13品目
あたしはヒロに連れられて、夕飯の材料を生鮮品コーナーで買い揃える。
頭が元通り働いてくれるまでには割と時間がかかり、最後はどっちが案内しているんだかって感じになってしまったけど。
「買い忘れは無いな? すっかり遅くなってしまったからな、急いで帰ろう」
洋服の入った紙袋と食材の入ったエコバックを持ったヒロがあたしを急かす。
「そうね。こっちから行くと駅に近いから付いて来て」
荷物を持ってもらっているあたしは、身をひるがえすと、駅までの最短ルートへと先導した。
ショッピングモールで最も人通りが少ないゲームセンター脇の通路に差し掛かった時、あたしの耳に聞き覚えのある男の声が響いてきた。
「な、俺が行こうっていってんだからさー。今からが楽しー時間じゃん?」
妙に軽薄なこの声は……。
あたしの頭に、二度と顔を見たくないと思っていた男の顔が浮かんでくる。
「えー。行こうとか言われても。あたしこれから仕事だし」
不機嫌全開の若い女の声。
会話の内容からすれば、男が女をナンパでもしてるのだろう。
あたしの予想通りの男だとすれば、ハッキリ言わないとしつこくて面倒臭いんだよね。
そう思ったあたしは、無視すれば良いのに、声のする方へ足を向けてしまっていた。
「仕事なんてサボっちゃえよー。楽しい方がいーだろ? な?」
「ちょ、ヤダって」
あたしの視界に二人が入った時、男は女の手首を掴んでいるところだった。
「やめなさいよ! 嫌がってるでしょ」
あたしは語気鋭く、男――予想通り、かつてあたしが包丁を突きつけたバカだった――に怒鳴った。
「あん?」
あたしの声に、金色に髪を染めて軽薄を絵に書いたような男が声を出してこちらを向く。それに一拍遅れて、茶髪に染めた髪が不似合いなほど綺麗な女の人も顔を向けてきた。
「オメーは……」
「知り合い? あたし、仕事あるから手を離して」
男はあたしを見て露骨に嫌な顔をする。
対して女の人は男に掴まれた腕を振り解こうとしているんだけど、思い通りにはいってないようだった。
「いや、昔振った女だよ。俺が忘れられないみたいでウザくてさー」
女の人を何とか引き止めたままの男がヘラヘラとした顔に戻ってサラリと言い切った。
コラコラ、振ったのはあたしだし、今、この瞬間まで綺麗さっぱり忘れてたわよ。何勝手に捏造してんだか。
「小夜子、知り合いか?」
呆れているあたしに、ヒロが小さな声で耳打ちしてくる。
何か今、寒気を感じたんだけど、何で? と思いながらも、あたしは経緯を簡潔にまとめて口にした。
「昔、言い寄られた事があるんだけど、あんな感じで凄く嫌だったから――」
「ふん」
言いかけた内容を遮られ、ヒロが鼻で笑った。それこそ氷よりも冷たく。
「自尊心のために嘘を言うとは、小物の極みだな」
冷たい口調のまま、ヒロは小声で言ったのだけど……。
「何つった? 聞こえてんぞテメェ!」
本当かどうか男が目を吊り上げ、憤怒の表情でヒロの前まで来て――
パァンッ!
と軽快な音と共に、突然ヒロの左頬を殴った。
「中古女連れてるくれーで、チョーシ乗ってんじゃねぇぞ」
男はヒロに勝ち誇った顔で言う。
待て、アンタに中古にされた覚えは全くないんだけど、それはこの際良い。
殴られた方を心配して見ると、ヒロは殴られた動きに合わせて逸していた顔を正面に戻し――
「何をするか、キサマァ!」
気合一声、ヒロは怒鳴り声を上げると、男の頬へ強烈なビンタを見舞った。
バシン! という先程とは比べ物にならない程の重い音をたて、男の体が壁まで吹き飛ぶ。
えっと、今のってビンタだよね?
