その5
○登場人物
成宮保裕・なりみややすひろ(特別刑事課、過去に事件でトラウマを抱えている)
金井睦美・かないむつみ(特別刑事課、成宮と同期、あっさりした性格)
成宮心・なりみやこころ(成宮保裕の妹、兄と同じ事件でトラウマを抱えている)
正代豪多・しょうだいごうた(特別刑事課、リーダーとして全体をまとめる)
薬師川芹南・やくしがわせりな(特別刑事課、自分のスタイルを強く持っている)
住沢義弥・すみさわよしや(特別刑事課、人間味のある頼れる兄貴肌)
井角・いのかど(特別刑事課、正代とともにリーダーとして全体をまとめる)
根門・ねかど(特別刑事課、頭脳班として事件に向かっている)
六乃・ろくの(特別刑事課、頭脳班として事件に向かっている)
壷巳・つぼみ(特別刑事課、成宮と同期、頭脳班として事件に向かっている)
但見・たじみ(特別刑事課課長)
筑城晃昭・ちくしろてるあき(麻布警察署少年課、成宮と過去に事件で接点がある)
大床・おおゆか(麻布警察署刑事課、成宮と過去に事件で接点がある)
鍋坂・なべさか(子供警察署長)
この日は金井と住沢さんとアシュリのもとへ向かった。ボルト・フロム・ブルーの参
加者たちに苦しみの種を与えている対象にティアラの手がおよぶ危険を考慮し、それぞ
れに警護がつくことが正式に決まった。とはいえ、対象に参加者たちの隠してきた憎し
みが伝わってしまうことは避けたいところなので当人にはバレないように日常の邪魔に
ならない程度の距離を保ったうえでのものとなった。本当はそれどころではないのかも
しれないが、まだ一連の事件がティアラによるものと証明できるものもないのにヘタに
波風をたてるわけにはいかない。ただ対象へ恐怖を与えるだけになってしまうし、狙わ
れる理由も分からないままに怯えながら過ごすのは単に精神の不安を誘うだけになって
しまうだろう。
都内に住むアシュリと対象は我々が請けおうことになった。他の参加者と対象にはそ
れぞれの府県の子供警察へ協力が依頼されている。病が対象であるリーフには直接当人
への警護がつくことになり、源氏の対象である父親は失踪先を捜すことから始められて
いる。
アシュリの通う学校へ到着すると校門から少し離れた位置へ車を停めて下校してくる
生徒たちの様子をうかがう。試験期間のため、アシュリはこの時間帯に出てくるはずだ。
あらかじめサイトの参加者たちと対象たちの情報は手に入れてあるので、それと当人を
照らしあわせていく。だが、写真もあったが同じ制服で流れてくる生徒たちから会った
こともない一人を見つけるのは容易ではない。ただ、いかんせんこういった忍耐力のい
ることに関しては仕事柄慣れていた。
15分が過ぎた頃、アシュリと思われる人物を発見した。停車していた車の横を通り
すぎていくまで注意深く眺め、おそらく本人だろうと決めると行動を開始する。金井と
2人で車を降り、悟られないように後ろに着いていく。そして、学校から充分な距離を
歩いて周りに他の生徒が見当たらなくなった頃合をはかって声をかけた。警察手帳を出
して「聞きたいことがある」と言うと、彼は不定な心情を出したような表情になる。突
然刑事からそんなことを言われれば誰でもそうなるだろう。なるべく彼の中にある不安
を取りのぞけるように説き、こちらの話を聞いてもらえることに導けた。
近くのファミレスへ移動し、適当に飲み物を頼む。彼はりんごジュース、自分はホッ
トコーヒー、金井はクリームソーダ。待っている間にこちらの簡単な自己紹介をして、
飲み物が来ると一口だけ口にしてさっそく本題へ入っていく。
「君はボルト・フロム・ブルーというサイトをよく訪れてないか」
質問から間があいてから「はい」という返答がきた。彼自身、どうして刑事に話を聞
かれているんだ、どうして刑事がサイトを訪問していることなんか知っているんだとい
う疑問とサイトとを結びつけるのに時間がかかったのだろう。どう解釈したのかは分か
らないが表情から読みとるとそう理解は出来ていないようだ。
「君はそこにアシュリというハンドルネームで投稿しているね」
また間があいてから「はい」と返答がきた。
