その11
○登場人物
成宮保裕・なりみややすひろ(特別刑事課、過去に事件でトラウマを抱えている)
金井睦美・かないむつみ(特別刑事課、成宮と同期、あっさりした性格)
成宮心・なりみやこころ(成宮保裕の妹、兄と同じ事件でトラウマを抱えている)
正代豪多・しょうだいごうた(特別刑事課、リーダーとして全体をまとめる)
薬師川芹南・やくしがわせりな(特別刑事課、自分のスタイルを強く持っている)
住沢義弥・すみさわよしや(特別刑事課、人間味のある頼れる兄貴肌)
井角・いのかど(特別刑事課、正代とともにリーダーとして全体をまとめる)
根門・ねかど(特別刑事課、頭脳班として事件に向かっている)
六乃・ろくの(特別刑事課、頭脳班として事件に向かっている)
壷巳・つぼみ(特別刑事課、成宮と同期、頭脳班として事件に向かっている)
但見・たじみ(特別刑事課課長)
筑城晃昭・ちくしろてるあき(麻布警察署少年課、成宮と過去に事件で接点がある)
大床・おおゆか(麻布警察署刑事課、成宮と過去に事件で接点がある)
鍋坂・なべさか(子供警察署長)
晴れた空を動いていく雲を眺めている。澄んだ空を健康的な色をした雲がゆっくりと
自由に漂っていく様は見ていて羨ましいものだった。自分もあんなふうに生きられたら
どんなに幸せだろう。いや、自分だけじゃなく世界中の人たちが。あんなに穏やかに時
間を忘れるほど流れるように毎日を過ごせるなんて理想系だ。現実があまりにもひどく
苦しいものだからその思いはより強く胸を締めつけていく。こんなに素敵な空があるの
に地はいつも悲しさを帯びている。正解を知っているはずなのにほとんどの人間が愚か
に曲がった道を選んでいる。もういい。今日でそれも終わる。明日からは苦しまなくて
いい。
ねぇ、どうして地はあの空のようにいれないのかな。
どうして人間は地を汚すことをしてしまうのかな。
どうして人間は他人の心より自分の心を優先してしまうのかな。
どうして人間は正義の心を持ってるのに悪の心に走ってしまうのかな。
どうして正義はいつも悪の陰に隠されてしまうのかな。
どうして正義をいつまでも掲げていられないのかな。
どうして平和を願ってるのに正義を突き通せないのかな。
どうして平和へ回り道しか出来ないのかな。
誰もその正解を教えてくれなかった。もう限界だ。自分で答えを作りに行くことにす
るよ。
空は今日を温かく見守ることにしてくれたみたいだ。ありがとう。さぁ、平和への一
歩を踏みだそう。
ゆっくりとぎこちなく空に笑った。緊張に心が振れている。掴んで優しく宥めたいぐ
らいに。もう何人もこの手にかけてきたのに言うことを聞いてくれない。ずっと思い描
いてきた日をやっと迎えられた高揚感に苛まれていく。今日が終わる頃には全ての結果
が出ている。どうなっているだろうか。明日もこうやって空に向かって笑っていられる
だろうか。
そう思いを馳せているうちに時は近づいてくる。先の方に敵の姿が見えてきた。仲間
を奪い、長く辛い拘束をした悪。警察という名の悪だ。あなたたちにこっちの仲間を奪
う権利なんてない。正義を貫いた人間を罰する権利なんてない。だから、こっちに返し
てもらうよ。
エンジンをかけておいた大型トラックのアクセルに錘を乗せ、敵に向けて急速発車さ
せた。無人の車は加速を続け、目標に目掛けて一直線に進んでいく。相手の車内の慌て
だす様は遠方からでもぼんやりと見られた。もう遅い。突き刺さるように馬鹿大きな衝
撃音とともに車同士が正面衝突し、相手の車は後方へ大きく進んだ。日常にありえない
状態が起こる中で静けさが再びやってくる。この時間にこの場所に交通が無いに等しい
ことは調べてある。
衝突の一連の様子を眺め、大したことはないだろうと判断して近づいていく。側にな
ってくると慎重に窺いながら敵の状況を見る。車の運転席にいる敵は体をかろうじて動
かせるほどの状態でいた。思った範疇の被害とできるだろう。別に殺すつもりはないか
ら。あなたたち自身に罪はない。ただ、仲間の拘束に関わってる時点で敵ではある。警
察に関わってる時点で敵ではある。よって、計画の邪魔にならないように死なない程度
に痛い目に遭ってもらう。相手の車を過ぎていく中で運転席にいる敵と視線があった。
