その1
○登場人物
成宮保裕・なりみややすひろ(特別刑事課、過去に事件でトラウマを抱えている)
金井睦美・かないむつみ(特別刑事課、成宮と同期、あっさりした性格)
成宮心・なりみやこころ(成宮保裕の妹、兄と同じ事件でトラウマを抱えている)
正代豪多・しょうだいごうた(特別刑事課、リーダーとして全体をまとめる)
薬師川芹南・やくしがわせりな(特別刑事課、自分のスタイルを強く持っている)
住沢義弥・すみさわよしや(特別刑事課、人間味のある頼れる兄貴肌)
井角・いのかど(特別刑事課、正代とともにリーダーとして全体をまとめる)
根門・ねかど(特別刑事課、頭脳班として事件に向かっている)
六乃・ろくの(特別刑事課、頭脳班として事件に向かっている)
壷巳・つぼみ(特別刑事課、成宮と同期、頭脳班として事件に向かっている)
但見・たじみ(特別刑事課課長)
筑城晃昭・ちくしろてるあき(麻布警察署少年課、成宮と過去に事件で接点がある)
大床・おおゆか(麻布警察署刑事課、成宮と過去に事件で接点がある)
鍋坂・なべさか(子供警察署長)
子供警察、特別事件課。鉄製の自動ドアが開くと中には近未来を描いたような空間が
広がる。ここは未来じゃなく現在。最新設備が投影された一室で各々が各々の仕事に向
き合っている。最高の人員が投じられただけに、質の高さはいいがそれぞれが自分に自
信を持ちすぎているのが難とはいえる。他人に預ける柔軟さも必要だ。己を信じすぎる
のは選択の幅を狭めてるともとれる。それが過剰に達してしまうとここぞの場面で溺れ
ることにもなりえる。過去にスポーツでドリームチームを作ろうとして偏り倒れた例を
何度か見ている。満足すべき点を明らかに捉え違え、選ばれた選手たちが可哀相で仕方
なかった。要はバランスが大事なのだ。
「おはよう」
デスクに着くと、向かいのデスクの金井に声をかける。爽やかだとか元気なものじゃ
なく一応というぐあいの軽いもので。挨拶に重力はない。
「おっは」
金井から返ってきたのも同じく軽いものだった。しかも、紙パックのバナナジュース
をストローで飲みながらの返事。その側にはカツサンドの空の袋があった。これが朝食
なんだろう。ちなみに、朝食はトーストとヨーグルト派。
着席するとパソコンを起動させ、刑事課で遂行中の事件の進行状況のデータを眺める。
昨日の帰宅時と特に変化はない。子供の犯罪は夜遅くには起こりづらい。理由は単純で
明快、子供だから。自分に置き換えてみれば楽だろう。子供時代に夜中に何をしよう。
テレビの深夜放送、ラジオのオールナイトニッポン、友人同士でのふざけたメールのや
りとり、多少の試験勉強。今現在、この身に力となっているものはほとんどない。そん
なものだ。ましてや、犯罪なんてしようという思考に辿りつきやしない。そんな知能が
あったら、もっと身になることをしているはずだ。
子供警察は警視庁の直轄として7年前に新設された特枠の管轄だ。近年多発する少年
犯罪に対し、国家が対策として打ち出した。所詮、メディアや国民の注目を集めるだけ
の付け焼き刃の政策にしか思えないが。注目は自身の実績であげればいい。子供警察に
所属する刑事は22歳から29歳までの新米に限られている。上は年齢が近い方がより
身近な立場を感じられると包み隠してるが、単に新人に警察業務に慣れさせるための訓
練の場だ。本番を利用して教育するなんて、世間へのアピールどころかナメているとし
か思えない。世間は舐められない。そして、ここで数年間の経験を積んだ後に実際の警
察署へと配属されていく。
未成年を相手にするのは簡単で難解だ。大人になりきれてない分だけ心が小さく、言
うことを素直に聞いてくれる小心者が多い。同時に、未完成な分だけ大人が考えもしな
い凶気を起こすことがある。それが悪いことと判別できていないからタチが悪い。無邪
気な笑顔を見せながら罪を犯すんだから残酷だ。自分が同じ年だった頃を思い浮かべ、
そのギャップに戸惑う。
この特別事件課は子供警察の中でも特殊班といえる。刑事課に舞いこむ多くの事件の
重度の高いものを扱うのが業務。責任の強く伴う事件が多く、そこに配属されるのは当
然力のある刑事ばかり。自ら言うのは気が引ける。ここにいるのはエリートコースを歩
む頭脳派と現場で数々の成果をあげてきた実績派、前者は未来へのレールが色濃く見え
ている将来を有望視された者だが現場ではそう役に立たず、後者は現場での実績で階段
を上がってきたが知能で難しくあれこれと考えるのは苦手だ。それはそれでバランスは
とれているけれど言い争いもよく発生する。前者は理論で推理をしたがり、後者は経験
からくる推理をしたがる。ちなみに、自分は後者。インテリのインテリっぽい言いぐさ
を耳にするたびにああはなりたくないと切に思う。
その時、特別事件課の部屋にブザーが鳴り響く。部屋の中央にある大型ビジョンには
赤が染まり、危険をうながしていく。作業に打ちこんでいた全員が顔を上げ、どことい
うこともなく視線を動かしている。やがてブザーが鳴り終わると館内放送の入電へ切り
替わる。
「港区赤坂3丁目の路上で少年が老人男性を刺した模様。少年はその場で身柄を確保、
老人男性は救急搬送していますが意識あり」