「実はそれについて聞きたいことがある」
連続殺人事件とサイトとのかかわり、事件のこれまでの経過を話せる範囲で伝えてい
く。アシュリは特に表情を変えることなく聞いていた。この非日常的な状況にさらに事
件の話まで重なってうまく呑みこめていないのかもしれない。
「掲示板を通した係わりの中でティアラという人物はどう映った?」
「どう、って。僕と同じように傷を持ってる人だなって。分かってくれる人だなって。
ティアラに限らず掲示板のメンバーはそうです」
「ティアラから直接コンタクトを取ってきたりはしてないか」
「いいえ。掲示板のメンバーとはあそこ以外でやりとりはしてませんけど」
割と普通に受け答えをしていた。変に繕っている感じはつかめない。
その後もいくつか質問をしてみたがティアラについての詳しい情報は得られず、アシ
ュリの様子にも変化は見られなかった。絞りだせるだけ絞ろうとは思っていたが無理な
ようだ。元々何もないのであれば絞ったところで出てくるものはない。
「まだこれはこちらの推測の段階でしかないけれど、それが合っているなら君の憎ん
でいる相手が狙われる可能性がある。君は掲示板にも「いなくなってほしい」と書いて
いたから標的にするには充分だろう。警察としても出来るかぎりの対策はとるけれど君
にも協力してもらいたい。ティアラからもしも連絡が来るようなことがあったらすぐに
知らせてくれ」
そう喚起して名刺を渡すがアシュリの反応は一定だった。あまりにも話が突きぬけて
いるので仕方はない。連続殺人事件と自分が繋がってるなんて聞けば心中穏やかではい
られない。
「大丈夫。君が狙われることはないだろうから」
不安を拭えるように声をかけ、話は終わりにした。結果、事件やティアラのことにつ
いて新しい情報は得られなかった。相変わらず、どちらも謎は謎のままだ。解明の糸口
が見いだせない。
アシュリと別れ、車へと戻ると住沢さんに退屈そうに迎えられる。アシュリの対象で
ある担任の下校を見張っているものの一向に来る気配はないらしい。生徒の帰宅時間は
予想しやすくても教師はそうもいかない。
アシュリへの聞きこみで成果がなかったことを伝え、再び3人で車中で待機をする。
1時間ごとに試験を終えた生徒たちが下校してくるがやはり教師の姿はまだない。どう
やら持久戦の覚悟がいるようだ。
昼食はじゃんけんで負けた金井が渋りながら買ってきた。こういった時間の要する展
開になると性格は出てくるものだが、住沢さんと自分が集中力を切らさないように注意
をはらっている横で金井は実に気だるそうにしていく。怠けてはいない。きちんと校門
からの人の流れを視界には捉えている。ただ、3人で見ても2人で見ても変わらないで
しょ、こんな時間に出てこないでしょ、という思いから集中力は切れている。まぁ、組
織にいればこういうタイプもいる。むしろ、こういうタイプがいる方が持久戦では気が
和んだりもする。気を張ってばかりだとストレスになるところで変に気を抜けさせてく
れる。
対象が姿を現したのは18時を過ぎた頃だった。数時間の待機でさすがに気が折れか
けていたが、住沢さんの「来たぞ」という声ですぐに背筋を伸ばした。不自然にならな
い程度に視線を向け、対象が通りすぎていくと距離を保ったまま車で追いかけていく。
途中で駅に入っていったが電車通勤なのは分かっていたので自分だけ車を降りて同じ電
車へと乗った。降車したのは対象の自宅の最寄り駅、車も駅前で待っていたので再び乗
りこんだ。対象は寄り道をすることなく自宅へと帰宅した。5階立てのマンションの2
04号室に住んでおり、しばらくすると部屋の明かりもついた。
1時間ほどマンションの側で待機を続けたが対象に動きはない。この様子だと今日は
外出することはなさそうだ。安心だとして自分は帰ることになった。住沢さんと金井は
このまま残り、夜通しで対象への警護を続ける。こういう起伏の少ない長期戦の苦手な
金井はボヤいてたが。
翌日の夕、視界にとらえたアシュリは感情で身体をいっぱいにしていた。傍から見て
いる人間たちにはただの学生にしか見えないだろうけど、彼と同じものを宿してる人間