こっちは全身黒ずくめでフルフェイスのヘルメットまでかぶってるから理解に迷う表情
を相手はしていた。そのまま車の後方にまわり、扉を開けると中には数人の拘束者と2
人の監視役がいた。床に転がっていたり、痛む箇所を手で押さえていたりしている。衝
突の被害はそこそこのようで全員の視線がすぐにこちらへ向いた。敏感に反応して「誰
だ」と勇んだ監視役を2人続けて銃で撃つ。肩先にしておいたから死にはしない。うる
さい蚊を黙らせるだけのこと。いきなりの発砲で他の拘束者たちは身を竦ませていた。
その中から奥の方に膝で立っていた仲間を見つけると自然と心は緩んだ。近づいていく
と初めは警戒の目をしていたけれどヘルメットのシールドを開けると仲間であることを
分かってくれたみたいで解けた。
「行こう、コンビート」
柔らかく勇ましくなるように言葉をかけて右手を差し出した。目の前のコンビートも
右手を合わせてくれた。力強くその手を引いて体を起こすとそのまま車外へ飛び出し、
その場を走り去っていく。繋がっている手を通して心も繋がり合えてるような気がして
安らげた。
子供警察は朝一から大きなうねりを上げていた。コンビートを含めた数人の容疑者を
乗せた鑑別所への移送車が何者かに襲われた。走行中にいきなり前方から無人のトラッ
クが対向して突っ込んできて衝突し、全身黒ずくめの人物が容疑者たちを解放していっ
たらしい。移送に携わっていた職員3人のうち、運転席にいた1人は衝突によって体が
動かず、容疑者たちの監視役2人はその黒ずくめの人物に銃で撃たれた。3人ともやら
れたため、容疑者は全員が逃亡した。
事件の内容を聞いて特別刑事課はすぐにティアラによるものだろうと推測した。無人
のトラックを使った犯行はリーフのときのものに重なる。衝突を受けた職員も発砲を受
けた職員も命に別状はないことも住沢さんのときのものに重なる。警察に関わる人間に
は危害も加えるが命を奪うことはしない。おそらく、ティアラによる犯行に間違いない
だろうと踏んだ。
今回の事件にはこれまでの連続殺人事件と違う点がある。犯人がその姿を見せている
ということだ。これまでの事件では犯人は一切目撃をされてない。なのに、今回は正体
は隠しているものの姿をはっきりと見せている。これはどういうことだ。誰か共犯者が
いるのか。いや、このスムーズな犯行の進行はティアラ本人としていいだろう。それに、
共犯者だとしたら共犯者にだけ姿を現させることをするだろうか。仲間への絆を見せて
きたティアラがそんな計画を立てるだろうか。絶対ではないがその線は薄い気がする。
これまでに映ってきた印象からはその感覚はどうも受けつけられない。なら、ティアラ
はどうしてこれまで完璧にこちらに映させてこなかった姿を見せたんだろうか。あまり
に尻尾も捕まえられない警察にヒントでも出そうという余裕の行動なのか、何かそうす
べき理由のある変化なのか。
とにかく事件を突き詰めていく必要がある。被害を受けた職員の治療を待って詳しい
事件の状況を聞き、コンビートを含めた容疑者たちを捕まえなければならない。こちら
の仮説が正しいのなら、コンビートとティアラの関係は確実なものとなる。コンビート
を捕まえればそこからティアラへ繋がる道を開けるかもしれない。
対策会議が終わるとほぼ同時に特別刑事課の電話が鳴り、壷巳が対応する。特に気に
はとめずに捜査に入ろうとしていたがその応対の言葉に違和感が伴う。他のメンバーも
同じように壷巳の言葉に耳を向けていく。どこか緊張しているような探り探りの言葉を
選んでいる。いくつかのやりとりを終えると壷巳は「正代さん」と受話器を差し出して
口を開く。
「今朝の事件の犯人です」
その言葉に部屋全体が一瞬にして張りつめたものに覆われた。ただ、その言葉の真意
が掴めない。
「どういうことだ」
「分かりません。でも、そう言ってます」
正代さんは壷巳から受話器を受けとる。目が強いものになっている。もしかしたら、
そう思うと高揚する思いは素直に体にとどろいていく。それは部屋にいる誰もが同じだ
った。
「もしもし」
「・・・・・・正代さんですか」