放送が終わるとともに部屋にいるうちの数人が立ち上がり、上着を片手に駆けだす。
言わずもがな、実績派のタイプの面々だ。先輩の正代さんと薬師川さんと住沢さん、そ
の流れに遅れずに自分も金井も動きだす。金井は飲みきった紙パックをごみ箱へスロー
イン。目にしているかぎりは百発百中の確率だ。空の袋の方はおそらく戻ってくるまで
デスクの上だろう。
目的地までは専用車で向かう。特別事件課はパトカーは使わない。追跡や尾行をする
こともあるから目立たないカラーの軽自動車が好ましい。運転をするのは自分と金井が
多い。2人とも子供警察に勤務して5年目になるが、特別事件課に配属されてからは1
年目と日が浅い。子供警察では勤務5年目以降の刑事の中から有能な人材を特別事件課
へ送っていく。5年目で送られたとなればそこそこのものと見てもらえてるのだろう。
だが、それでおごれはしない。ここに来れば上には上がいると思い知らされる。いや、
正確にはいろんな刑事がいるんだなと深く思う。自分は自分、他人は他人と思ってるか
ら上という表現はまた違う気がする。そして、ここを卒業して実際に警察署へ行ったら
また多くの刑事に出会うことになる。
目的地へ到着すると、現場では警官2人が少年を抑えていた。少年は暴れるというほ
どじゃないが落ち着きなく動いている。抵抗というより警官の制止に対する反発という
感じに見える。言葉はない。腹部のあたりが赤くにじんでいるのが目立つ。虚ろな様子
でこちらを捉え、不気味に口角をあげている。違和感を覚える。
警官によると、事件が起こったのは約30分前。男性の悲鳴を聞いた警官が来たとこ
ろ、道に伏せて苦しみに顔を歪める老人男性とそれを何ということもなく見下ろしてい
る少年がいた。少年の手には血ににじんだナイフがあり、何が起こったのかを察するに
は充分だった。老人男性はすぐに救急搬送されたが、少年には何を聞いても言葉はなく
緩く動くことだけを続けているらしい。
少年の身柄を引き取り、正代さんと薬師川さんが少年と警察へ戻り、住沢さんと自分
と金井が残って現場整理や聞きこみなどをしていくことになった。といっても、容疑者
と被害者がいなくなった現場に残されたのは痛々しさを浮かべる赤い血の跡とその血を
流させたナイフぐらいだった。2人とも荷物もなく、ここでやれることは無いに等しい。
聞きこみもしたが、早めの時間帯だったのもあってか目撃証言はなかった。実にやりが
いがない。
結局、大した情報も得られないまま警察へ戻ることにした。車内の空気はどちらかと
いうと重い。成果がなかったからじゃない。往路もこんな様子だった。同じ職場に勤め
る同じタイプの面々ではあれど仲良しこよしという関係ではない。嫌いなわけじゃない
し、仕事終わりに食事や飲みにも行くし、チームワークもあると思ってるが友達になる
気はない。多分、全員がそこは同意だろう。それぞれがそれぞれの卓越した部分に敬意
を持っていながら、それ以上に自分自身に自信を抱いている。自意識過剰ともとれるが
これでいい。これぐらいでなけりゃこんな仕事は務まらない。重要事件の犯罪者たちと
接していくんだから簡単に折れるような精神では困る。中には精神の不安定な人間や凶
悪に染まった人間もいる。そんな奴らを相手にしていくために覚悟をしておくところが
あるのは重々承知だ。
特別事件課へ戻ると容疑者のいる取調室へ向かった。取調室の隣の部屋に入るとすで
に数人の刑事がマジックミラー越しに取り調べのやりとりを目にしていた。薬師川さん
の他は頭脳派のチームだ。その代表格である井角さんと我々実績派の代表格の正代さん
がミラーの向こうで取り調べを行っている。だが、容疑者は2人の言葉に反応を示さな
い。聞こえてはいるし、聞こうとしていないわけでもない。ただ、どの事件の容疑者に
もかけているような言葉は彼の中には入りこんでいかない。この狭い部屋の先を透かす
ように遠くを見ているだけだった。一体、何が見えているのか。掴もうにも掴めない乱
れた瞳だ。
「容疑者の情報入りました」
取調室へ入ってきたスタッフに渡された紙に目を通す。容疑者は都内の中学校に通う
14歳、前科なし、両親との3人暮らし。情報は伝わったが、それだけでは動機も何も
解明されない。現に、ミラーの向こうでも紙に書かれた情報を付け加えていくが反応に
変化はない。両親と学校には連絡を入れ、こちらに向かっているとスタッフから告げら
れた。それで進展を望むしかなさそうだ。
正直、こういう場面は珍しくはない。不定な表情や視線や言葉を続ける容疑者とは何
度も対面している。日常の中にはいなくとも、ここにはいる。特別事件課が請け負うよ
うな問題を起こす容疑者は普通じゃない。日常の中に潜んでいても普通じゃない。普通
に見えても実際そうではない。そう見えてるだけだ。その裏を見過ごしてるだけだ。心
にある闇はふとしたきっかけで増長し、取り返しのつかない事件をまねく。起こってか
ら気づいても遅い。悔やんでも遅い。泣いても喚いても遅い。取り返しはつかないのだ
から。
30分ほどで母親が現れた。父親は仕事に出ており、息子ともさほど交流はないので