にはすぐに読みとれる。苦しみが身体中にとどろき、このままではあと数日のうちには
限界に達してしまう。
市民公園に入るとアシュリはその中のベンチに腰をおろした。下を向いて大きな息を
つく。分かるよ、その気持ち。苦しみを抱えたままで家には帰りたくないもんね。そう
したら家でもその思いに襲われてしまうし、家にはその苦しみを知られたくない人もい
るし。
ベンチの空いていた左半分に腰掛けると右側からの視線が向く。やりきれなさの詰ま
った瞳の奥を和らげられるように笑みを見せる。大げさじゃなくほんの少し。でも、芯
のある。君の味方だよ、そう伝えられるように。上着のポケットにあった黒いカードも
見せる。何の役割もはたさないただのカード。それが目印だった。アシュリも理解して
くれた。
「君の苦しみの種を聞かせて」
そう切りだすとアシュリはまた下を向いた。そうだね、心の傷を人に話すのは勇気の
いることだよね。でも、心配しなくていいよ。私は、私たちは君の傷を分かってあげら
れるから。
「言って。誰にも言えないんでしょ。吐きだしたら楽になれるよ」
分かったように説得したり、相談に乗ったりする奴らなんかとは違うから。君と同じ
立場、同じ目線、同じ思いで受け止めるから。掲示板で本音をさらけてくれるようにし
てくれればいいから。
視線は外さなかった。表情は崩さなかった。瞳には優しさをともした。単純な優しさ
じゃなく、この2人の間でこそ成りたつものを。
「・・・・・・今日もやられた」
待っていた言葉が出た。よかった。アシュリが内に込めていた感情を出せた事、その
相手になれた事。仲間として認めてもらった感覚。一方通行の思いじゃなく双方向の思
いである確証。そこらぢゅうに散らばってる安い関係なんかじゃない心の奥から信じれ
る絆。
アシュリの話は淡々としながら一つ一つに確実な感情をともして続いていく。走らせ
ている怒りは形のない無謀なものじゃなく塊となっていた。決意を感じられた。静かな
警鐘、好きな空気だ。
アシュリの話が終わる頃には空は暗くなりはじめていた。それなりに時間は経ってい
たと思う。それでも彼の話してくれたものは対象から受けた傷の一部でしかないだろう。
そんな簡単に語れるような思いじゃない。ただ、一つだけ何よりも確かなものがある。
君はそんな傷を与えられる必要なんかない。そんな傷を君に与える権利なんか誰にもな
い。なのに、君は傷をつけられた。悪の身勝手な行為によって何度も何度も。そんなこ
とあっちゃいけない。だから、罰を与える。
「君が罰をくだす?」
アシュリからの言葉はなかった。返答に戸惑いがあった。
「そうだよね。そんな奴のために君が手を染めることなんてない」
コンビートは「自分でやりたい」と言った。マジュニアは何も言わずに首を横に振っ
た。アシュリは後者だった。迷いを続けている。分かったよ、君の思いはこの手で叶え
るから。
「大丈夫。すぐに苦しみから抜けだせるから」
夜、昨日から遠巻きの警護を続けている住沢さんと金井と交代するために薬師川さん
とともに現場へ向かった。専用車が停まっていたのは昨日と同じ場所。対象は帰宅して
いるようだ。
「お疲れ」
「おぉ、ホントに疲れたぜぃ」
車へ入ると丸一日も警護を続けていた2人に募った疲労がまず見えた。金井はモロに
それを表すタイプだが、さすがに住沢さんにもその様子が滲みでていた。
「どうですか、様子」
「あぁ、何も変化はないよ」
差し入れに買っていったジュースを飲みながら経過について聞いた。対象は昨日は帰
宅してからどこにも外出することなく深夜1時過ぎに部屋の明かりが消え、朝は7時に
マンションから姿を現して登校し、18時頃に仕事を終えて帰宅。その間に寄ったのは
帰りぎわのコンビニ。対象は独身の一人暮らしなのでおそらく夕食になるものを買った
と思われる。仕事をしている人間にはいたって平凡な生活だ。多くを望まない堅実な日
々の繰り返し。
「捜査の方に進展は?」
「いいえ、何も」
土産話になるようなものはない。立ち止まり状態。解決に繋がる道は必ずあるはずな