相手の声は部屋中に響いていた。おそらく壷巳がうまいタイミングで全員に聞こえる
ようにスピーカーの設定にしてくれたのだろう。しかし、その相手の声は加工をされた
ものだった。細工の施された機械的な声になっており、相手の実態の芯の部分に探りこ
めない。
「そうだ」
「・・・・・・初めまして。お話しできてうれしいです」
「誰だ」
「・・・・・・さっき言ったはずですけど」
「今朝の事件の犯人、か」
「はい」
一つ一つに間がとられた余裕のある感じだ。
「それじゃあ信じられないな。何か証拠でもあるのか」
正代さんが揺さぶりをかける。
「・・・・・・証拠も何もないでしょう。事実なんだから」
落ち着いている。動揺の仕掛けに乗ってこない。それに、正代さんはどう対応するか
巡らせていく。
「なら、君が犯人ということにしよう。どうしてあんなことをしたんだ」
「・・・・・・仲間を守るため」
「仲間というのはコンビートのことか」
「・・・・・・そうですね」
いやにあっさりと認めた。ということはこの声の主が誰かということが鮮明になって
いく。こちらの思う通りならこれは今までに類がない接近になる。すぐそこにその声が
ある。
「お前は・・・・・・ティアラか」
今ここにいる全員の心の声を正代さんが言葉にした。体が引き締まり、神経が研ぎ澄
まされる。
「・・・・・・・そう呼ばれてるんだ。容疑者とか言われてんのかと思った」
崩すような笑いが含まれていた。否定をしていない。つまり、この声の主がティアラ
ということになる。これまで追いかけても追いかけても掴めなかったものが向こうから
ひょんとやってきた。予想をしてなかった突然の状況の来訪に否が応にも鼓動は高鳴っ
てくる。
「ティアラ、お前はどうしてこんなことをしているんだ」
「・・・・・・それもさっき言ったかな。仲間を守るためです」
「そんなのおかしい。仲間を守るためなら人をいくら殺してもいいのか」
「・・・・・・あの人たちはしょうがない。そういうことをしたんだから」
「なにも命を奪われるようなことはしていない」
「・・・・・・でも、あの人たちは生きていたら同じ事を繰り返す。みんなは何も悪
いことなんてしてないのに辛い目に遭わないといけない。それを知っていて、見て見ぬ
フリをするのも立派な悪だ」
募る感情を抑えこんだ言葉だった。どうやら、ティアラの仲間意識の深さは本物のよ
うだ。ただ殺人への興味で事件を起こしている可能性もあったがその線は薄くなる。掲
示板だけで繋がれていた関係を初めは軽視もしていたがそれは本気の思いから導かれた
固いもののようだ。
「悪と言っているが、お前のやっていることだって充分な悪だろ」
「・・・・・・それは違う。正義を守るための純粋な行為は悪にはならない。我々は
ただ正義を貫いてるだけだ。そこによこしまな感情は何もない。あなたたちのやってる
ことこそ、正義を潰す悪の行為だ」
「ふざけるな。これだけの犯罪を起こしておいて何が正義だ。そんなもの成立するは
ずがないだろ」
「・・・・・・正代さん、あなたはそこそこキレる人だから分かってくれるかもって
思ったけどやっぱりダメだ。これだから立場のある人間は困るよ。型に嵌まったような
考え方しかできない」
ティアラの声色の変化は加工された声からでも察することができた。向こうの理想の
通りにはいっていないようだ。連続殺人犯と警察が同調というわけにいかないのだから
覚悟の上だ。
「お前の目的は何だ」
ティアラの様子の変化を受け、正代さんが本題に踏みこんでいく。こんな子供警察の
中枢といえるところへ電話を掛けてきたからには相応の事があるのは間違いない。一連
の事件を終えたティアラが警察と向かい合い、隠されてきた芯の部分に手をかけようと
している。
「・・・・・・警視庁警視総監、警察庁長官、警察署長、各警察組織における幹部の
人間たちの一斉更迭。全ての警察関係者に対しての免職か否かの処分の判断。それにお
ける全ての権限をこちらに預けること。以上」
その言葉はこの部屋にいた全員の思考を捻らせた。ティアラから提示されたものはこ
ちらの様々な予測をことごとく裏切るものだった。これまでに数えきれないほどの推理