呼んではいないらしい。母親は申し訳ないというより現状の把握に戸惑っている様子だ
った。それはそうだろう。学校のケンカで呼び出されるのとは訳が違う。部屋に入って
くるとミラー越しの息子の姿に感情がたかぶり、ミラーに手をつけ、聞きとれない声を
発し、最後に泣いた。これもよく見る光景なので、こっちは冷静に対処する。頭脳派の
トップツーである根角さんと実績派のトップツーである薬師川さんが母親を別室へ連れ
ていく。容疑者の情報を得るための取り調べを行うため。あの調子だと時間がかかりそ
うだが、容疑者があの様子だと母親の方が頼みになりそうだ。ここにいてもあとは待つ
だけになりそうなので、いったん特別事件課へ戻ることにした。
その後にやってきた中学校の担任には頭脳派のトップスリーである六乃さんと実績派
のトップスリーである住沢さんが取り調べを行う。頭脳派で残った壷巳と自分と金井の
同期組はそれぞれのデスクに戻って経過を待つ。金井のデスクに置かれたままだったカ
ツサンドの空の袋はようやくごみ箱へ捨てられた。成仏。
各人への取り調べが続く中、特別事件課に被害者の老人男性の死亡が伝えられた。現
場の出血から重い傷になるなとは思っていたが。これで事件は殺人へと切り替わる。い
くら少年法で擁護される部分はあったとしても、人を殺してしまった事実は変わらない。
加害者と関係者、そして被害者の関係者はそれぞれの心に傷を負ったまま生きていかな
ければならない。
「殺人事件か。余計にダンマリになられても困るな」
「どうなるんですかねぇ」
真剣に言った言葉も金井の我関せずな態度にすかされる。待ち時間に飽きたのか爪を
いじっている。ネイルを気にしてるわけじゃない。こんな仕事をしてるぐらいだ。ある
程度の美への追求は諦めている。頭脳派ならまだしも実績派にいるんだから男勝りなん
てもんじゃない。一言で表すなら女の体をしたおっさんだろう。
「まぁ、現場状況からして彼に決定的でしょうね。逆に彼以外に誰がいるってことで
すから」
壷巳の言葉に靄を消される。金井とは違い、事件にまつわる情報収集に余念がない。
さすがは頭脳派だ。パソコンに向かう姿を見てると同期でも敵わないなと思わされる。
その分、事件現場では逆の立場になるが。
「でもさ、実際刺したところ見た人いないんでしょ。本人も死んでんだから証明する
もんはないわけじゃん。ナイフ持ってたから犯人なんて勝手な言いがかりになるかもし
んないし」
「そんなこと言い出したらキリがないですよ。目撃談がなければいけないのなら殺人
事件の大体は刑にできません。被害者が死んで容疑者が口をわらないのなら現場証拠で
立証するしかありません」
金井の意見は壷巳の現実的理論に丸めこまれる。実績派の思いつくものなんて頭脳派
にとっては高がしれてる。そして、我々のようなタイプはこうやって言いくるめられる
ことに無性に腹がたつ。最初から負け試合に首を突っこまないのが正解だ。
次第に取り調べを終えた面々が戻ってくる中、正代さんと井角さんは苦戦をしいられ
ていた。数時間を要した結果、容疑者は口をわらなかった。その交代要員として自分と
金井が取調室に呼ばれる。期待をされての抜擢じゃなく、自分たちが対応している間に
特別事件課では各人への取り調べの内容を集約させて対策が練られる。要はつなぎ、そ
れだけ。
期待もない分、背負うものはなく軽い心持ちで取調室へ入る。閑散とした部屋の中に
は当然容疑者の姿がある。こちらへ顔を向けると何事もないように視線をそらす。着席
するとしばらく言葉のない時間が続いた。取り調べをしたところで正代さんと井角さん
がわれなかった口をこじあけるのは無理だろう。張りきるだけ無駄だろう。それに、さ
っきと同じように遠くを見透かしている容疑者に自分たちの声が届くような気がしなか
った。
「ねぇ」
開口したのは金井だった。どう探っていこうかと思い詰まってたので、こういう場で
彼女のラフなスタイルは助かる。
「そこにずっと黙って座ってて疲れない? 私だったら耐えきれなくて「あ~っ」と
か叫びたくなると思うんだけど。言っちゃったほうがいいんじゃない、もう」
言葉まで軽かった。およそ刑事の取り調べとは思えない。まぁ、正等に追求して何も
変化がなかったのなら同じようにしても同じようにしかならないとすれば、これはこれ
で一つの選択肢かもしれない。と言っても、彼女が作戦でそうしてるわけはないが。
「分かってると思うけどさ、君は疑われてるんだよ。犯人としてね。このままだと罪
になっちゃうよ。言いたいことがあるんなら言っといたほうがいいよ」
金井の程度の低い追求は容疑者には届かない。何も言わないということは犯人である
ことを半分は認めてるようなものだ。違うのなら違うと言えばいい。違うのに黙ってる
必要なんかないのだから。
そこからまた間が空く。隣で金井は退屈そうにしている。あれでもう自分の分は終わ
ったとしたようだ。ずいぶん緩い取り調べだ。
完全に投げられたため、どう打って出ようか考える。通常の言葉では響かない。なら、
どうすればいい。対象である眼前の容疑者を見つめる。ここではないどこかを見るよう
な視線は依然として続いている。
「何を見てるんだ、さっきから」