のにそれがどこにあるのかが見つけられない。ティアラに向かって進めばいいはずなん
だけどどこにいるのかが分からない。何者なのかも、子供なのかも、そもそもティアラ
がやったのかも掴めていない。特別刑事課が束になって何をやってるんだともがくこと
の連続。
経過報告を終え、住沢さんと金井は警察へ戻っていく。「明日また」と車から見送る
と、「面倒くさいから来ないかも」と金井がふてぎみに言い捨てていった。もちろん冗
談。まぁ、そう言いたくなる気持ちは分かる。丸一日も気を張りながら車中に閉じこも
っているなんて想像以上の過酷さだ。交代で休んだりもするし、気分転換に散歩したり
もするが基本は車の中。忍耐力がなければとてもやってられない。そりゃ愚痴ぐらい出
るだろう。
2人きりの車内には静けさが流れる。会話はあまりない。丸一日も続くのに最初から
そんなにモチベーション高くはいられない。何もしなくても気力はだんだんと弱ってく
のだから。というより、そんなところに力を向けるのなら警護の状況に変化が起こった
ときのために残しておくべきだ。それでも金井あたりはブツブツとつぶやきをしてくん
だろうけど。同じ実績派の女性でも薬師川さんとは大きく違うもんだ。薬師川さんは金
井とは逆に近く冷静で沈着なタイプだ。心に熱さをともし、事件へ向かっていく。特別
刑事課の中では一番自分に近いスタイルなので親近感を持っている。ただ、圧倒的な相
違が存在する。薬師川さんには旦那も子供もいる。子供警察に入る前に結婚し、署内で
も名を馳せるようになった3年目のときに出産、前後1年間の休暇をとっていたらしい
が復帰してからも変わることなく成果をあげ、ブランクの分を含めて6年目で特別刑事
課へ配属された。家庭を持ちながらも実績派として事件に立ち向かっている薬師川さん
への信頼は強い。
対象の住むマンションの部屋に変化はない。やがて、深夜1時頃に明かりは消えた。
就寝したものとして、こちらも交代で眠りにつくことにする。後部座席に身を縮ませな
がらの就寝は寝にくいし、起きたときの身体の固まりもともなう。それを承知でも休め
るときに休まないと気がもたない。
朝を迎える頃には眠気にかられていた。交代での就寝だったので実質に眠れる時間は
通常の半分になり、先に休みをとったのでこの時間帯は中々辛いものがあった。それで
も集中は切らさないよう気を張っていく。
対象の部屋に変化はなかった。カーテンが閉まっていたので窓の中の様子は見れない
が消灯した後に動く影や気配は感じられなかった。異常なし、そうしていた。
それが妙に思えたのは7時付近になった頃だった。もうすぐ登校する時間なのにカー
テンは閉められたままで人の動く影も気配も感じられない。そろそろ準備にかかってい
ないといけない時間じゃないんだろうか。
「対象、もう家を出る頃なのにカーテンも閉まったままですよ」
「それもそうね」
後部座席にいた薬師川さんが覗きこむように身を乗りだして対象の部屋を眺める。
「おかしいですか」
「それもあるけどねぇ、一概には決めつけられないわ。ずっとカーテン閉めっきりの
人かもしれないし、ただ開けるのを忘れてるだけかもしれないし。意識的に今日は家を
出る時間を遅くしてるのかもしれないし、単に寝坊かもしれないし」
確かにそれだけで深読みしすぎてる可能性もある。影や気配がないのもたまたま朝一
で彼が行動するのがあの近くではないだけかもしれないし。疑問を無理に確定へ近づけ
るのはよくない。
「けど、一応警戒心は持っておいて」
「はい」
薬師川さんの言葉の通りに集中力を高めていく。対象の部屋の様子、マンションから
出てくる人たちの様子に注目を続ける。
7時を過ぎる。そのどちらにも変化は見られない。それがおかしい。昨日はこの時間
に対象はマンションを出てきている。帰宅時にコンビニにしか寄らない人間なら規則正
しい時間設定を望む性格と読みとれる。なのに、この状態はそれを示していない。何か
がズレはじめている。
「これ、まずいですよね」
「そうかもしれない。でも、もうちょっと待って。10分、20分のズレじゃあ動け
ない」
