10品目
「ヒロ、お疲れ様」
控えの和室で、ヒロに冷茶を出してあたしは言った。
あれからお勘定が終わると、OB組はタクシーを呼び、意気揚々とスナックなどの女性がいるお店へ、学生組はカラオケや家路へと、お客様は三々五々散っていった。
例の三人組は女性二人と居残って、さらに1時間程呑み続け、そこに出口先生や古田先生が呑みに来たりして、ちょっとだけ騒がしくはあったけど、今日の営業――片付け含む――は無事に終わった所だ。
何事も無く順風満帆……傍から見れば、今日一日はそんな風に見えたに違いない。
ハッキリ言って、そう見せれたのは奇跡に近いけど。
冷静に今日の藤華を分析すれば、最大戦力のお父さんは利き腕の怪我で普段の半分も能力が発揮できていなかったし、あたしは半人前だ。こんな二人だけで、無茶ぶりがなかったとはいえ、20名というお客様を無事にこなせていたかと問われれば、答えは……否だ。
飲み物の用意や料理の配膳。食材の仕込みから調理、お父さんの補助までヒロは幅広く働いてくれた。
提示したお給金も格安だっただけに、感謝の現しようが無いのだけれど……それでもあたしは謝意を伝えたいと思い、ヒロの正面に座った。
「今日はほんっっっとうにありがとう。お陰で、お客様に何一つ不自由をおかけせずに済んだわ」
あたしは机越しに三つ指を着き、ヒロに深々と頭を下げる。
「それで、少ないけれど今日のお給金」
頭を上げたあたしは、腰元から封筒を取り出してヒロの前に差し出す。
「これは受け取れないな。ご馳走を振舞ってもらった上に、日当なんぞ受け取れん」
ヒロはスッと封筒をあたしに突き返してきた。
「……それにな。図々しい事を承知で、頼みがあるんだ」
眉根を寄せ、真剣な表情でヒロは切り出してきた。
「あれだけ頑張ってくれたんだもん。何でも言ってみて」
封筒を再びヒロの元に差し出しながら、あたしは言った
日当は受け取ってもらうにしても、安くこき使った負い目があるあたしは、叶えれる望みならなんとかしたいと思い、真剣な面持ちで耳を傾ける。
「親方の怪我が治るまでで良い。俺をここで使ってもらえないか? この通りだ」
ヒロが頭まで下げた頼み事は、あたしの方こそ頭を下げてお願いしたい内容だった。
ハッキリ言って都合が良すぎる。
「……え? な、なんで……ヒロの腕前なら、もっと高く雇ってくれる所も――」
「住込み賄い付きで、給料は安いけどいいかい?」
あたしが言いかけた所で襖が開き、お父さんが口を挟んだ。
ちょっと、住み込みって……あの、その……。
「……給金を頂けるのですか」
「仕事内容は解ってるとは思うけど、朝から晩までだけどね」
お父さんは矢継ぎ早にヒロに言う。
「ちょっと、お父さん! それにヒロも!」
ヒロとお父さんとの間で、超特急で進んで行く話を、あたしは割り込んで止めた。
なんでかと言えば、お父さんじゃお店の運営資金の事が解らないからだ。
現在の“藤華”の経理はあたしが担っており、運営資金の細かい内情はあたししか知らないんだけど……正直なところ、今の資金繰りではお父さんと親子2人で生活するだけで精一杯。そんな状況だ。
大体、人を雇おうにも、お客様が増加する見込みが無い中では暇を持て余してしまう。
……そりゃまあ、人を雇ってあたしが学業に専念できればそれが一番なんだろうけど。
「お父さん、今のままじゃヒロにお給金払えないわよ」
「そこは住居費と賄代を差っ引いて……」
「それでもよ! 大体、今日だってこれだけ働いてもらって、腕と働きに見合ったお給金出せて無いのよ?」
「でも、今日は団体様だったし、今月の売上は大丈夫――」
「な、ワケ無いでしょ!」
お父さんの楽観論をピシャリと遮ると、あたしは毎月の家計簿を頭に浮かべた。
もしもの時の貯金や予備費にしている金額に、あたしやお父さんの遊興費を減らした分を加えて、ヒロの月給に回せそうな最大額を計算する。
そしてヒロとお父さんを交互に見て、引っ張り出した金額を口にした。
「うちがヒロに出せるお給金は……どんなに多くても、月3万円くらいよ?」
あたしがはじき出した金額を前に、呆気に取られるお父さん。
そんなお父さんをチラリと見て、ヒロが口を開く。
「3万という数字は相変わらず大き過ぎて解らんが、住ませてもらって飯が食えるのなら文句は無い。他の所で雇ってもらうにしても、俺に身元の保証は無いしな」
……ヒロの言う事も一理ある。
未成年でこれだけの腕を持っていて、何処で修行したのか聞かれ、今はない料亭だと答えれば、まあ、ね……。
それに、改めて考えてみれば、お金が無くて雇えないからって、ヒロを放り出したら危ないよね。逆のパターンであたしがそんな事をされてしまえば大ピンチじゃない。
これはもう何とか、居候だけでもさせて……って住む場所が問題になるか。そんな事をグルグルと考え出し、袋小路に迷い込みそうになった時、ヒロはあたしに言った。それはもう、ハッキリと。
「それにな、折角働かせてもらうのなら、お客と働き手を大事にする……小夜子みたいな女将が居る店が良い」
嘘!?