初めて容疑者へ口を開いた。あの視線の先には何があるんだろうかと気になって。た
だ壁を目的もなく見てるのかもしれないし、こちらを見ないようにしてるだけかもしれ
ないが、彼の目はもっと先に向けられてるようでならなかった。数時間前に自らが人を
刺した現実や被害者の血が上着の腹部に染みこんでいることも気にかからないぐらいの
もとへ。
「空」
呟くような言葉が来た。まさか返答があるなんて思ってなかったから驚いた。でも、
どうして。何か自分が特別なことを聞いたようには思えない。ただ、こんな機会を見過
ごす手はない。
「空が好きなのか」
柔に訊ねてみたが返答はなかった。その代わりにわずかに口角が上がった。これだ。
ここを攻めていけばいいんだ。おそらく彼は空に興味があるんだろう。確かにさっきか
ら彼が眺めていたのは窓の方だった。しかし、窓は小さめなうえに鉄格子もあるせいで
空模様を満足に確認できるものじゃあない。それでも、そこを眺めている。
「どうして空が好きなんだ」
「汚れてないから」
また呟くような言葉が来た。
「汚れてるものは嫌いなのか」
「うん、嫌い」
ゆったりとした声音はその視線の先にある空を漂う様のようだった。結局、容疑者は
それ以上の言葉は発しなかった。事件にまつわる話に転換した途端に元の様子に戻り、
そこからまた空の話題に変えてもこちらの思惑を読みとるように口は閉ざしたままだっ
た。成果をあげられたようには思えたが、実際に聞きだしたのは空が好きな事と汚れた
ものが嫌いな事だけだった。
薬師川さんと根角さんと交代して特別事件課へ戻るとすでに終わった対策会議につい
て説明がされた。母親からは容疑者は普段からおとなしい性格でこんな事件を起こすよ
うなタイプではない、担任からもクラスではあまり目立たない生徒でこんな事件を起こ
すようなタイプではないと証言された。ウチの子にかぎって、ウチの生徒にかぎってと
いう思いは我が身の保身があるとしても、容疑者が我を表に出さない人間であるのは確
かなようだ。なら、どうして彼の心は爆発してしまったんだろうか。最近はそういう小
心な性分の人間による大胆な犯行も増えてきているが、彼もまたその一人なんだろうか。
そう考えてみるが納得にはいたらない。彼の雰囲気や視線がかもすものが何か特殊なも
のである気がしてならない。特にといってこれがどうという確たるものではないが、そ
ういう感覚にさせられてしまう。地に足がついてないような、浮遊してるような、それ
こそ空のような。
正代さんをのぞく実績派の4人で専用車で目的地へ向かう。目的地といってもそこが
本当に目的を果たせる場所なのかは分かっていない。母親の証言によると、容疑者は今
朝はいつもと変わらぬ様子でいつも通りの時間に家を出て行った。しかし、事件現場で
の容疑者は制服ではなくカジュアルな服装を着ており、荷物もなかった。つまり、どこ
かで着替え、どこかで荷物をしまってることになる。
容疑者は口を開かないため、こうして捜査にあたることとなった。陽は沈みだし、帰
路につく人々も目につく。その中には容疑者と同じぐらいの年代の学生もいる。友人と
話をしたり、はしゃいだりしている姿を見ていると妙な気分にもなった。容疑者は昨日
まであの中にいた。そして、今は警察にいる。なら、今は気楽な様子でいるあの学生た
ちも明日には容疑者になるのかもしれない。そう考えてしまい、複雑に心内をからませ
た。
初めは事件現場近くの駅構内にあるロッカーをしらみつぶしにあたっていく。身体検
査の際、容疑者の上着のフードの中からロッカーの鍵らしきものが押収されていた。対
象を絞れたのはよかったが、ロッカーといっても無数にありすぎる。ただ、普通にすれ
ば荷物は駅構内のロッカーに預けるはずだ。それも、容疑者の自宅の最寄り駅から事件
現場付近の駅である線が濃い。
専門業者にも同行してもらい、施錠されてあるものを片っ端に調べる。気の遠くなる
作業に思えたが範囲は絞れてるのでそう時間はかからないだろうと踏んでいたのが誤り
だった。対象になる駅を全てあたったが容疑者の荷物には繋がらなかった。多分大丈夫
だろうと思っていた余裕は砕かれ、気分はすっかり暗くなった空のように先の見えない
ものになっていく。
「どうすんすか。だってこれ、どこのロッカーか完全に分からなくなったんですよ。
一体、どう探せっていうんですか」
金井は気が萎えてしまっていた。いや、金井ほどではないにしろ全員にその風は吹い
ていた。
「そう心配するな。容疑者が家を出た時間から事件までの時間を考えればそう遠くに
は行けない」
確かに住沢さんの言う通りだ。時間経過からすれば遠くにまで行くのは難しい。そう
気づけたことで沈みそうになった気は留められた。
結局、その日の捜査はそこで打ちきられた。区切りもよかったから、そこからは明日
にということに落ち着いた。警察へと戻ると簡単な会議をして解散になった。容疑者は
まだあの空の話以外に口を開いてないらしい。黙秘を行使しているとは見受けられない
様なだけに打開への現実味が見えてこない。
朝一番から一日中どっぷりと事件に浸かっていたため、警察署を抜けると良い脱力感