それでも、自分も薬師川さんも事態の悪さを察していた。異変が起きている気がして
ならなかった。特別刑事課の面々にも報告を入れると但見課長からももう少しの待機を
命じられた。
そして、緊迫感を保ったまま時間だけが過ぎていく。8時を過ぎる頃には疑問は確
信へ限りなく近づいていた。昨日なら、すでに学校へと到着している時間だ。念のため
に学校へ電話してみるが対象はやはり不在だった。対象はこれまでに学校へ遅刻したこ
とはない。明らかな異変。もう可能性という言葉におさめる必要はないだろう。
但見課長へ指示をあおぐと行動の命令が出た。
「ゴーです」
「よしっ」
車を出ると意気をあげてマンションへ進みだす。様々な事態を予測し、どう来てもい
いように心内をかまえていく。管理人がいなかったので呼びだし、204号室の鍵を開
けてもらうと異変はすぐに目に入りこんできた。玄関先の廊下に胸にナイフの刺さった
まま仰向けに倒れている対象だった。予測の中にはあった事態だったが、その生々しさ
がはるかに上回って衝撃に打たれる。後ずさりしてしまった管理人や制止してしまった
自分を横目に薬師川さんは対象へ近づいて脈や鼓動など身体の様子を確かめていき、息
をついた。
「死んでる」
あっさりとした言葉は諦めの具合だろう。すぐに特別刑事課へ報告し、その到着を待
ちながら現場の状況を調べることになった。死体と同じ部屋にいながらの捜査に異質感
を覚えずにはいられなかったが。
他の刑事たちが何人と現れる中、特別刑事課からは正代さんと住沢さんと金井の実績
派の3人が数十分後に来た。数多くの現場を目にしてきているので冷静に受け入れる度
量は備わっているが、それとは別の感情が湧いてくる。またティアラにやられた。それ
が1番の思いだった。
現場での捜査を終えると特別刑事課に戻って概要を伝えていく。全員が落ち着いた様
を保っていたが心の内では熱いものを奮わせていたに違いない。これまでは事件が起こ
ってからティアラの存在をそこに映していく展開だったが、今回は初めからティアラを
警戒していた。なのに、その網の目さえくぐってやられてしまった。完全なる敗北と屈
辱。
警護をしていた範囲での不備はなかったはずだ。不必要に対象へ近づく人物もいなか
ったし、周囲に怪しいと思われる人物もいなかった。マンションへ出入りする人物にも
疑わしいところはなかったし、こちらの見落としなんて単純なミスもない。用意周到な
計画によって我々の気を向かせることもなく犯行を成し遂げた。認めたくはないがそう
認めざるをえない。
マンションの出入口は2ヶ所あった。警察が張っていた正面、そして非常用の裏口。
裏口は正面から入り、管理人室を過ぎた先を左へ曲がり、住人のポストが並んでいる先
にある。当然、正面から見ることは出来ない。ポストと扉の間には上へつながる階段も
あり、ここから入れば正面口にいる人間にとっては死角になれる。犯行をおこなうなら
最もスムーズな流れになるだろう。ただ、それはこちらも認識していた。出入口がもう
一つあることを知らないなんて致命的なことはしない。そこを重要視しなかったのは、
裏口自体が住民でさえ使ったことのない閉めきりの扉だったからだ。裏口は開いても出
る先はマンションの裏側。出てもすぐに身長以上は優にある塀がそびえている。行き止
まり状態だ。ただ、塀の並ぶ中に人の通れるほどの鉄扉があって緊急時はそこからマン
ションの裏手にある空き地へ逃げることになっている。しかし、それも長い年月の未使
用から錆びれて容易には開けれなくなってしまっている。開けたとしても鉄の擦れる耳
にはさわる音が響いてしまう。間違いなく気づかれてしまうだろう。要は欠陥ギリギリ
の状態だった。使用するにはリスクの多いコース、そう悟ったことで重点を置くポイン
トからはずした。なにより、肝心の裏口の扉の鍵がなければ意味がない。2階とはいえ
マンションの外側から侵入するのは無理がある。そうでないのなら正面か裏口から入る
必要がある。正面に不審な点は見当たらない。なら、裏口になる。じゃあ、鍵はどうや