唖然としているあたしの前で、ヒロは男に近づくと胸ぐらを掴み上げる。
「テ、テメェ、俺が手加減してやったのに本気で殴り――」
バシッ!
再びヒロのビンタが男の反対の頬に見舞われた。
「しょ、しょーがい罪だ! ケーサツ――」
ゴスッ!
今度はヒロの拳骨が男の脳天に炸裂した。
今まで聞いたことのないような凄い音に、あたしは耳を塞ぎたい衝動に襲われるが、耳の手前で何とか止める。
「近頃の餓鬼は口の聞き方も知らんのか!」
「……ス、スミマセン。カンベンして下さい」
立て続けに叩かれた事で男は一気に縮こまり、ガタガタと震えながら頭を地面に擦りつけていた。
言い合いはしても、ヒロの本質は真面目で大人しいと思っていただけに、あたしは感情を爆発させてるヒロを見ていて怖くなってしまった。
恥ずかしい話、膝もカタカタと震わせる程。
「失せろ! その面二度と見せるな!」
ヒロの怒鳴り声に我に戻ると、男は脱兎の如くこの場から逃げ去ったんだけど、ヒロは殴られた怒りが収まらないのか、
「胸糞悪い。小夜子行くぞ!」
と言って、ビンタする前に地面に置いた紙袋とエコバックを持ち、あたしの手を引いてこの場から足早に去った。
「待って、ちょっとヒロ。そんなに強く握られたら痛いよ」
ゲームセンターから少し離れた所で、あたしはヒロに何とか抗議の声を上げた。
かなりの力で握られていたからか、あたしの手首は血が止まって青白くなっている。
立ち止まり、微妙な表情のヒロに手を離してもらうと、あたしは手首をヒラヒラと振って血流を促し、深呼吸をする。
深呼吸したくらいでは拭えない恐怖心が未だに膝を震わせてるけど、殴られたヒロも心配だし、お礼とか言いたいこともあるから、意を決して口を開いた。
「殴られた所、大丈夫?」
「ああ。あんな青瓢箪の情けない一発など痛くもない」
一応と思い、ヒロの顔をマジマジと見たが、左頬が若干赤くなってるけど、内出血したり、切れたりはしてないみたいだった。
「……ありがとう、ヒロ。あたしのせいで怪我させちゃうトコだったね」
あたしは一拍置いてお礼を言うと、ヒロへの恐怖心を再び押さえ込み、諫言へと続けた。
「でも、今度からあそこまでしないで。今は本当に警察とか来ちゃうから」
あたしの脳裏に先程のビンタがフラッシュバックした。
叩かれちゃうかもしれない……そんな恐怖で僅かの沈黙でさえ長く感じてしまう。
「……解った」
あたしの心配に対し、ヒロはちょっとだけムッとした顔はしたけど、小さく頷いたのだった。
「しかし、未来の男はあのような者ばかりになったのか?」
さっきまでの怒っているのが解かるほどの不機嫌な口調と変わり、いつものような口調に戻ったヒロが聞いてきた。
あんなのが現代を代表する同年代の男では決して無いけど、ヒロほどしっかりした同年代の男は珍しい。あたしはヒロの機嫌を測るためにも、淡々と答えてみた。
「そんな事は無いわよ」
「そうか……小夜子は災難だったな」
逆に、ヒロからは同情するような言葉が返ってきた。どうやら機嫌は直ってきてるらしい。
でも、言葉の意味が良く解らないんだけど?