……どうしよう、お世辞だと解っていても嬉しい事を言われちゃったよ。これじゃあ、何としても雇わないといけないじゃない。
「いいの? あたしみたいな半人前女将の安月給のトコで」
「小夜子が半人前だと言うのなら、今のように真剣な顔で悩んだりはせんだろう」
「〜〜っ!」
あたしは気恥かしさから、真顔のヒロから目を逸らす。
一瞬とはいえ、悩んだ顔を見られたうえに、真顔で言われるとは……。なんだか耳も熱いんだけど。
「それに、親方も言いかけておられたが、俺くらいの歳の料理人なら、住込み賄付きとなれば給金などほとんど無い。“千歳”の時もそうだった」
「……だったら、着るものとか自分の包丁も買えないし、親元に帰省する事もできないじゃない」
「その時は、必要に応じた小遣いをだして貰えていたし、着物は女将さんのお手製だった。それに今は……帰省はできんしな」
そうだった、ヒロは……。
「ほら、ヒロ君もこう言ってくれているしさ〜」
気まずくなった雰囲気を、お父さんの軽い声が見事にぶち壊した。
「まあ、ヒロがいいならお給金の事はいいわ。何としても、毎月3万円は確保してみせるから」
いざとなれば、スマートフォンを手放す覚悟を決め、あたしは言い切った。
お給金の事は、良心にチクチクするものが残るけど、取り敢えず良い。
あたしはもう一つの懸念事項に話しを進めた。
「お父さん、さっき住込みって言ってたけど、まさか……お兄ちゃんの部屋に住ませる気じゃないよね?」
現在、空き部屋として確保してあるのは、お母さんと一緒に出て行ったお兄ちゃんの部屋だ。その部屋はあたしの部屋の隣りにあるわけで……。
同年代の男が隣の部屋に住んでるとか、気が休まらないし、恥ずかしいし、この二日でヒロが真面目だということは解ったけど、まだ少しだけ怖いし。
「まさか! あの部屋に住ませるなら、お父さんは毎日小夜子と一緒に寝るよ」
「それは絶っっっっっ対イヤ!」
「うぅ……昔は『お父さんと一緒に寝る〜』って言って部屋に押しかけてきてたのに」
「何歳の時の話よ! で、お兄ちゃんの部屋じゃないのなら、どの部屋を使うの? まさかここ?」
「いや、小夜子が小さい時に住み込みで働いてくれてた人の部屋だよ。ほら、玄関横の四畳半の部屋」
今いる控えの和室と廊下を挟んで反対側にある和室――めったに使わない調理道具の物置にしている部屋をお父さんは充てがう気のようだった。
まあ、四畳半の部屋は1階にあり、あたしとお父さん、件のお兄ちゃんの部屋は2階にある。
あたしにとって、この控えの和室も含む1階は仕事部屋であり、のんびりとくつろぐのは2階の自室だと思っているため、ヒロが1階に住むのはまあ、問題無い。
部屋には鍵も付いているしね。
「だったら、あの部屋も片付けないといけないね。でも、今日はもう遅いから、片付けは明日にして寝ましょう」
あくびを噛み殺しつつ、あたしは2人に提案する。
「そうだね〜」
と、お父さんは我慢することなく、大口を開けてあくびをしながら言う。
「……明日も、仕事があるのだろう? 片付けぐらいなら自分でやるから、部屋を教えてくれないか」
「あ、言ってなかったわね。明日はうちのお店、お休みだから」
「な、盆と正月以外に店を休むのか?」
ヒロは目を大きく見開き、驚きを露わにした。
そんなに驚く事かな? 大体、お盆とお正月以外に休みが無いとか、どれだけブラックなのよ。
「うん。明日、日曜日は開けててもお客さんが来た試しが無いしね。詳しいことは明日話すから、ヒロは先にシャワー浴びてよ」
「随分と変わったものだな……解った。明日教えてくれ。しかし、昨日も言ったが、風呂は親方が先の方が良いのではないか? 特に、今日から俺は働かせてもらう身だからな」
疲れて、面倒なことは明日と先送りにしたあたしに、ヒロは昨日のことをほじくり返してきた。