って。鍵を持っているのはマンションの管理人だけだ。その管理人も現場を目にして後
ずさるほどで年も高齢。連続殺人犯には思えない。それ以外に犯人が鍵を手にする方法
は何だ。犯人が管理人の隙をついて奪うことは必須になるだろう。それが出来るのは管
理人に近い人物か、はたまた全くの窃盗か。
あれこれと思考をめぐらせていくがどれも真実を掠めてるようで違ってる気がしてし
まう。それは我々が真実にまだ遠い場所にいるから。様々な推測を並べて捜査へ打ちこ
んでいくが一つだけ強い形をそれぞれに示していたものがある。犯人はティアラ。その
思いは共通していた。
一連の捜査が終わり、今回の事件についての詳細が特別事件課へ届けられてくる。被
害者が殺害されたのは今朝の5時から7時の間。殺傷能力のあるナイフで胸を一突き。
一発でしとめている。出血の流れから被害者は刺された場所でそのまま倒れており、玄
関先の廊下がそこになる。部屋からは怪しいと思われる指紋などは見つからなかった。
まぁ、凶器を残していってる時点でそういったところへの抜け目はないだろう。計画的
犯行ということだ。
犯行時刻の間、正面口は自分がずっと見ていた。人の出入りはあったが全てマンショ
ンの住人だったのは調べがついている。なら、部外者が裏口を使った可能性は高い。住
人が犯人であること、住人が共犯で犯人のために裏口を開けたことも考えられるが、そ
こを拾っていくとどうしてもこれまでの事件との関係性が結びついてこない。自らの否
を認めるようになってしまうのは胸が痛むが、やはり裏口を使われたと考えるのが妥当
となってくる。鍵はおそらく窃盗で入手したのだろう。
アシュリにもアリバイは存在していた。昨夜は早い時間に寝ていたため、早くに起き
て勉強してる姿を母親が目撃している。ティアラとの関係についても再び訊ねてみたが
返答に変化はなかった。
頭を悩ませられるばかりの中で唯一の収穫といえるものもあった。事件で使われたナ
イフがコンビートが自らの事件で使っていたものと種類が同じだったのだ。一連の事件
に繋がる発見があり、より犯行がティアラである可能性は高くなった。コンビートは相
手の心臓を捉えきれてなかったが、今回のは一発で捉えていることもそれを強くさせて
いく。
「そうかぁ。またやってくれたんだ、ティアラ」
取調室、今回の事件について説明をするとコンビートは気もよく薄笑っていた。彼か
らは何も情報を与えられることはなく、こちらから新たに起こっていく事件を伝えるば
かりの日が続いている。向こうからしたら「してやったり」という思いなのだろうか。
きっとコンビートはティアラや事件の情報を知っている。なのに、このままじゃ進展は
ないまま鑑別所へと送ることになる。それだけは避けたい。
「ティアラがやったという確証はない。そこに結びつけられるというだけだ」
「変わらないさ。ティアラがやったに決まってる。他に誰がやるっていうのさ」
井角さんの言葉も流すようにコンビートはティアラによる犯行と決めつけていく。警
察に尻尾を掴まれることなく事件を重ねていくティアラに英雄のような思いを寄せ、後
手に回るしかない我々を見下すようにしている。
また一つの火が消えた。ティアラに完敗の状態だ。こちらがマークをしていても関係
なしに犯行は行われていく。特別刑事課が揃いも揃ってこんなザマにさせられるとは情
けがない。
「おぉい、生きてっかぁ」
22時過ぎに仕事を終え、署を後にすると金井と住沢さんを飲みに誘った。今回の事
件はこれまでとは違う近距離で行われた。あの専用車からマンションまでの距離、それ
を詰められなかった歯がゆさがどうにもつかえてしまってもどかしかった。あまり飲ま
ないタイプの自分が誘ったことで悟ってくれたのか、2人とも乗り気ではなかったが少
しならと付き合ってくれた。
「生きてっけど、全然」
明日の仕事もあるから潰れない程度にと飲んでいったけど、それでもアルコールに弱
いのもあって少量で良い気分に至っていた。ただ、酔いに浸りながらも頭では事件の納
得のいかない部分を反芻させていた。
「どんな気分になっちゃってんのかは知らないけど明日からも捜査は続くんだから早