を繰り返してきたがこんな警察組織全体の規模の提示をされることは誰も思ってはこな
かった。
「どういうことだ」
「・・・・・・言ったままですよ」
「そんなことができるはずがないだろ」
「・・・・・・やってもらわないと困ります」
「何を言っている。そんなことをして何になる」
「・・・・・・現行の警察を変えさせてもらいます。全ての警察関係者を正義の信念
を持った者たちだけにし、全ての制度を悪に苦しめられる正義の被害者を第一にしたも
のにします」
「どうしてだ。どうしてそこまでしないとならない」
「・・・・・・大体分かりますよね。今の制度で理不尽に傷をつけられている人たち
がたくさんいるからです」
ティアラの言わんとしてることは伝わる。ティアラが苦しめられている道理にかなわ
ない現実やその胸の痛みは分かっている。でも、それによって起こした行為は間違って
いる。殺人はどうあってもやってはいけないし、憎むべき警察を変えるなんて無理に決
まってる。
「無理だ。そんなことは出来ない」
正代さんも言いきった。ティアラの恐ろしさは承知だがどう汲んでもこれは呑めやし
ない。
「・・・・・・なら、しょうがない。強引にでもそうさせてもらいますよ」
息をつき、ティアラはそう言った。その言葉の不気味さはここにいる誰もが容易に分
かりえた。
「どういうことだ」
「・・・・・・今度はあなたたちの大事なものを傷つけてあげます」
静まっていた部屋の空気が止まった。その言葉の深さがどれだけのものかが理解でき
ない。
「何をする気だ」
「・・・・・・そうですねぇ。どうしましょうかねぇ」
もったいぶるようにすかされる。こんな緊張感の中で遊ぶようにしている感覚が胸糞
わるい。
「薬師川さん。どうせ、聞こえてるんでしょ」
ティアラが薬師川さんの名前を呼んだ。どうやら、こちら側の全員が声を聞いている
ことはお見通しのようだ。しかし、さっきの正代さんのときといい、こちら側の人間の
ことまでよく把握しているようだ。
「あなたの大事なもの、何ですか」
その問いかけに薬師川さんは表情を強張らせていく。ここにいる人たちも次第にその
理由を理解していく。薬師川さんの大事なもの、それはきっと目に入れても痛くないと
言っていた子供のことだろう。
「かわいいですよね、赤ちゃんって。どうしちゃおうかなぁ」
挑発するようなティアラの言葉に薬師川さんは怒りをなんとか堪えている。ここで発
奮しては相手の思うツボだ。感情の高鳴りは仕方のないことだが今はそれを抑えないと
ならない。
「嘘ですよ。さすがに正義も悪も分からない何の罪もない赤ちゃんに手をだしたりは
しませんよ」
フッと落ち着きをはらった言葉に一時の安堵が訪れる。ただ、それは本当に一時のも
のだった。
「でも、皆さんにもそれぞれ大事なものありますよね。それを傷つけられたらどんな
思いになるのかを味わうといい」
その言葉に全員が思いを高ぶらせていく。自分の大事なものが傷つけられたら、そう
頭の中に描写して。
「成宮さん」
その最中に名前を呼ばれ、引き戻される。ティアラに名前を呼ばれたことの違和感が
体中に伝わっていく。そして、この悪い流れの中で線上に引きだされた事態のまずさを
感じる。
「まず、あなたの大事なものからにします」
その言葉に心をチクリと刺されたような感覚にとらわれた。標的に定められた現実へ
の異質感。その標的が自分を通り越したところにあるという更なる異質感。その両方が
同時にやってくる。
「時間を決めさせてもらいます。今から5時間後、16時にそちらの答えを聞かせて
ください。こちらの望む答えでなかった場合、対象をこれまでと同じような姿に変えさ
せてもらいます」
「待て。5時間なんて、そんな短時間でそんな大きなことを決められるわけがないだ
ろう」
「・・・・・・なぜですか。迷う必要なんてないでしょう。人の命がかかってるんだ
から警察の出す答えなんて一つでしょ。それとも、警察は自分たちの立場のためなら市
民の命なんてどうでもいいと言うんですか」
「そんなことは言ってない。だが、あまりにも要求が大きすぎる。もう少しだけ時間
をくれないか」
「・・・・・・いいからさっさと決めろっ」
それまでと一変して荒げた声をあげて電話は一方的に切られた。部屋には張られた緊
