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子供警察  作者: tkkosa
10/14

その9



○登場人物


  成宮保裕・なりみややすひろ(特別刑事課、過去に事件でトラウマを抱えている)


  金井睦美・かないむつみ(特別刑事課、成宮と同期、あっさりした性格)


  成宮心・なりみやこころ(成宮保裕の妹、兄と同じ事件でトラウマを抱えている)


  正代豪多・しょうだいごうた(特別刑事課、リーダーとして全体をまとめる)


  薬師川芹南・やくしがわせりな(特別刑事課、自分のスタイルを強く持っている)


  住沢義弥・すみさわよしや(特別刑事課、人間味のある頼れる兄貴肌)


  井角・いのかど(特別刑事課、正代とともにリーダーとして全体をまとめる)


  根門・ねかど(特別刑事課、頭脳班として事件に向かっている)


  六乃・ろくの(特別刑事課、頭脳班として事件に向かっている)


  壷巳・つぼみ(特別刑事課、成宮と同期、頭脳班として事件に向かっている)


  但見・たじみ(特別刑事課課長)


  筑城晃昭・ちくしろてるあき(麻布警察署少年課、成宮と過去に事件で接点がある)


  大床・おおゆか(麻布警察署刑事課、成宮と過去に事件で接点がある)


  鍋坂・なべさか(子供警察署長)