「災難って?」
「いや、あのような輩に言い寄られるとはとんだ災難だったなと思ってな」
もはや苦笑しながら言うヒロに、あたしはすっかり安心して当時の事を思い出してしまい、うっかりと怒りのボルテージを上げて口早に愚痴ってしまった。
「そうね。上から目線でメールと電話はしつこかったし、挙句の果てにお店にまで来て言い寄ってくるのよ!? あまりにも腹立ったから、顔に刺身包丁突きつけて追い払ってやったわよ! あの時は本当に災難だと思ったわ!」
あたしの愚痴にヒロは一瞬目を丸くし、
「くくっ……すまん。はっはっは!」
一言断って大声で笑った。
「くくっ、そこまで出来れば気持ちが良いくらいだな。あの小心者にはさぞかし堪えたことだろう」
「うん。あの時も走って逃げていったわ」
何だか、武勇伝みたいで女としてはどうだろうと思うけど、ヒロの機嫌が良くなったから今日は良しとしよう。
だって、怒った時のヒロは怖いから、いつもの様に軽口を叩ける方がいいもん。
ヒロがひとしきり笑い終わった所で、小走りの足音が聞こえてきた。
一瞬、あの男が報復に追いかけて来たのかと警戒したけど、姿を見せたのは、女の人の方、茶髪のお姉さんだった。
「良かった。はぁ、はぁ、見つけれたぁ」
息を切らせたお姉さんがヒロとあたしの前に立つ。
「さっきは助けてくれてありがと。これ、お礼にはならないけど傷薬とカットバン。彼氏さんの手当に使って下さい」
短時間で息を整えたお姉さんはバックの中から携帯用の傷薬とカットバンを取り出し、丁寧にハンカチに包んでからあたしに手渡してきた。
「ひぇ!? か、彼氏とかじゃ無いです!」
似合って無い茶髪だけど、美人に変わりは無いお姉さんからの発言に、あたしは大いに驚き、本日何度目かの裏返った声を出してしまう。
「え? そうなんですか? てっきり彼女さんか奥さんかと」
「ち、違います。それに、ヒロは大丈夫みたいですから、お気持ちだけ頂きます」
「そうでしたか……では、改めてお礼だけでも」
お姉さんは一言断り、
「助けて頂いて、ありがとうございました」
ヒロとあたしに頭を下げて去っていった。
「ただいまー」
「ただいま戻りました」
電車とバスを乗り継ぎ、日が暮れる前に帰宅したあたしとヒロを、
「うんうん。ちゃんと日がある内に戻ってきてくれて、お父さんは安心したよ」
と、ニコニコ顔のお父さんが迎えてくれた。
「日用品と一緒に、夕御飯の食材も買ってきたよ。今日はヒロの歓迎会って事でいいのよね?」
ヒロが紙袋を持って自室へ入ったのを確認したあたしは、お父さんに小声で確認を取った。
「……小夜子、危ない事無かった? 本当にヒロ君と寄り道とかして無いってお父さんの目を見て言える?」
「はいはい。あたしにそんな事あるワケ無いでしょ。逆に、あたしに絡んできたバカをヒロが追い払ってくれたわよ」
二人きりになると、お父さんは自分の心配事を容赦無く確認してくる。年頃になった娘にそんな言い方もどうかと思うけど、あたしはあっさりと否定し、逆に今日あった出来事を簡潔に報告しておいた。
「そうだったんだ……ヒロ君は頼りになるね。だったら予定通り歓迎会をやろう。大いに!」
ヒロの行動にすっかり機嫌を良くしたお父さんの号令の元、今日買ってきた食材と、お店用の食材まで投入して料理を作る事になった。
あくまでも歓迎会なので、和洋折衷の料理たちが次々と出来上がっていく。お父さんも怪我した手で簡単な料理をちょこちょこと作るが、今日の料理の殆どはあたしが主となって作った。
お父さんには言えないけど、今日の事でお礼をしたかっただけに、ヒロのために料理ができたのは内心嬉しかったし……いつもより楽しかった。