張の残されたものとそこから解かれた解放とがじわじわ広がっていく。ただ、その中で
自分と正代さんは放たれるものが何もなかった。背中に背負わされたものはあまりにも
大きかった。
「・・・・・・成宮」
重い空気の中で唯一かけられた金井からの声もどこか遠い感覚にあった。もう金井は
分かってるんだろう。ティアラが新たに対象と定めたのが誰であるか。当然、自分でも
それは分かっている。どうにもやりきれずに定まらない思いの中で頭には妹の心の姿
が掠められていた。
事態はこれまでを上回る急速さを必須としていた。残る5時間の間に警察は答えを出
す必要があった。但見課長と井角さんは鍋坂署長とともに警視庁へ赴き、幹部の集まる
緊急会議に同席することになった。根門さん、六乃さん、壷巳、頭脳班はティアラの動
向を探っている。自分と金井と薬師川さんはその指示を待ちながらの捜索に入り、正代
さんは全体の指揮をとる。
「成宮」
運転席にいた金井に強めに呼ばれ、意識が現実に戻される。窓外の景色を目にしてる
うちにいつのまにか思考の世界に飛んでいた。言うまでもなくそこに映していたのは妹
の姿だった。
「しけた顔してんなよ」
「うっさい」
突っかかる金井のいつもの言葉にも力ない言葉しか返せなかった。正直、それどころ
じゃなかった。頭の中も心の中も不定にしかいてくれない。自分が刑事であるというこ
とを引き合いにしてもうまく整理なんてできなかった。夢なら今すぐに覚めてほしいと
思ってやまなかった。
妹には何度と連絡をしようと試みているが通じていない。学校にも連絡したが今日は
登校もしていないらしい。考えたくはないが、今朝の登校中にティアラの手に奪われた
とするのが最もスムーズにいく線になる。どこに行ったのか、辛い目に遭ってないだろ
うか、そう思うと居たたまれなくなっていく。
そのとき、腕をガッと掴まれてまた意識が現実に戻された。腕を掴んでいた金井は強
い視線でこっちを見ている。
「お前が守るんだろ。他に誰がやるんだよ。妹だってお前が助けてくれんの待ってん
じゃないのかよ」
突きつけられた言葉が胸に刺さる。そうだ、もしかしたら今頃はティアラの手中で想
像もしたくないような極限の恐怖に苛まれてるのかもしれない。心の中で「助けて」と
叫んでるかもしれない。なら、助けるのは誰だ。自分しかいないだろう。10年以上前
の両親の事件が起こされていく。あのときは皆を助けてやれなかった。あのときに妹の
ことは絶対に守ると誓ったはずだ。それが今じゃないのか。今、自分が妹を助けるとき
なんだ。
「大丈夫。約束の時間が来るまでは妹さんに手をかけたりしないはずだから」
金井とは対称的に薬師川さんは場を落ち着かせる言葉を掛けてきてくれた。あまり気
を高揚させすぎるのもよくないことを考えたうえでの冷静な判断だった。薬師川さんも
こっちの気持ちを分かってくれている。ティアラから子供のことを言われたとき、整理
のしきれない思いになったはずだ。今の自分を我が身に置きかえていることだろうとも
思う。やりかたは違えど金井も薬師川さんもこちらの気を充分に察してくれているのは
伝わってきた。
警察専用車でまず初めに向かったのは自宅だった。ティアラの動向の情報のない現時
点でできることは妹に関わりのある場所を辿っていくことだった。その中でも、今日の
足取りである自宅から学校までの間を調べるのが第一となる。そして、その最初の場所
となるのがここだった。
今朝目が覚めたときにはリビングにはもう妹の姿はなく、キッチンにはラップの巻か
れた自分の分の朝食が置かれてあった。何も変化のない朝だった。でも、その裏では変
化が起こっていた。そんなことに気づくことなく、いつもと同じと錯覚した朝を過ごし
ていた。
自宅を3人で見回っていくが変化は見当たらない。もとより、そこまで干渉し合わな
い関係だったから元々の状態を知らない。妹の部屋にはどんなものが置かれ、どういう
趣味嗜好をしているのかもおぼろげにしか分からない。もっとちゃんと妹のことを見て
いれば、そう思ったところで今はどうにもなりはしなかった。
「・・・・・・無い」