 煙たくなるような嫌な空気が車内に充満している。発しているのは自分、感じている


のも自分、全てがこの車にいる自分自身の中で算じているもの。時々、無性にムカつい


てきてしまう。


 薬師川はクライスの対象の警護にあたってから7日目の朝を迎えていた。長丁場は覚


悟しているとはいえ、ここまでくるとさすがに精神的にこたえてくる。毎日のほとんど


を専用車の中で過ごし、狭い空間に長時間いることや警護で集中を続けていることなど


で疲労はかなり溜まってきている。


 東京から近いこともあって特別刑事課のメンバーも交代するように気をつかってくれ


ているけれどなるべく断るようにしている。地方で頑張っている成宮と金井に悪い。け


ど、2回だけその甘えにのらせてもらった。まだ小さい子供の様子がどうにも気になっ


て正代と壷巳に数時間ずつ交代してもらった。


 クライスの対象の周囲に変化はない。ただ、その間に事件は大きく進展している。成


宮が向かった大阪でタマゴの対象がやられ、住沢が担当した神奈川ではリーフがやられ、


金井が成宮と合流していた福岡では源氏の対象がやられた。ことごとくティアラにして


やられているどころか住沢までもその犠牲にあってしまった。幸い深い傷にはならなか


ったものの、仲間が撃たれたことで自分の置かれている状況の危険さを再認識させられ


た。


 ボルト・フロム・ブルーの掲示板の参加者たちの苦しみの対象で残っているのはクラ


イスのみ。つまり、次に狙われるのは間違いなくここになる。昨日源氏の対象が殺され


たという報せを聞いてから胸騒ぎが止まらない。いつ魔の手が来てもおかしくない現状


に平静を保つのが難しい。


 そんなこっちの心情は知らないように埼玉の子供警察は今までの通りの警護を続けて


いる。今の状況がどういうものかは分かっているはずなのに。事件が起きてからでない


と動けない、現行の制度の悪い部分をままに受けてしまっている。これでは淡い期待し


か持てない。


 クライスの対象は今は自宅にいる。いつもなら部活動で朝の早い時間に家を出て行く


けれど今日は休日なのでそれがない。学校や会社も休みだからか、この時間の人通りは


そこそこにしかない。平日なら出勤や通学の姿がよく目に映るのに。休日はしっかり休


むのはこっちからすればうらやましいかぎりだけど妬みきれもしない。刑事の仕事がこ


うだと分かってて志望し、結婚や出産をしても復帰することを選んだのは他でもない自


分なのだから。


 そんな思いさえ浮かんでくるぐらいに何事もない時間がただ過ぎていく。休日なのも


あってかのどかで平和な流れだった。天気も良く、このまますぐにでも眠りにつけそう


だ。忍耐力には仕事柄それなりの自信があるけれどここまでになると散漫になりそうに


もなってくる。もう気力との勝負でもある。ただ、ティアラがここを狙っているのは確


実に等しい。萎えていられない。


 ティアラはどうやってここを崩してくるつもりなんだろうか。コンビートの対象のと


きは夕方の公園のトイレ、マジュニアの対象のときは夜の自宅、アシュリの対象のとき


は早朝の自宅、タマゴの対象のときは昼の通勤時、リーフのときは朝の病室、源氏の対


象のときは深夜の自宅。時間帯はまったくのバラバラ。つまり、24時間のどこにでも


事件を起こす可能性が均等に散りばめられていることになる。場所は対象の自宅が多い


が密室に近い空間であることは共通している。突発的ではなく計画的、同一犯による周


到な様がうかがえる。


 密室で邪魔者のいない空間を作りだすにはどうするのか。正直、自宅に潜りこむのは


今回は難しいんじゃないかと思っている。家の中には対象以外に両親と弟が住んでいる。


ここで一週間近く眺めているところだと対象が自宅にいる時間には他の誰かしらが家に


いる。対象が家に一人きりになる状況を待つのはこれから犯罪を起こそうとしている人


間の心理からすれば気が遠くなりすぎて平常心を保っていられないんじゃないだろうか。


ティアラがそんな小さな点を撃つような狙いをするようには思えない。家族がいるとき


に潜入するのも危険すぎる。物音や声が発せられることのないままに犯行をやってのけ


るのは困難だ。そんな確実性のない方法はとらないだろう。家族にもしも見つかれば大


騒ぎになる。自宅付近に刑事がいることも分かっているはずだ。かといって、家族全員


に手をあげて証言を残らなくする強攻策もしないだろう。マジュニアの対象のときには


そうしていたがそれは家族が対象だったからということ。今回は違う。ティアラが今ま


でに攻撃をしてきたのは対象と警察だけだ。そうなると自宅は安全な選択ではなくなっ


てくる。


 学校で攻撃するのも難しいだろう。学校内で対象が一人きりになる場所がないと思わ


れる。周囲に気づかれずに犯行を成しとげられる空間がそうないだろうし、そこに彼女


は一人で行くようなタイプではない。さっきも挙げたように確実性のない方法は選んで


こないだろう。


 なら、どうしてくる。一体、いつどこでどうやって対象を狙ってくる気だ。絞りこめ


ない状況なのは相手にとって苦戦となる場面であるのと同時にこちらにしても攻めこま