が体を駆け巡った。それだけ疲労もあるわけだけどこの落差を味わうのは悪いものじゃ
ない。
自宅に帰ったのは22時過ぎ。何ということはないマンションの一室からは明かりが
見えている。仕事終わりで帰ってきた時に部屋に明かりがともってるのは心を穏やかに
させてくれる。
「おかえりぃ」
「ただいま」
帰宅すると妹の心に迎えられる。迎えられるといっても当人はテレビ画面に向かって
ゲームに打ちこんでるだけだけど。まぁ、それでも充分だ。たとえ意識がこちらになか
ったとしても、迎えてくれる人がいるのはありがたい。それが言葉だけのものだとして
も「おかえり」と言ってもらえる事、「ただいま」と言える事は嬉しいことではある。
そんなことをわざわざ言葉にしたりはしないが。
疲れを流すために先にお風呂へ入り、そのまま風呂掃除もやってしまう。時間的に自
分の方が後に入ることになるので半分自動的にこちらの担当になっていた。それが終わ
るとようやく食事になる。ダイニングのテーブルには妹の作った夕食が置かれてある。
自分の帰宅時間が日によってバラバラになるので、妹は待たずに出来たてを一人で食べ
ている。時間の経った冷えたものをレンジで温めて一人で食べる。妹のやっているゲー
ムの画面を見ながら、そこから聞こえてくる電子的な音楽を耳にしながら食べるのはど
こか空しくもある。本当はもっと温かい家族の風景に憧れている。両親と一緒に食卓を
囲み、その日の他愛もない話を言いあう。それだけのことだけどもう叶わない。両親は
この世にはいない。
あれ以来、妹との間に微妙な疎遠感をおぼえている。両親を失ったときの悲しみで生
じたものが時が流れるとともに戻ってきたもの、戻ってこないものに分かれた。決して
ぎこちない関係じゃないが当人同士の中には確かなものとしてある。同時に思春期でも
あるため、どこまで入りこんでいいかにも戸惑っている。学校での大まかな部分は分か
っても人間関係のどうこうはあまり分かっていない。友達と遊びに行ったりしてること
自体は聞かされてもその相手がどういう人なのかは知らないし、恋人はいるのかどうか
も知らない。そこまで踏みこんで聞く距離感じゃないから気になっているままで打ち消
している。
食事が終わる頃に妹もゲームを終わらせて自分の部屋へと戻っていった。きっとベッ
ドにでも寝転びながら友達とメールをするんだろう。そう思いながら息をついた。自分
は兄らしいことを何も出来ていないなと思って。金銭面だったり、保護者としてのあれ
これぐらいだろう。相談事を聞いてやったり、2人でどこかに出掛けたり、もっとして
やりたいとは思ってる。でも、一度遠ざかってしまったものを引き戻すのは容易ではな
かった。もしかしたら、勝手に自分がそう思ってるだけでやってみれば簡単なことかも
しれない。ただ、それによって今以上に2人の間が遠くなってしまうのが怖いだけだ。
もう両親はいない。手を差し伸べても触れられない。だから、自分がちゃんとその距離
にいてやらないとならない。
翌日は朝一番から住沢さんと金井とで昨日の捜査の続きにあたった。また専門業者に
同行してもらい、今度は都心の主要の駅構内にあるロッカーをあたっていくことになっ
ている。
「ホントに見つかんのかな、これ。主要駅になかったら各駅とか気が遠くなるような
作業になりそうなんだけど」
愚痴ぎみに言いこぼしながら金井は助手席で朝食をとっている。紙パックのバナナジ
ュースとカツサンド。一つの店で同じメニューを毎回頼むタイプ。食事を理由に朝一番
で運転を任されるのは慣れている。
「それならそうするまでだ」
「げっ、マジ? 絶対嫌なんだけど」
そりゃ、こっちだってそんな先の見えないことを続けるのは嫌に決まってる。だが、
刑事として事件の真相を追究する責務がある。そこに向かうための道筋、そう思えばそ
う苦にはならない。
「俺らはとりあえず指示の通りに動いておけばいいんだ」
「ふえぇ、いつになることやら」
本当にいつになるんだと思う忍耐と根気強さが求められる作業だった。その末に見つ
かれば御の字だが見つからない可能性の方がずっと高い気がした。
しかし、それは意外に早く終わりを迎えることになった。「意外に」といっても捜査
開始から数時間は要していたが、金井が言っていたように気が遠くなるような作業にな
ると予想していたからそれに比べれば全然マシな結果だった。
モノは新宿駅構内のロッカーから発見された。喉から手が出るように探していたのに
いざ発見されるとずいぶんあっさりとした感覚だった。スクールバッグは容疑者の通っ
ている学校のもので中身も本人のものであることを確認する。ただし、中学校の教材や
学習道具の中に明らかに異質といえるものがあった。あまりにも無造作に入っていた拳
銃と実弾に3人とも度肝を抜かれる。
警察へ戻り、特別事件課の面々に押収したスクールバッグを見せるとやはり一様に驚
きの表情を浮かべていく。少年が何かの衝動的に見知らぬ老人男性に手をかけて結果殺
してしまった、そう最近の少年犯罪ならありえる状況だろうとしていた推測は壊された。
拳銃と実弾まで所持しているのなら話はまた違ってくる。事前から計画された殺人、そ
うなる。