「昨日も言ったでしょ。お風呂を溜めてないんだから、順番なんてどうでもいいわよ。大体、今日はお父さんの背中を洗う日だから、ヒロが先に入ってくれた方がありがたいの」
「なんだかな……ここに来てからというもの、甘えさせてもらってばかりのようで悪いが」
言って、ヒロはチラリとお父さんの方を見るが、さすがのお父さんも、
「今日はヒロ君が先に入ってくれた方が良いね」
と即答した。
ヒロにタオルと下着――新品の肌シャツとトランクス――を渡す。
元々着ていた肌シャツと褌はかなりボロボロだったため、昨日の内に半ば強制的に捨てた。ヒロには勿体無いとか言われたけど、飲食店でボロボロの衣類を身に着けるのは、衛生観念上許せない。こればかりは譲れないと、押し切った。だから、ヒロが今着てる下着も、渡した下着も、お父さん用に買っていた予備の新品だし、ボディタオルやアメニティも新品を渡してある。
ただ、シャンプーやボディソープの類は新品が無い――詰替用しか常備してない――ため、あたし達が使っているものをそのまま使ってもらっている。
(明日、生活用品も買わなきゃな〜)
そんなことを考えながら、あたしは机を部屋の隅にやり、布団を敷く。
あまり時間が経たない内に、浴衣――寝間着が無かったので代用――姿で、濡れた歯ブラシとコップを持ったヒロが脱衣所から出てきた。
「お父さん次、さっさと入って」
「あ、ああ」
部屋の隅で缶ビールを飲んでいたお父さんに声を掛ける。お父さんは残りを一気に煽ると、返事をして脱衣所へ向かった。
「しかし、この屋敷は夏だというのに随分と涼しいな。風呂上りに扇子もいらないほどだ」
「そりゃ、エアコン入れてるし。暑かったらと思って、扇風機も出したから、良かったら使って。このボタンで弱、中、強の風量に切り替えれるから」
「ああ。ありがとう……しかし、夏でも蒸し暑くなく風まで吹いて、蚊も入って来ないとはな」
お父さんと入れ替わるように和室に入って来たヒロは、扇風機の風に当たりながらボソボソと言っていた。
今日はお父さんの背中を洗う約束をしているあたしは、自分の入浴の用意もあって、ゆっくり相槌を打つ余裕が持てずに、適当に微笑みだけ返して、自分の部屋に着替えを取りに行く。
2階の自室に着くと、照明を点けるのももどかしく、手探りでエアコンのボタンを押す。
衣装箪笥に目を向けようとすると、窓のカーテンを閉めていなかったためか、外の夜景が目に飛び込んできた。
ヒロと一緒に見た電気に彩られた夜景――。
(そっか〜。部屋からも見えたんだ)
若干ぼんやりした頭でそんな事を考えていると……目の前の夜景が不意に、ゆらりと揺れて真っ暗な山並みに変わった……気がした。
え? っと思い、瞬きをしてみると、目の前には変わらない電気によって彩られた夜景が広がったままだ。
(気のせい? 疲れてるのかな)
あたしは再び瞬きをして、衣装箪笥から下着を取り出し、ベットの上に置いていた寝間着を掴んで部屋を後にした。
1階に降りて脱衣所でお父さんに声を掛けてみたが、あたしの出番はまだみたいだった。慌てなくても良かったのかもしれない。
しばしの時間を潰すため、和室に入ると、ヒロが料理のメニュー表を見ていた。
「小夜子、このポテトサラダとは何だ?」
「へ? ポテトサラダは茹でたジャガイモを潰してタマネギ、キュウリ、ニンジンなんかとマヨネーズで和えたものよ」
不意の質問にちょっと驚いたけど、お店のメニューのことだったので、澱み無く言葉が出てくる。
「マヨネーズ? 言い方からすると調味料か?」
「うん。卵に油とお酢、塩、砂糖なんかを混ぜて作るやつ。ポテトサラダなら作り置きがあるから味見してみる?」
「いいのか?」
「寝る前だから少しだけだけどね」
あたしは着替えを脇に挟むと、ヒロの前を横切り、冷蔵庫からタッパに入ったポテトサラダを取り出して小鉢に一盛りした。
「はい。本当に少しだけ……って、な、な、なんでアンタがそれ持ってるの!?」