ヒロに言いつけていた部屋の片付けと入浴が終わる頃、和室の卓袱台の上には和洋折衷の様々な料理が並んでいた。
「……今日は何事だ? 夏祭りでもあるのか?」
浴室から出て和室に入ってきたヒロが目を丸くして言う。
仕掛け人としてはこの驚きが嬉しい限りなんだけど、できるだけ女将スマイルを維持したまま、あたしは口を開いた。
「今日はね、ヒロの歓迎会なの。たくさん食べて、程々に飲んでね」
手を引き、上座の一番料理が並んでいる席にヒロを座らせる。
「いや、待て俺は――」
「いいから、いいから」
あたしはヒロとお父さんのグラスに飲み物を注ぐ。
ヒロは居心地悪そうにしているが、構う事は無い。あたしもグラスにオレンジジュースを注ぐと、座っているお父さんに目で合図を送った。
「さて、ヒロ君も小夜子もグラスを持って。では、始めるよ」
お父さんに言われて、ヒロもグラスを手にする。
一応言っておくけど、ヒロのグラスに入っているのはジンジャーエールだ。
「明日からうちで働いてくれるヒロ君を歓迎して、乾杯!」
「乾杯」
あたしは無言のままのヒロのグラスにそっと自分のグラスを当てた。
「料理の説明をしておくね。小鉢が酢の物だったり、出汁巻き卵や刺し盛りがあったりするのは解かると思うけど、この皿はチキン南蛮、揚げた鶏肉に酸味のあるソースをかけてある料理よ。こっちはパスタ、ヒロにはスパゲティって言った方が解るのかな? それであっちは海藻と茸にポン酢を掛けただけの単純なサラダよ。他にも作ってるから、沢山食べてよね」
料理の皿を指差しながらあたしはヒロに説明をする。その間ヒロは「ああ」とか「知らない料理だ」なんて言いながら説明を聞いていた。
「これだけの料理が食卓に並ぶとは……すごい時代になったものだ」
「そう? これでも安い料理のオンパレードで申し訳ないくらいなんだけど。はい、ご飯これくらいでいい?」
「あ、ああ」
若干少な目にご飯を盛った茶碗をヒロに渡す。続いて、お父さんと自分の分をよそってあたしは席に戻った。
その後、暫く歓談をしていたのだけど、お酒が回ってきたのかお父さんがビール瓶をヒロに向けた。
「折角の歓迎会だからね、ヒロ君も呑んで呑んで〜」
「な、ちょっと、ヒロは未成年なのよ!」
「外で呑んでるワケじゃ無いからだいじょ〜ぶだいじょ〜ぶ」
あたしの制止も聞かず、お父さんは上機嫌でヒロの空いたグラスにビールを注ぐ。
「ヒロ、無理して飲まなくても――」
「多分、大丈夫だ。親方、ありがたく頂戴致します」
あたしの発言を遮り、ヒロはグラスをクイッと傾けた。
みるみる内にグラスは空になり、空いたグラスを卓袱台に置いたヒロは、ビール瓶を取ってお父さんに返杯をした。
「……嬉しいね〜。本当はこうやって、息子や娘と呑むのが夢だったんだ。だけど、妻と息子は出て行ってしまったからな〜」
ヒロにビールを注いでもらいながらしんみりとした口調で、しかしサラリと我が家の暗部をお父さんはバラした。
「その、女将を小夜子がしていたのでもしやとは思っていたのですが……奥様とご離縁されていたのですか」
お父さんの減ったグラスにビールを注ぎながら、ヒロは込み入った事も聞いてくる。
「あーうん。働き出したら解かる事だから、酒が入った勢いで言っておこうと思ってね。妻は息子を連れて出ていったんだ。それは自分勝手な俺が招いた結末だから俺が苦労するのは仕方ないことなんだけど、離婚して以来、小夜子にはずーっと負担を掛けてるから、ヒロ君みたいな経験者が働いてくれるのはすごくありがたいんだよ」
「そうでしたか。それでは、尚の事一生懸命頑張らせて頂きます」