容疑者の家の家宅捜索も行われた。特別事件課の面々でのぞんだが、こういうときは
なんだか相手方の陣地への殴りこみに行くような面持ちに駆られる。家へ入ると容疑者
の部屋を中心に片っ端から捜査がなされていく。凶器を含めた少年の真実へ繋がる何か
を求めて。しかし、結果は得られなかった。家にある物の中に事件に関連しそうな物は
なかった。
正代さんと井角さんを中心に容疑者に対してより厳しい取り調べが行われていく。多
少の荒々しさも伴った、気性の起伏もあらわにした態度を見せていく。ただ、それでも
容疑者の反応は変わらなかった。鉄格子の窓の先にある空を眺めるだけ。こちらの変化
にはいくらかの嫌悪感を出していたけれど、彼の心の中にある穏やかさを邪魔すること
へのものだろう。
自分と金井も昨日と同様に特別事件課で対策会議がされている間に取調室を任される
ことになった。その先を見ているような視線はまだ続いている。より一層に分からなく
なってくる。この子の真実は一体何なのか。金井も昨日のようにラフな対応はとってこ
ない。眼前で穏やかそうにしている少年の奥にある凶気を危惧して。もう、彼はそこら
にいる普通の中学生とはとれない。
一応、空の話からしてみる。反応なし。学校生活の話をしてみる。反応なし。家族の
話をしてみる。反応なし。普段の生活の話をしてみる。反応なし。他の刑事が耳が痛く
なるほど続けていた事件についての話はなるべく避け、普段の会話を心掛けてみたが無
理だった。だが、どこか期待はあった。昨日彼が自分にだけ口を開いてくれたのは事実
だから。
結局、この日は容疑者が話をすることはなかった。ダンマリというよりも自分の世界
に入りこんでいる。陶酔じゃなく彼の思う世界に自身を漂わせているように感じられる。
どんな世界なのかは分からない。一つだけ分かるとすれば、そこにはきっと空があるの
だろう。彼がただずっと見上げ続けているあの空、そこにどんな思いをもって映してい
るのだろう。
翌日も容疑者への取り調べは引き続き行われていく。当然、彼は口を開かない。食事
は普通に三食ともとっているが留置場でも朝も夜も空の方を見上げていることが多いら
しい。
拳銃と実弾はまぎれもなく本物だった。無論、正規に手に入れることは出来ない。凶
器に使われたナイフもそうだ。殺傷能力のあるバタフライナイフ。一体、どういうルー
トで入手したのか。
「どうして容疑者はナイフで刺したんですかね」
特別刑事課で煮詰まった空気が流れている中、ふと金井がもらした。
「だって、拳銃で撃った方が絶対安全じゃないですか。拳銃なら距離があっても狙え
るから被害者に悟られることなく撃てるし、わざわざ接近戦になる方を選ぶ必要がない
と思うんですよ。ヘタしたら、被害者に抵抗されて自分が傷を負う可能性だってあるわ
けだし。そんなリスク冒してまでナイフで刺すかなぁ」
それはそうだ。容疑者は明らかにリスクを背負った方法を選んでいる。拳銃なら被害
者にも誰にも見つからずに殺害もでき、そのまま逃走することだって可能だ。こんな表
現はなんだがバレなければ罪は形として成立しない。ナイフならたとえ見つかることは
なくても刺した時に被害者の血は間違いなく受けることになる。実際、容疑者の服は赤
く滲んでいた。どちらが加害者にとっていいのかは一目瞭然といえる。なら、彼はどう
してナイフを選んだんだ。
疑問は深まっていくばかりだった。なのに、出口は見えてこない。肝心の容疑者の口
が開かなければ解明されない。どうすればいい。もっと彼の心を揺さぶれるだけのもの
がないと。
新たな展開は14時をまわった頃に舞いこんできた。押収した容疑者の荷物から情報
を分析していた六乃さんと壷巳が新情報に辿りついた。スクールバッグの中にあった学
習道具に何か事件に結びつくものはないかと探っていたところノートの中の一枚の先端
に切りとった跡があった。その切れ端はなかったものの、その次のページの同じ部分を
なぞると微かな文字が浮かびあがってきた。切れ端の部分に書いた文字が次のページに
跡となって残っていたのだ。書かれてあった文字は英字で書かれた「ボルト・フロム・
ブルー」、カナで書かれた「ティアラ」、そして携帯電話のメールアドレス。
「ボルト・フロム・ブルー、聞いたことあるな」
「青天の霹靂、だと思います」
「このティアラはどういう意味だ」
「名前じゃないですか? 多分、そのアドレスの持ち主の」
つまり、ハンドルネーム。容疑者は何かしらのネットワークを通じてこの相手と接触
をとったんじゃないだろうか。それは何ということもない程度の事かもしれないし、何
か事件にかかわる事かもしれない。
至急この情報にまつわる真相の究明に取りかかっていく。頭脳派チームはネットワー
クを駆使し、詳細に迫っていく。ここから容疑者について、事件について近づいてくれ
ることを願い。
格闘の結果、つまづきと進展のそれぞれに至った。書かれてあったメールアドレスの
携帯電話はすでに解約されてあり、契約した人物の情報について調べたところ偽造され
たものだろうと判断された。使用した履歴も容疑者の携帯とのやりとりしか浮かばず、
契約期間も短いため疑問を抱かざるをえなかった。おそらく容疑者に対してのやりとり