小鉢を持って振り向いたあたしの目の前で、ヒロが三角形の布切れを広げていた。それこそマヨネーズ色――薄黄色――の。
「小夜子が落と――」
言いかけたヒロの手から問題の布切れ――ショーツをひったくると、今度は脇に挟んでいた着替え一式が落下し、同色のブラジャーが寝間着の上にちょこんと鎮座した。
「や。ちょ、み、見ないで!」
空気を読んでか、顔を背けるヒロ。
あたしはその隙に、手早く2つの布切れを寝間着で覆い隠すようにして回収する。
あまりの恥ずかしさに、ヒロと目を合わせないようにして小鉢を渡すと、タイミング良く――悪く?――お父さんが浴室の扉を開けた。
「小夜子〜背中流して〜」
「あー、うん。今行くー」
上の空で返事をし、ヒロに
「これがポテトサラダよ。これ食べて、さっき見たモノのことは忘れて!」
と早口に言うと、
「解った」
と、神妙な顔で即座に了承された。
見られた事実は変わらないんだけど、あたしにとってこれはもう、半分儀式のようなものだ。
儀式を終え、脱衣所で和装を脱ぎ去って下着姿になると、衣装棚からバスタオルを取り出して下着が見えないように巻いた。
着ていた服は洗濯するため、ヒロとお父さんの服と共に洗濯機へ放り込む。
「お父さん、入るね」
と声を掛けて10を数えた後に、カラカラと浴室の扉を開いて中へ入ると、お父さんが背中を向けて腰掛に座って待っていた。脇にシャワーヘッドとボディタオルも置いてあった。
「バスタオル……。小夜子〜、親子水いらずの場にバスタオルなんて不要――」
「はいはい。黙って座っててね!」
あたしはお父さんの『お決まりのセリフ』を無視してボディタオルを湿らせると、ボディソープを馴染ませて背中を擦り始める。
お父さんの背中には左側に大きな傷痕がある。これのせいで背中を洗うのに少々の不自由があるらしく、昔はずっとお母さんが洗っていた。
どれだけ酷い喧嘩をしても、お母さんはお父さんと一緒にお風呂に入り、背中をながし続けていた。それこそ離婚する前日まで。……あんなに仲良かったのに、何で離婚なんかしちゃったのよ。
お父さんの背中を流す度についつい思ってしまい、落ち込んでくる。これがあるからあたしには毎日背中を流してあげる事はできない。
手を動かしつつもブルーな気分になっていると、お父さんがいつもの様に軽い口調でちゃちゃを入れてくる。
「はぁ〜。お父さん、し・あ・わ・せ」
しかも、鏡越しにニヘラと蕩けた笑顔付きだ。
「ね、小夜子〜」
お父さんの背中を洗い流した後、泡立まみれになったボディタオルを濯いでいると、お父さんが上半身だけ振り向いて言ってきた。
妙に優しい笑みが浮いているのが気になったが、あたしは
「なに?」
と定型句を返した。
するとだ、お父さんは
「お父さん、小夜子がちゃんと成長してるか心配だったんだよ〜」
などと言いながら、両手が塞がっているあたしのバスタオルを、ハラリと外してきた。
「ひぁっ! な、何すんのよ! この、バカ、スケベ、変態オヤジ!!」
一応、下着を着用しているとはいえ、お父さんの愚行は許されるはずがない。
あたしはシャワーもボディタオルもほっぽり出し、ベージュ色の下着姿のまま、条件反射のようにお父さんを殴りつけた。
「痛い、痛い……うごっ!」
二度、三度と打撃を加えていると、ちょうどミゾオチに入ったのか、お父さんは低いうめき声を上げて丸くなる。
そこに、勢い良く扉を開け、ヒロが入って来た。
「どうした! 何があった?」
「ひっ、きゃぁぁぁぁぁぁっ!!」
お父さんの時とは打って変わり、あたしは自分でも驚くほどの女らしい悲鳴を上げた。
それからお父さんとヒロを正座させ、怒りのままに二人に当たり散らしたんだけど、巻き添えを食った形のヒロが小さくなったのとは対象的に、お父さんにはまったく反省の色が見られなかった。
お陰で、あたしは寝付くまで不機嫌が服を着てるような態度を取り続けることになったのは言うまでも無い。