「……まったくあのバカ息子――小夜子の兄なんだけど、あいつがヒロ君ぐらいしっかりしていてくれればね〜」
お酒が入ったお父さんは、ヒロになら話して大丈夫と思ったのか、酒飲み話のように語りだした。
まだ家族4人が揃っていた頃――お父さんとお兄ちゃんはあまり仲が良くなかった。あたしには優しいお兄ちゃんだったけど、当時、自分勝手に振舞うお父さんをお兄ちゃんは気に食わなかったようで、調理場で良く喧嘩をしていた。
確か、今年あたり成人するはずなんだけど……元気にしてるかな。
携帯の番号もメアドも知ってはいるんだけど、普段、連絡を取る事は無い。
あたしは今日に限って懐かしさに負けてしまい、ついポケットからスマートフォンを取り出すと、アドレス帳からお兄ちゃんの番号を探し出した。
お兄ちゃんの番号が表示された瞬間、懐かしさに浸る間もなくマナーモードにしていたあたしのスマートフォンが震えだす。
「え?」
一瞬、お兄ちゃんからかと思ったけど、ディスプレイに表示された名前は、友人の古賀茉莉彩のものだった。
「ちょ、ちょっとゴメン」
一言断って、あたしは二階に駆け上がり、タッチパネルを操作して通話を開始した。
「はいは――」
『さ・よ・こ〜。見たよ〜〜』
「な、何を!?」
『彼の手を引いて観覧車に乗り、大事に抱き下ろされてたよね』
茉莉彩が話した内容は、間違いなく今日の出来事だった。
って、あれを見られてたの!? 嘘! 冗談抜きで恥ずかしい、いや、恥ずかしさで死ねる!
「な、何のハナシ? アタシ、解んないんだケドー」
『誤魔化しても無駄よ。声が裏返ってるし、バッチリ写真も撮ってあるんだから』
しっかりと証拠を押さえられていたらしい。もはやこれまでかと、腹でも切れそうな覚悟であたしはヒロの存在を認めた。
「うう……別に、茉莉彩が期待してるような事は何も無いよ」
『ふふ、開き直ったわね。観覧車から降りた二人をゲーセンの前で小夜子の昔の男が邪魔をするも、今の彼は速攻で撃退し、二人で手を繋いで仲良く帰る。これで期待するなって方が無理よ』
ちょっと待てい! 最初から最後まで全部見てるじゃ無いの。しかも解釈が恣意的だよ。
「言っとくけど、一緒にいたのは彼氏とかじゃ無くて、明日からうちで働いてくれる料理人よ。住込みで働いてくれるから、日用品とかを買い出しに行ってただけだって。それに、見てたならあれが昔の男とかいう立派なモノじゃ無いの、解って言ってるでしょ」
『あんなバカから守って貰えて、コロっといってるんじゃない? ほら、白状せい』
「だから、そんなんじゃ――」
『料理人だって言うのなら、次の日曜にお弁当作ってもらって連れてきてよ』
「そんな、予定の確認もしてないんだから無理――」
『連れてこれなかったら、小夜子が抱き留められてる写真、くるみと一緒にクラス中にバラまくよ』
「ぎゃー。それは止めてー! っていうか、友達脅すな」
『ってわけで、日曜日に彼氏を連れて来てね〜。ついでに料理の腕前も見てあげるから』
プッ。ツー、ツー。
反論をことごとく遮られ、一方的にまくし立てられて電話は切れた。
「な、何なのよ! それでも友達? ありえなくない!?」
あたしは切れた電話に、思いっ切り言葉をぶつけた。
そんな事しても仕方ないのは解ってるんだけど、そうせずにはおられなかった。
スマートフォンをポケットに入れ、階段を降りると、踊り場でヒロが待っていた。
「その、親方が酔い潰れたのか寝てしまったので、部屋まで運ぼうと思うのだが……」
「へ? お父さん、寝ちゃったの?」
茉莉彩とはそんなに長く話してなかったと思ったんだけど……それ以前に、どんだけのピッチで呑んだんだ、お父さん!
