最初の一杯しか呑んでないんじゃ?
自分の疑問を確かめるように、横にいる岩村さんの方に顔を向けると、苦笑と一緒に答えが返ってきた。
「……浜崎は酒が回るのが早いんだ。長丁場になるけど」
ヒソヒソ声で教えてもらった。
「で、どうなの。無いの?」
「いや、ありますよ。あんまり似合わないから着てないですけど」
接客を始める頃、お店用の経費に自分の貯金を足して買ったピンク色を基調にした着物――に見える作務衣――があるにはある。ただ、洒落っ気の無いあたしにはあまり似合っておらず、一ヶ月もしない内にお蔵入りになってしまったけど。
「後で見せて!」
「は、はい」
凄い言い切られ、思わず承諾してしまう。しまったと思ったけどもう遅い……。
「やった!」
「えー。あたしが言っても見せてくれなかったのにずるーい」
浜崎さんの横では、茉莉彩がわざとらしく頬を膨らませて拗ねていた。
調理場へ戻る時に生ビールのお代わりと焼酎を頼まれたので、ジョッキと一緒に焼酎の水割りセットも持って行った。
再び調理場へ戻り、キュウセンをオーブンに入れ、焼き上がるまでの時間を利用してサザエの処理にかかる。
蓋の隙間から貝用にしているナイフ――刃がギザギザになってるヤツ――を差込み、貝柱を切り離すと蓋付の身が先に取れて、後から肝の部分が取り出せる。大きめのものは刺身用に薄くそぎ切りにし、肝も酒蒸しにして添える。盛り付けに貝殻を活用するのも大事だし、ツマにはヒロが収集した海藻――結局クーラーボックスに入れて持って帰った――も使わせてもらう。
本当に遊んでる時くらい仕事を忘れてくれたらいいのに、と心配してしまうじゃない。
サザエの刺身を用意した所で、キュウセンの片身が焼けた香りが漂ってくる。串を回して返し、もう片身を焼いている間に刺身を持って行こうとしたら、ヒロから声が掛かった。
「これもついでに持って行ってくれないか」
「うわっ! 凄い。このカワハギの薄造り、フグにも負けないんじゃない?」
「そんな事は無い。フグには勝てん」
絵皿の柄が透けるほど薄く切られたカワハギの身。浅葱と紅葉おろし、蒸した肝も添えられており、一級品のお刺身で、あたしは慌ててカワハギとサザエのお刺身を席まで運ぶのだった。
給仕から戻ってくればキュウセンがちょうど焼き上がっており、オーブンのスイッチを切って予め用意しておいたバットに取り出す。
バットの上で身を崩さないように気をつけながら串を抜いて行く。串が抜き終われば角皿に盛り付ける。もちろん大根おろしとスダチを忘れてはいけない。
8人分の焼魚が用意できた所で味噌汁にも目処が立ったので、焼魚と共にヒロを宴席へ送り込もうとしたけど……。
「まだ壷焼が残っている」
と言って、こっちを手伝おうとしてくれた。
でも、これだけは絶対ダメ! あたしはヒロがどれだけ言ってもサザエの壷焼だけは手を出させないようにと決めて反論した。
「壷焼は直ぐに作るから、冷める前に焼魚を持って行ってよ。そのままご飯食べてていいから」
「手分けした方が早いじゃあないか」
「だから焼魚を持って行ってよ!」
「焼魚は持って行くが――」
「つべこべ言わないで行って!」
「……解った」
最後は強く言ってしまったからか、ヒロは微妙な顔をして焼魚を持って言った。
ダメよ……壷焼だけはヒロへのお礼にあたしが作りたいんだから。
刺身の時と同じ要領でサザエの身を取り出し、口の部分を削ぎ落として一口大に切り肝と一緒に殻に戻し、上から出汁醤油――昆布出汁と塩、醤油、みりんを混ぜて作ったもの――を注ぎ殻ごと火にかける。
火にかけると言っても、直火で焼くのではなく、水を張ったフライパンで炊くのだけど。
サザエの壷焼には二種類あり、サザエの口に醤油を垂らして直火で殻ごと焼くやり方と、一度中身を取り出し、一口大に切って殻に戻して焼くやり方がある。あたしがやったのはもちろん後者なワケだけど、直火にはかけていない。直火にかけてしまうと、醤油が焦げ、風味に焦げ臭さが混ざるのがあたしは嫌だから前述のような方法を取っている。
もちろん、醤油が焦げる芳ばしい香りが好きという人もいるから、一概には言えないけれど……。
フライパンの水とサザエの殻口の醤油がクツクツと炊け出した頃、ヒロがお盆にジョッキやグラス乗せて戻ってきてしまった。
「生ビールと日本酒、ジュースのお代わりだそうだ」
「生ビールはあたしが注ぐから、日本酒の用意をお願い。ジュースはこのボトルを持って行って」
ヒロはまだ生ビールを上手に注げないでいたので、そっちはあたしが準備する。そして、サザエの壷焼に手を出されないようにするため、あたしは敢えて日本酒の準備を振った。
生ビールを注ぎ終えたジョッキをお盆に乗せ、サザエが入ったフライパンの火を止めた。
フライパンからはすっかりと水が無くなり、磯の香りと出汁醤油の芳香が漂っている。それを一人当たり2個づつ器に取っていく。
途中、ヒロがチラリとこちらを伺ってきたので、
「飲み物、早く持って行って!」
と厳命した。
並べ終わったサザエを持ち、ヒロに続いて席まで運んだ。
大学生4人はお酒もいい塩梅のようで、薄らと頬が赤くなっており、話にも花が咲いている。普段は人見知りするくるみまで饒舌に喋っていた。
サザエを配膳し終えると、とんぼ返りで調理場に戻り、ご飯とお味噌汁、サザエの刺身と壷焼を一つづつ用意して、奥の和室へと運んだ。
「お父さん、お待たせ!」
勢い良く襖を開けると、お父さんは横になって見ていたテレビを消し、起き上がって卓袱台の前に座った。
「凄く待ったよー。小夜子が居なくてお父さん寂しいんだけど」
「はいはい。今は茉莉彩達が来てるから今度ね」
手早く配膳して戻ろうとすると、エプロンの裾が掴まれた。
「今日はお父さん、ちゃんと小夜子の言いつけ通りに掃除もして大人しく待ってたんだよ? ご飯以外にご褒美があってもいいよね」
あーもう。この忙しい時に!