れる方法が絞れずに可能性が大きく広がってやりにくくなる。考えれば考えるほど息が


詰まっていく。


 一度頭を落ち着かせようと力を抜いていると大型車が対象の自宅の前に停まるのが視


界に入った。まさかという感覚に気を引きしめるけれど宅配便の車から出てきたのは普


通の青年だった。家のインターホンを鳴らし、丁寧な接し方で母親に荷物を渡して引き


あげていく。何も変わった様子のない場面だった。さすがにあそこから強行突破をして


いくなんてことはないだろう。第一、あれじゃあこちら側に自分の姿を丸見せじゃない


か。考えすぎか。


 息をつき、考えるうちに一つの可能性が頭の中でピタリと止まった。それは最悪とい


える状況を映したものだった。そんなことはない、もしもそうだとしたら、2つの思い


がぐるぐると駆け巡る。前者だとしたら慌てて大事にしてはならない。でも、後者だと


したら取り返しのつかないことになる。どうするべきか、今ここで決断しなければなら


ない。


 即断の末、専用車を降りて対象の自宅へと向かっていく。上の判断を待つ時間なんか


ない。最も起こしてはならない事態を避けるための行動をとる。結果次第でどうなるか


も承知している。後の事は後の事。処分でも何でも覚悟の上。私は刑事だ。刑事として


あるべき姿勢をとる。


 「ちょっと。どこ行く気ですか」


 案の定、前に停めてあった地元の子供警察の専用車に乗っていた刑事から呼び止めら


れる。


 「対象の家です。今届いた荷物を確認します」


 「はぁっ。何言ってるんですか。上の確認はとったんですか」


 予想通りの言葉が来て思わずため息が漏れる。


 「そんな暇はない。あの荷物に何かがあったらいけない」


 「ちょっ・・・・・・そんなこと許されるわけないじゃないですか」


 「許される許されないじゃない。人の命が懸かってるんだ」


 「ダメです。待ってください。今、上に確認とりますから」


 懸命なこちらを制止させようとする言葉には信じがたかった。自らと警察の保身しか


考えていない対応。そんな刑事を育ててる人間に確認をとったところで来る返事は分か


りうる。そんな制止は振りほどいて家に向かって進んでいく。後ろからの声は一切無視


して。


 そのとき、異変は前方から急速に襲ってきた。対象の自宅の2階からいきなり強烈な


破裂音とともに爆発が起こった。衝撃で顔を背け、向き直すとその一室からは黒い煙が


のぼっている。窓ガラスは木っ端微塵に砕かれ、そこから事態の重さを表すような気味


の悪い色の煙が上がっていく。しばらくすると母親の泣き声が聞こえ、父親の叫ぶ声が


何度と聞こえてきた。その言葉は娘である対象の名前だった。


 目の前に映る最悪の状況を呆然と眺めていた。起こしてはならない事態を起こしてし


まった。




 遠くから耳にする爆発の音は心地良く、脆く崩れる命のあっけなさには物足りなさす


ら感じられた。計画や実行の過程は長く険しいものだったのにこうして一つの区切りへ


到達すると意外にあっさりとした感情があった。


 当然、嬉しかった。それが一番の感情だった。仲間のみんなの苦しみの種を潰せたこ


とで充足感に満ちていく。自分がみんなの役にたてた。似た思いを抱えたみんなを次の


場面に踏みだせるようにできた。よかった。


 ただ、一つだけ心残りもある。リーフにしたことだ。彼の苦しみは彼の中にあるもの


だった。だから、そのために彼自身を殺めた。でも、その決断をするのには悩みぬいた。


リーフの苦しみの種を潰すことは彼自身の消失に繋がってしまう。本当にそれでいいん


だろうか。彼を殺めることが正解なんだろうか。そうしなければ苦しみの種は潰せない


けど、そうすることは彼のその後の人生を失くしてしまうことになる。リーフは苦しみ


の種が消えることを望んでいた。それが自らの命と引き換えに無くなること、そのこと


によって次の場面に踏みだせると彼はしていた。天国だとか後世だとか現実味のないも


のが存在するのかは知らないけど自分が失くなることが次の何かへ羽ばたいていく翼に


なるんだとしていた。彼は自分自身で決断をした。私が今頃どうこう思ってもどうにも


ならないと思う。けれど、仲間を失ってしまったことは辛い。全てが終わったらみんな


で笑い合いたい、そう思ってたから。


 その思いも抱えながらも計画は続けていかないとならない。完全な人間なんていない


んだ。寄り添ったり、認め合ったり、妬んだり、僻んだり、尊重したり、憎み合ったり、


様々な感情を心に宿す。その誰しもが正義と悪を持っている。その両極を自らに共存さ


せながら生きている。どちらに傾くかはそいつ次第。強い人間は正義を貫く。弱い人間


は悪に手を染める。なのに、現実は悪が正義の上に立つようにはびこっている。こんな


の狂ってる。こんな世界じゃいけない。そう、ここで立ち止まるわけになんていかない


んだ。一度走りだしたからには最後まで走りぬく。それが悪の犠牲になっていった正義


への報いになると信じて。


 これからは自分自身のための戦いになる。この心を苦しめ続ける種を潰し、その根源


ごと断ち切る。もう二度とあんな思いをしないように。もう二度とあんな思いを誰にも


させないように。




