コウモリの教室
※この作品は『即興小説トレーニング』にて執筆した作品に加筆修正をしたものです。
(お題:絵描きのコウモリ 必須要素:予想外の展開 制限時間:30分)
↓加筆修正前の文章です
http://webken.info/live_writing/novel.php?id=86327
「小森君。……小森君!」
呼びかける声に、少年はおもむろに目を開いた。長めの前髪から覗くその目が、声の主の姿をとらえる。
「もう日が暮れるよ」
その言葉に小森は窓の外を見ようとして、やめた。窓には全て黒いカーテンがかけられており、外の様子をうかがい知ることはできなかったからである。代わりに小森は時計を見て時刻を確認し、今が日暮れ時であることを理解した。目をこすりつつ、小森は言う。
「……ありがとう、加藤さん。三崎君は?」
「三崎君は先に帰ったよ。もう眠いからって」
加藤と呼ばれた女子生徒は、苦笑気味に答えた。その視線は、三崎という人物がいたであろう場所に向けられている。
そこにあるのは椅子とイーゼル。そしてそこに立てかけられたキャンパスには、向かいに配置された果物などのモチーフが描かれていた。眠りこけていた小森の目の前にも、イーゼルとキャンパスが設えられている。
一見するとここは高校の美術室で、彼らは美術部員のようだが、実際には美術室は他にある。美術部員もそこで活動をしている。ここは空き教室に美術の道具を持ち込んだだけだった。
「俺とは正反対だね」
まだ完全に目を覚ましていないのか、小森は間延びした調子でそんなことを言う。
それから彼は緩慢に立ち上がり、帰り支度を始めるかと思いきや、あろうことか絵を描く準備を始めた。
そして加藤もそれを咎めることなく見守っている。浮かべた笑顔はむしろ、期待に満ちているようにも見えた。
彼がカーテンに覆われた奇妙な空き教室で、美術道具を持ち込んで絵を描いているのは理由があった。
小森は絵描きとしては傑出した才能を持っているが、どういうわけか昼間にほとんど起きていることができなかった。本人なりに努力をしているのだそうだが、それでもどうにもならない夜型人間だった。
学校には気力を振り絞って登校しているものの、授業中はほとんど起きていられない有様。休日は彼にとって安息のひとときであり、平日の睡眠不足を取り戻すかのように眠り果てる。そうして彼が活動を始めるころには、必然的に世間は活動を休止していくため、彼は満足に髪を切りに行くこともできない。黒い髪は目も耳も隠れるまでになっていた。
その生態と風貌を揶揄して、彼の苗字にちなみつけられたあだ名が『コウモリ』である。
「ありがとう、加藤さん」
道具の準備を済ませ、いざ絵を描きはじめるという段になって、小森はふと口にした。
「どうしたの?急に」
きょとんとして尋ねる加藤に、小森は続ける。
「いや、だって加藤さんのおかげでこうして絵を描いていられるわけだし」
「感謝されるようなことはしてないよ。それに三崎君も手伝ってくれたおかげだし。何より、小森君の努力が実を結んだんだよ」
授業中眠り続ける小森を教師達も見かねていたが、欠席はおろか遅刻もせずに登校してくる生真面目な人間であるということは何となく察知していた。また、小森は活動している夜に勉強していたため、成績も上から数えた方が早かった。そのため彼の授業態度に関しては有耶無耶なままだったのだが、生徒たちはそうもいかなかった。
特に美術部では、彼は完全に孤立してしまっていた。いつも寝てばかりにもかかわらず、自分たちよりも優れた才能を見せつけられたものだから、美術部員たちは揃って彼をのけものにしたのである。
悪気はなかったばかりか、美術部員と仲良くなりたいとさえ思っていた小森は途方に暮れる。そんな彼を助けたのが加藤と三崎だった。
「それでも、やっぱり加藤さんのおかげだよ」
伸びた前髪の隙間から真っ直ぐな瞳を覗かせて小森は言った。その真摯な眼差しに加藤は
「……じゃあ、もっとたくさん良い絵を描いてほしいな」
と、顔をほころばせた。
「私は、小森君の絵が見られることだけが生きがいだから」
それが彼女の、嘘偽りない本心だった。
加藤は元々絵画を見るのを好んでおり、付近の美術館という美術館をすべて回りつくしていた。
そんな彼女はある日小森の絵と出会った。彼の描く絵をもっと見たいと強く思い、彼のための美術部づくりを企てたのだ。
そこに加わったのが三崎という小森と正反対の男子生徒だった。彼は彼で、夕方には眠気に見舞われ起きていられないために、美術部でも少し浮いた存在だったのである。そんな三崎は自分と正反対の人間である小森に関心を示すと同時に、絵描きとして彼の描く作品に興味を持っていた。
集まった三人は根気強く学校と交渉した結果、今ではこうして、黒いカーテンで閉ざされた教室で日が暮れてから夜遅くまで活動を許されているのだった。
ただし、対価が一つだけあった。
小森も三崎も知らない。加藤だけが知る、加藤だけが払った対価。
それは、加藤自身の身体だった。
彼女はその身を、教室使用等の認可の裁量を持つ教師に売ったのである。ただひたすらに、小森の描く絵を見たい一心で。
加藤にはおよそ夢と呼べるものがなかった。眠っていない人間が夢を見ないなら、彼女の眼はずっと醒めたままのようなものだった。そんな彼女の唯一の楽しみが絵画鑑賞であったが、それすらも彼女の琴線に触れ、心を震えさせるには至らなかった。
そんなある日、加藤は小森の作品に出会った。
彼に絵を描かせたい。何より彼の絵をもっと見たい。それが彼女の夢になった。
加藤はその身をなげうったことを決して後悔していなかった。そのおかげで小森が描く絵を見ることができるのなら、それだけでよかったのだ。
それだけで、眠ることの許されない夜があったとしても、加藤は夢を見続けられる。
あのコウモリの教室が、加藤の夢なのだから。