甘えん坊モードになったお父さんはとにかく面倒な行動を取る事が多いので、お盆を構えて身構えるんだけど……。
「茉莉彩ちゃんに聞いたんだけど、水着貰ったんだよね。明日で良いから水着で背中流して〜」
「嫌だってば!」
行動ではなかったものの、面倒な希望を口にするお父さんに、あたしは厳しく言い放った。
大体、お父さんの背中を流すためにわざわざ水着に着替えるって、どれだけ面倒だと思ってるのよ! しかも、一度着てしまえば洗濯もしなくちゃいけなくなるじゃない。
「うう〜。ヒロ君には見せたのにお父さんに見せないなんてずるーい。不当差別だー!」
「じゃあ、はい」
駄々をこねるお父さんに、スマートフォンを取り出し、今日撮ってもらった写真を見せた。
茉莉彩とくるみも一緒に写ったそれを見て、お父さんの目の色が変わる。
「小夜子、この水着でお父さんとお風呂――」
「絶っっっ対イヤ! 取り敢えず見せたんだからからもう行くね」
語気強く言い放ったあたしは、スマートフォンの画面表示をオフにし、ピシャリと襖を閉めてのの字を書くお父さんがいる和室を後にした。
調理場に戻ってエプロンを外そうとしたところで、ヒロがいる事に気が付いた。
もー。何で先に飲み食いしててくれないのかなー。真面目なヒロの事だから待っていたのかもしれないけど……。
でも、調理場に立ってる姿は何かの作業をしているようだった。
「ヒロ?」
エプロンを外したあたしは調理場に向かいながら声をかける。
「小夜子か。丁度良かった」
調理場の作業台の上に、お寿司が2貫盛られたお皿がある。どちらも白身の魚で、艶やかな光沢を放っていた。ご丁寧に醤油が入った小皿まで添えられて。
「お寿司? どうしたのこれ」
「空きっ腹に呑むと良くないからな。タイとカワハギを握ったから食べてくれ」
確かにお腹が減っている時など、ジュースを飲むと胃に良くないのは知っているけど……そんな事を気遣ってあたしの為に? あー。ヤバイ。お腹が減っている事もあって何だか凄く感動するだけど。それに美味しそうだし……。
「あ、ありがとう……。でもこれ、ヒロが握ったの?」
「ああ。大した腕では無いからさっさと食べてくれ」
何だか落ち着き無くキョロキョロと視線を動かしているヒロ。そんな彼にコクリと頷き、小皿の醤油を少しだけ付けて頂いた。
最初に口に入れたのはタイだった。
昆布締めにされ、水分が飛んでしっかりとした歯ごたえに加え、昆布とシャリの旨味が口の中を満たし、噛み進めれば山葵のピリリとしたアクセントと、タイ本来の甘さがじわりとにじみ出てくる。このコラボレーションに、押し寿司の時とは違う満足感があたしを包んでくれた。
美味しいからと呆けているわけにもいかず、次にカワハギを頂いた。
カワハギは塩で〆てあったようで、ネタからは引き立った甘さを感じた。タイよりも歯応えのあるそれは、良くできたシャリに負ける事なく、噛み進める事に違った味わいを出してくれる。数回の顎の動きでシャリが甘く感じだした頃に、カワハギの身からは薄らとした塩気を感じ、それがまた良く合うのだ。
たった2貫の握り寿司――それがもたらしたものは大きく、あたしは感じたままを口にした。
「凄く美味しかった。これなら、お金払ってでもまた食べたくなるよ」
「…………口に合って良かった。友人が待ってるぞ。行こう」
ちょっとだけヒロの口角が上がり、いつもとはちょっと違う柔らかな表情が向けられる。あたしはそれに返事をするように、微笑みを返した。