限定で契約されたもの、そう考えるのが妥当なところだ。
他の疑問にも辿りつくことができた。「ボルト・フロム・ブルー」はネット上にある
サイトの名前だった。名の知れたサイトではなく、知ってる人間だけが知っているとい
う感じのものだ。真っ黒な背景色に扉だけのトップページ、扉の部分をクリックすると
次のページが開かれる。ページ自体は掲示板形式の単純なコミュニケーションツールだ
ったが全体的に暗い雰囲気が漂っている。特に最上部に書かれてあった前書きに惹きつ
けられた。
『私たちは仲間だ。深さや程度は違っても傷を持って生きている。さぁ、あなたの傷
を話してごらん。私たちが受け止めてあげるから。傷を共有して絆を結ぼう。私たちに
も明日はある。私たちにこそ』
体の悪い勧誘や悪徳商法のような惹きつけ方に思えたが、その思惑を察しながらも目
を奪われてしまう不思議な力を感じた。何か言葉以上の力が働いてるような変な感覚だ
った。
掲示板に参加してるのは文章から学生がほとんどだった。内容は学校や家庭での人間
関係の歪みが多い。いじめ、親からの強制、人間不信、退屈な日々への怠惰など真剣な
相談からささいな愚痴まで周囲への不満が並んでいる。怒りを移すように乱雑になぐっ
たスレッドに対し、他の参加者たちが感想や意見を込めたレスをつけている。その大体
は共感だった。あの前書きにあるように全員が携えている傷を共有することで絆が生ま
れている。仲間になっている。
こういったネットワークでの繋がりには不思議なものがある。会ったこともない相手
に対してこれだけ心を許せるのだから。それも現実世界の人間関係に苦労している者た
ちが素直に自分を明かしている。おそらく、面と向かわない分だけ内面で繋がれる感覚
が生じてるんだろう。自分本来の部分を分かりあえる関係と認識し、安心して信頼を置
くんだろう。
そして、この掲示板の参加者の中に「ティアラ」というハンドルネームがいた。たび
たび名前は出てくるがレスが多くスレッドは立てていない。そして、六乃さんと壷巳の
調べによると容疑者もここに参加している可能性が高いとされた。「コンビート」とい
うハンドルネームの書いている文章が容疑者の身辺と重なる部分が多いらしい。それが
本当なら容疑者とティアラという人物はこのサイトを介して連絡を取りあう関係になっ
ていたということか。事件へと繋がるものかは不明だが新たな情報が開けたことに安堵
もあった。
その新情報をもって取り調べが再開された。容疑者は相変わらず同じ様子を続けてい
る。その様にてこずっていた正代さんと井角さんも今回は少しの希望を持っている。マ
ジックミラー越しに見つめる特別刑事課の面々も同様だった。自信というよりも希望。
これが塞がれたらどうするんだという不安もあって。顔をだしてくれた但見課長も慎重
に事態を見ている。これまでほとんど響かせることの出来なかった容疑者の心を揺らせ
るか。
「コンビート」
その名前を告げると、鉄格子の隙間からもれる光に向けられていた容疑者の視線がこ
ちらへ向いた。瞬間的なものじゃなくゆっくりと。だが、それは明らかにこちらの発し
た言葉によるものだった。空を眺めていたときのような穏やかさはない視線、この先を
探るような視線が向けられている。
「君の名前だな」
少しずつ正代さんは攻めていく。容疑者は動かない。互いに出方をうかがっている。
どこまで踏みこんでいるのか、踏みこめているのか、踏みこまれているのか。注意深く
探りあっている。
「君の荷物を調べさせてもらった。その中にこれがあった」
井角さんが例のノートの切れ端をなぞった紙を差しだす。容疑者の視線がそこへ向く。
反応は見られない。
「君はコンビートというハンドルネームでこのサイトに書きこみをしていた。そうだ
ろう?」
表情はくずれない。ただ、ずっとそこを見ている。
「君が主に書いていたのはクラスメイトからの矛盾した嫌がらせに対するものだ。自
分はまったく悪くないのに性格の問題で悪質な言葉を投げられたり、ときに暴力も振る
われたりしている。それに納得がいかない、と」
理不尽ないじめによる喪失感と怒り。その思いをあのサイトにぶつけてたんだろう。
母親と担任への取り調べではそんな話は出てこなかった。きっと独りきりで内に閉じこ
めていたんだろう。現実世界では誰にも打ち明けられず、ネットワークの中へ吐きだし
ていたんだ。
そのとき、容疑者の口角が小さくあがった。
「そうか・・・・・・バレちゃったのか」
視線を上げた容疑者の顔はさっきまでのものとは違った。穏やかさは消え、感情のつ
かみにくい乾いた表情へ変わっている。その視線は手前の正代さんと井角さんはおろか、
その先にいる我々のことまで捉えているように思えた。
「このコンビートという名前は君のものだな」
「あぁ、そうだよ」
普通の言葉だった。それでも通常の会話に比べればゆるやかだったけど、今までの容
疑者の放っていたどこか非現実的な様子からすればそれは現実的な様へと移されたもの
だった。
「このティアラというハンドルネームの人物とはどういう関係だ」
「仲間」
「仲間。どういう仲間だ」
「僕の傷を分かってくれる仲間だ」