悔やみきれない思いに沈みながら妹の部屋を眺めていると一つの変化に気づいた。
「どうした」
「家族写真が無い」
10年以上前、両親と一緒に撮った思い出の写真。自分の部屋と妹の部屋にそれぞれ
飾られているはずのものが写真立てから抜き取られている。
念のために自分の部屋にも行ってみるがそこには変わりなく写真があった。
「どういうことだ」
どうもこうも、まるで分かりようがない。
「妹が持ってったってことか」
そうだとしても意味が分からない。どうして今日にかぎって家族写真を持っていく必
要があるんだ。
「まさか、ティアラが持ってったってことはないよな」
それこそ意味が分からない。それじゃあティアラがここに侵入したことになるし、ど
うしてティアラがウチの家族写真を持っていく必要があるんだ。
様々な考えを続けてみるがどれも答えには程遠い気がした。家族写真が無くなってる
ということがまったくの理解不能な事だった。
あぐねていると携帯の振動があって現実に戻される。出ると送信者の壷巳は気があが
っていた。
「見つかった。妹さんの携帯の電波きた」
その言葉になんともいえない感情が上がってきた。喜びたいけれど何も妹の安否には
繋がっていない現実もすぐにやってきて。
「どこだ」
「横浜、工業地帯の方」
横浜。しかも工業地帯。明らかに本人の意思ではないことは窺える。それは同時に妹
がティアラの手の中にある可能性が強まったことも意味していた。ただ、喜べはしない
が前進したのは確かだ。
専用車へ戻り、急いで車を走らせていく。今の状況において、都内から横浜までの移
動はタイムロスになる。それに、こちらの到着までに向こうが現在地点から移動するこ
ともありうる。
移動の時間はもどかしさが続いた。掴みたかった妹の居場所を掴めたのに今すぐには
手を伸ばしてやれない現状に。こうしてる間にも妹の身には恐ろしい思いが降りかかっ
ているかもしれない。相手は何人もの人間に手をかけてきた。事態のまずさに変わりは
ない。
周囲の変化にもこれというものはなかった。頭脳班は妹の居場所を見つけてくれたが
ティアラについての捜査には決定的なところへはまだ至っていない。警視庁で行われて
いる緊急会議も難航に入りこんでいる。人質の救出や犯人の逮捕は為さなければならな
いことだが要求の大きさがあまりにものネックになっていた。形勢としては要求は呑め
ないという意見の方が強い状況らしい。つまり、警察側は妹を救う判断はしてくれない
ということになる。犯人の思うがままにしてはならない、犯罪者に対して毅然とした態
度でいなければならない、そういう言葉で包みこんで事を過ごそうとしている。なら、
自分がそれまでにやらないとならない。妹をこの手で助けなければならない。
目的地に着いたのは14時過ぎ、約束の時間まであと2時間弱。ここに来るまでの間
に妹の携帯の電波に移動した形跡はなかった。より多くの時間を使わずにすんだが単に
携帯だけが何らかの理由でそこに置かれていっただけということもありうる。安心しき
れず、不安を消せない状況は続いている。
壷巳の指示の通りに向かった先は工業地帯の外れの海岸沿いだった。人影もなく、使
われている様子もない錆びれた倉庫が2つ並んでいる。周囲にはこれという建物もなく、
海岸線沿いに遠巻きに見れる工業地帯からは孤立している場所だった。ここに妹が本当
にいるのかと思いたくなる雰囲気だったが指し示しているのがここであるのに違いはな
いのだから疑うことはない。
2つ並んでいる倉庫のうち、右側は扉が閉まっていて左側は扉が半分以上開いている。
迷わず左側の倉庫から潜入することを決め、扉の前まで近づいていく。拳銃を発砲可能
なようにし、息を整える。この倉庫の中には妹がいるかもしれないのと同時にティアラ
がいるかもしれない危険性もある。初めての対面になるかもしれないと思うと高鳴って
くるものは自然とあった。
「ここにティアラがいるかもしんないんですよね」
金井はすでに戦闘モードに入っていた。何度もしてやられてきた相手への敵意を感じ
られる。
「いい。妹さんの安全が第一。ティアラはいろいろ手を使ってくるかもしれないけど、
さっきも言ったように約束の時間までは妹さんをどうこうすることはないはずよ。相手