怒っても仕方が無い。今日はヒロの歓迎会って事で、止めなかったあたしにも非はあるし。
「だからな、部屋を教えてもらっていいか?」
「いいわよ、和室に寝かせてて。だって、お父さんの部屋って二階だし」
「解った。俺が抱え上げるから案内してくれ」
やれやれとあたしが思った所で、ヒロは和室の襖を開け、お父さんをお姫様抱っこの要領で抱え上げてしまった。こうなったら部屋を案内せざるを得ない。あたしはヒロと一緒にお父さんの部屋まで行き、お父さんをベットに寝かせ、あたし達は再び和室に戻ってきた。
「ヒロ、お父さんを運んでくれてありがとう。まだ、全然食べ足りないでしょ? 食べて食べて」
「それを言えば、小夜子も中座して食べてないじゃあないか。ほれ」
お互いに卓袱台の料理を行き来させる。そんな事をしてればまあ……。
カチンと音を立てて、卓袱台の隅にあった小鉢が落ちる。
「「勿体無い!」」
あたしとヒロの声が見事にハモり、あたしは左手、ヒロは右手を伸ばす。
あたしが手の平で何とか小鉢をキャッチしたあたしの手をヒロの逞しい手が包むように覆った。
「あり……がと」
さっき、茉莉彩に散々煽られた事もあり、ヒロの手に包まれた事に妙にドキドキしてしまう。
心の中で、茉莉彩が変な風に言うからだと言い訳をしてみるんだけど、あたしはヒロの顔を直視できず、俯いてしまった。
「……何か、あったのか?」
ヒロがあたしの手から取った小鉢を卓袱台に置きながら言った。
あたしは大きく深呼吸し、何とか気持ちを落ち着かせ――本当は落ち着いてないけど――て、なんとかヒロの顔を見た。
「何でも無い……よ。遅くなる前に食べてしまいましょ」
「あ、ああ……」
何となく黙ってしまって、あたしとヒロは食事を再会した。しばらくはカチャカチャと箸が食器に当たる音だけが響いていたんだけど、不意にヒロの箸が止まった。
「ヒロこそ、どうかしたの?」
箸を止めて聞くとヒロは、小夜子に言っても仕方の無い事なのかもしれないがと前置きして、
「ここ三日、三度の食事を腹いっぱい食べさせてもらっていた所に、親方から家族の話があったのでな……ちょっと、弟や妹の事を思い出してしまったんだ」
と、しんみりと語りだした。
「俺の実家には弟と妹がいてな。料理屋だから他の家よりは食べ物が手に入りやすいとはいえ、ひもじい思いをさせていることが多かったのだ。それなのに、俺だけがこんなに美味いものを腹いっぱい食べていると思うとな」
ヒロはいつもと変わらない無表情に近い顔で始めて家族の話しをしてくれた。
でもよく見ると、目には少しだけ悲しさの色が浮かんでいる。
昼間と全然違う――家族を心配する優しいヒロ。
そんなヒロを見たからか、あたしは自然と柔らかい口調でヒロに接する事ができた。
この時、あたしは意識しなかったけど、心の中でほっとする自分がいて、実はほんのり胸が暖かくなっていたみたい。
「ヒロこそ真面目で兄弟思いのお兄ちゃんじゃない。そんなお兄ちゃんなんだから、弟さんも妹さんも、ヒロには美味しいもの食べて作れる料理人になって欲しいって思ってるんじゃないかな?」
「……そうだな。ここでしっかりと修行させてもらって、一人前になるべきだな」
「その息よ。そのためには沢山食べて英気を養わないと」
ヒロがちょっとホームシック気味になってるのかと思い、あたしは食事と……一瞬だけ迷って瓶ビール――お父さんが開けていた――を手に取った。
「ね、落ち込んでても仕方ないし、今日だけは呑んでも良いよ」
ヒロの空いているグラスに瓶を向ける。
「……心配かけたな。甘えてしまって、親方もいないのにビールのような高価な酒までもらうわけにはいかん。大丈夫だ」
ヒロはあっさりとビールを断ると、箸と茶碗を持ち、辺りの料理をおかずにして黙々と平らげたのだった。