容疑者は次第に落ちつきを戻していく。芯をつかれた動揺があったんだろうが時間が
経つにつれて悠然とした様子になっていく。
「ティアラとはメールのやりとりをしていたのか」
「うん」
「どういうやりとりをしてたんだ」
「別に。掲示板の延長線のようなものさ」
「掲示板の他の参加者たちとは関係はあったのか」
「無いよ。僕らの関係は掲示板ですむものだったから。みんなとっても温かく迎えて
くれるんだ。絶対に僕の味方をしてくれるし、それぞれが傷を背負ってるから相手の痛
みを分かってやれる。最高の仲間さ」
確かに、彼らにとっては救いの場所だったのだろう。心に傷を負ったままにさまよう
しか出来なかった者たちが集まることで互いを救いあうことが出来た。それはそれで成
立された素晴らしいことだ。
だが、そこでは終われない状態になっている。成立されていたはずのものが壊れた。
だから彼はここにいる。あのサイトの中で満たされる日々のままではいられない何かが
生じた。爆発した理由がそこにはあるはずだ。
「なら、ティアラとはどうして個人的なやりとりをしてるんだ」
「向こうからコンタクトがあったんだ」
「どういうふうに」
「「メールでもしない?」って」
井角さんは息をつき、話は一旦途切れる。本筋へ入ろうとしていた。
「ティアラと最近連絡を取ったのはいつだ」
「3日前」
事件前日だ。
「どういう話をした」
「僕が「あいつら殺してやりたい」って言ったら「じゃあそうしようか」って」
その言葉に室内の空気は一瞬にして変わった。「殺す」という直接的なワードが出た
ことに体は敏感に反応した。これまで踏みこめなかった真相の領域に着実に近づいてき
ている。
「その後は」
「具体的な話かな。決行日や場所や方法とか」
「向こうが指定してきたのか」
「うぅん。僕の好きにしていいって言われたから僕が決めた。あいつら、放課後によ
くつるんでるからそこを狙うってなった」
「ティアラは実行には参加しなかったのか」
「あぁ。僕がやらないと意味がないって言ってたし。凶器とかは全部用意してくれた
けど」
凶器はティアラがそろえたものか。確かに、普通の中学生が入手できるものじゃない。
それと同時に疑問が必然と浮かぶ。
「なら、君はどうしてそいつらじゃなく被害者を刺したんだ」
「ティアラから凶器を受け取って、あいつらを殺しに行った。初めは拳銃にしようと
思ってたんだ。あんなやつらのために僕が捕まるなんておかしいと思ったからね。ただ、
いろいろ思い返してるうちにムカついてきちゃって。拳銃で一発で殺すんじゃなくナイ
フで苦しみながら殺してやらなきゃ気がすまなくなって変えたんだ。あいつらが苦痛に
悶絶しながら果てていく姿を想像して怒りを沈ませながら歩いてたら前なんか見えなく
なっててあの爺さんと肩がぶつかったんだ。お互いに心ここにあらずだったせいで体ご
と倒れて。爺さん、僕に罵声みたいに荒げた態度できたんだ。僕がガキだったから勢い
よくきたんだろうけど相手が悪かった。ただでさえ調和のとれてなかった僕の神経は簡
単に切れちゃってさ。ナイフを取りだして向けたら人が変わったように怯えだしたよ。
でも、もう遅い。金縛りにあったみたく固まってた爺さんにあっさり刺してやった。な
んていうか、経験したことない快感だったよ。体の中をえぐるような感触で心が安らい
だ。その喜びに満ちてたら警官に見つかっちゃって。あれだけは不本意だったな」
笑みすら見せながら語っていた。感触を思い起こし、充実感にひたっている。まるで
現状に満足してるようだった。どうしてそんな顔になれるのか理解できない。当初の目
的は果たしていないのに。普通なら志なかばで悔しさが最初に訪れるんじゃないんだろ
うか。
「君は罪もない人間を殺したんだぞ。それを何とも思わないのか」
「思わないね。あの爺さんが悪いのさ。だって、僕がいじめられてる事実を発したと
してもみんなはこう言うと思うよ。「お前が悪いんだ」って。所詮、そんなもんさ。被
害者は徹底的に被害者であるんだ。それを脱したければ加害者になるしかない。加害者
を被害者におとしいれることで被害者である自分を脱出するのさ」
「それは違うだろ。君が加害者になったところで君をいじめていた加害者が存在して
いることに変わりはない。なら、ただ単に加害者が増えただけだ。君の言ってることは
矛盾してる」
井角さんの言うとおり、容疑者に手をかけていた加害者には何も変化はない。それで
この事件に何の意味があるというんだ。当人の自己満足にすぎない。それによって命が
一つ失われている。
「違くないよ、刑事さん」
容疑者は自信ありげな表情を浮かべている。こちらの指摘は間違ってなんかない。な
のに、その意味深な表情が不気味だった。
「あいつらは死ぬ。もうすぐね」
突拍子なさすぎて言葉の意味が分からなかった。
「どういうことだ」
「ティアラが約束してくれた。僕がもし復讐を果たせなかったら代わりに自分がやる
から安心してくれって」
自分がやる?
「何だ、それは」
「何だ、って・・・・・・そういうことなんじゃない」
不敵な表情を見せる容疑者に嫌な予感が体中を駆けめぐった。まずい、部屋にいる刑
事の全員がそう察した。