の手にのらないように落ち着いていきましょう」
薬師川さんは頼もしく冷静だった。相手の心理を理解したうえでの最善の策を心得て
いる。
全員で目を合わせ、薬師川さん、自分、金井の順に倉庫へと入っていく。扉の外から
の光と上の方に並んでいる窓からの光で視界に不自由はない。倉庫の中には体よりも高
く積み上がっている木材が並んでいるけど相当使われてないようで廃れた空気が充満し
ていた。少しずつ歩を進ませていくが倉庫中にある木材のせいで辺りの様子さえうまく
掴めない状態だ。
中央のいくらかスペースのある道を進んでいき、ついに奥まで見えた。奥の部分には
この中央の道と同じほどにスペースがあった。木材の陰から奥の部分を慎重に見た薬師
川さんが変化を表した顔でこちらを振り向く。
「いた。妹さん」
小さな声だったけれどとても大きなものをこの体に運んでくれる言葉だった。はやる
気持ちを抑えてゆっくりと動きだすと次第に妹の姿が映ってくる。今すぐにも駆けつけ
たい衝動にかられながらもなんとか抑える。妹は座りこんだまま目を閉じていたが気配
に気づいたのか目を開いてこちらに向けた。気が弱ってるようで妹の反応は大きなもの
ではなかったけれど視線は強くこちらに向けられている。
辺りを見回しながら一歩ずつ近づき、妹の場所まで辿りつく。木材の束に縛りつけら
れていたロープをほどくと妹も締めつけられていたものから解放されたように安堵の顔
を浮かべた。
「大丈夫か」
「・・・・・・うん」
和らいだ表情の妹を目にしてようやく自分も安心ができた。
「よかった。何事もなくて」
同じように薬師川さんも安心してくれていたが、その横で金井だけは浮かない表情を
している。
「何かおかしい」
そう呟くと金井はしゃがんで同じ目線になった妹へ話しかける。
「あなたをここに連れてきた奴、どこ行った」
問い掛けると妹は思い返すようにした後、首を振った。
「ティアラがここにいないのはおかしい。この子は約束の交渉に大事なはずなのにこ
んな置き去りにしていくわけない」
それはそうだ。確かにこの展開はあまりにこちらに優しすぎる。これがただのミスだ
としたらティアラらしくない。となると、これが向こうの意図した展開であるというこ
とも考えられる。
「このどこかにティアラが潜んでるかもしれない」
倉庫内を見回しながら金井は言い響かせた。もしかすると、我々はティアラの蜘蛛の
巣の中に入りこんでいるだけで向こうはそれをどこかから眺めながら機会を窺っている
だけなのかもしれない。この状況ですらティアラの意のままに進んでるものということ
なのか。
「私、行きます」
銃を構え、金井は倉庫内の捜索に立ち上がる。
「待って。私も行くわ」
金井の意気に薬師川さんも続く。
「俺は・・・・・・」
「成宮くんはここにいて。妹さんのことを見てて」
2人に乗り遅れて立ち上がったけど薬師川さんにそう制止された。弱り座ってる妹の
姿を振り返り見てその言葉の通りにすることにした。
静けさの中、この倉庫の遥か先で鳴っているであろう音が小さく届いてくる。何かが
起こる前兆なのか、ただの静寂なのか。後者であってほしいけど前者である気がしてな
らない。どうにもならない胸騒ぎがする。
そのとき、バンッという強烈な爆発音が前方から襲ってきた。倉庫の入口の方の木材
が爆発とともに四方八方へ勢いよく弾け飛び、爆風が一気に向かってくる。何が起きた
のかと目を奪われていると耳先で銃声が鳴り、眼前にいた薬師川さんの左の肩先が撃ち
抜かれる。その音に振り向いた金井が足から崩れていく薬師川さんを見た直後に異変を
感じたように銃をこちらに向けてきた。全てがスローモーションに過ぎていく感覚の中
でその様に理解が出来ずにいると後頭部に異質な感触を受ける。あってはならない感触
だとすぐに察することができた。ゆっくりと振り向くとそれはあってはならない光景だ
った。自分の頭に向けられていたのは銃で、それを向けていたのは妹だった。理解不能
でしかなかった。場面として目で理解することはできても、現実として頭で理解するこ
とは無理だった。
「おとなしくしてね」
冷静にさらりと妹は言葉を発した。