いとこ立ち直っといた方が得策だと思うよ」
こういうとき、金井みたいなタイプがいると助かる。楽天家で悪い物事を深く考えす
ぎない。そして、その自分のペースを崩すこともしない。ヘタに慰められるよりこんな
適当な言葉を投げてもらう方がよかったりもする。こっちの気を分かったように語られ
るよりもよっぽどマシだ。
「分かってる。ちょっと気分転換」
そう言いながらも思うのは今朝の場面ばかりだ。
「まぁ、間違っても自分のせいだなんて思わないことだ。あの状況じゃあ、犯行に気
づくのは無理に等しい。俺らはサイト参加者たちのプライバシーを守る必要があるから
遠くからの警護しか出来ない。仕方のないことさ。割りきることが大事だ」
住沢さんの言うことが正解だと思った。いつまでもウジウジしててもしょうがない。
警察である以上、法にのっとったやり方で動く必要がある。法の違反者を捕まえるのだ
からそれは前提になる。しかし、今回はそこに悩まされてるところがある。もっと対象
へ接近したいが法がそうさせない。法を武器に動いている警察がそれに縛られている現
実だ。
「にしても、ティアラってどんな奴なんですかね。私の思うかぎり、ネットの世界で
しか威張れないような陰湿な野郎だとふんでるんですけど。頭脳は明晰だけど意外と本
人は単純な孤独者みたいな」
ティアラがどんな奴か。そんなに考えたことなかった。かなり漠然としたものなら頭
のどこかにぼんやりとあるが。コンビートやマジュニアやアシュリと同じような中高生
の少年の姿。
「良いところをついてる、と言いたいが止めだ。まだ何の目撃情報もない相手に固定
概念を取りつけるのはよくない。男か女かも、外見も、年齢もまったく分かってないん
だから」
住沢さんの言葉に膨らましだしていたティアラの想像を消された。確かに決めつける
ようなマネはよくない。そう思いながらも気には掛かってしまってた。いくら同じ類の
傷を抱えた仲間のためといえ、こんな連続殺人をやってしまえる人間はどんな奴なんだ
ろうと。
自宅に帰ったのは深夜の1時過ぎだった。寝てるかもしれないと思ってたが妹の心は
自分の部屋にいた。扉は閉められているが微かに漏れてくる音がある。まだ試験期間中
だろうか。
冷蔵庫から水を出して飲むとソファへ身を預けるようにもたれかかる。そんなに飲ん
ではいないが普段飲まないぶん酔いはまわっていた。多少の頭痛もあって良い気分とは
いえない。
「おかえりぃ」
「あぁ、ただいま」
体を休めていると妹がいつのまにかリビングに来ていた。冷蔵庫からジュースを出し、
軽い感じに飲んでいく。
「接待?」
ジュースを飲み終えた妹からの質問。外見でも充分酔った様が分かったのだろう。先
輩や上司との付き合いで飲みに行かされることはあっても滅多にここまでにはならない
から。
「そういうんじゃない」
「へぇ、珍しい」
そう言いこぼし、妹は使ったコップを流しの水でさらす。こちらの体を気にかけるで
もなく、特に深いところを聞いてくるでもなく。兄の酔った理由なんかに興味はないの
かもしれないが何事もなかったように淡々としている。
「なぁ」
「んっ」
部屋に戻ろうとした妹を呼び止めた。頭をよぎった疑問を解くために。
「父さんと母さんのこと、思い出したりするか」
その言葉に妹の目は気持ち細くなった。妹のその思いは分かる。自分が最も分かって
やれる人物だから。思い出さないなんてことはないに決まってる。忘れることなんて絶
対にない。愚問といえば限りない愚問だ。だけど、たまに無性に聞いてみたくなる。で
も、いつもは聞けない。少しずつ離れていってる兄妹の関係がそうしにくくしてしまっ
ている。
「いい。忘れてくれ」
結局、流れる空気に耐えきれずに打ち消した。妹は何も言わずに部屋に戻っていく。
扉の閉まった音を聞くと深く息をついた。返答は聞きたかったが、あれ以上は無理強い
をさせてしまいそうで止めにした。それに、あれでも充分なくらいの返答の代わりには
なる。妹は両親のことを今でも思い出している。それを思い出には変えられず、そうい
うことだろう。