 事件の捜査に薬師川は身が入らなかった。心に穴が開いたように熱がどこかに逃げて


いくようだった。瞳に映った光景が鮮烈すぎてこの脳を汚染するように埋めつくして離


れていかない。


 クライスの対象に届けられた荷物に入っていたのは爆弾だった。おそらく開封と同時


に起爆するようにセットされていたんだろう。爆破によって対象は即死。部屋も無残な


状態になっていたけれどそれ以外の家族や部屋に被害は及ばなかった。対象本人だけを


始末できるように作られた爆弾なのだろう。その方法からティアラによる犯行である線


はより強くなる。


 対象の家族はただ悲しみに暮れていた。対象がこんな事態に巻きこまれたことが理解


できず、訳の分からない状態に整理に苦しんでいた。それもそうだろう。家族には対象


がクライスにしていた行為は伝わってないし、それがこんな事件にまで繋がるだなんて


思いもしない。


 捜査は夜まで続けられたけれどあまり加わることはしなかった。こんな言い方は大人


としてどうかとも思うけど気が乗らない。こんな制度に乗っかった定式でしか動こうと


しない真面目集団とやりたくはない。


 正直、あのときに地元の子供警察の刑事に足止めされなかったら間に合っていたかも


しれない。事件を未然に食い止められたかもしれない。そう思うとやりきれなかった。


それは自分自身にでもある。あそこで聞く耳も持たずに振りきって対象の家へ向かわな


かったのが悔やみきれない。一つの命を自分が失わせてしまったかもしれないと思うと


胸が痛んだ。


 埼玉の子供警察には事の成りゆきをままに伝えた。連続殺人事件の流れからして次は


明らかにクライスの対象が狙われること、実家暮らしの対象を誰の目に映らずに直接手


にかけるのは難しい状況だったこと、宅配便が届けられたときに怪しいと思って対象や


家族に捜査をしていることを疑われるのを覚悟で中味の確認に向かったこと、その途中


で地元の子供警察の刑事に止められて上の判断が必要だと言われたこと、直後に爆発が


起こったこと。あそこで制止させられなければ爆発は食い止められたかもしれないとい


うニュアンスをかもしながら。当然、そのときの刑事2人は反論をする。あの場面では


上の確認をとる必要があること、こちらがした行動が勝手な自己判断であること、爆発


が起こってしまったのは確かだが事前に分かるものではなかったのだからあそこは規律


通りに動いた自分たちは正しいということ。いかにもな正論を並べていく部下も部下だ


し、「どちらの考えも正しい」とありきたりな言葉で終わらせた上も上だった。そんな


こと言いだしたら事前に防げる犯罪をいくつも起こしてしまう。規律が絶対ならロボッ


トにでも捜査をやらせればいい。命令の通りに動いてくれるから。人間がやるんだから


そこに感情や思考は入ってくる。それがどれだけ大事なことか。犯人が人間なのだから


それは大きな力になる。そこも分からなければならない。


 東京の特別刑事課へ報告すると正代さんは最後の対象をやられたことに落胆を隠せな


い様子だった。救えたかもしれない命だった無念を素直に伝えると「俺なら行けと指示


してた。お前は間違ってない」とかばってくれた。胸の痛みが消えたわけじゃないけど


味方になってくれる人がいてありがたかった。


 結局、この日にさほどの進展はなかった。宅配物に関する詳細は実物が無くなったの


で確認は難しい。業者にあたったが対象に宛てた荷物は今日の記録にはなかった。記録


にないのだからウチには関係ないと言いたげな対応だったらしい。記録にないというこ


とはつまりその業者にはその宅配物自体が存在していないことになる。何かしらの方法


で記録に介さないように宅配物の中に紛れさせたのかもしれない。配達をした青年にも


あたったが多くの宅配物の中の一つという認識しかなかったのであまり印象に残ってな


いらしい。毎日のようにこなしている作業のため、一つごとの宅配物に強い意識を向け


てはいないようだ。まぁ記録にないのだから差出人などの情報を覚えていたところで適


当に書かれたものだろうけれど。


 対象の周辺への聞きこみもこれという情報には結びつかなかった。対象からクライス


へのいじめを口にするクラスメイトはいたけれどさすがにそこから今回の事件へ繋がっ


たとする者はいなかった。それではクライスが犯人とすることになってしまうからだろ


う。クライスに対する印象はそんなことをしでかすものではとてもない。それなら今回


の事件はなぜ起こったのか、彼ら彼女らの心内はそう揺れている。ティアラという存在


に気づくことはなく。




 消化のしきれない強すぎる思いに心の中は煮えていくようだった。源氏の対象の事件


の捜査を福岡の子供警察に任せ、金井と東京へ戻った直後にクライスの対象が殺された


ことを伝えられた。久しぶりの東京の特別刑事課の雰囲気に浸ることさえできず、最後


に残されたクライスの対象への警護について話し合うことさえできずにティアラにやら


れてしまった。悔やむというよりもただ呆然となった。何も出来ずに結果を受け入れな


ければならない現実を突きつけられて。


 東京へ戻ってくるまでの間もずっと事件のことを考えていた。クライスの対象は絶対


に守らなければならない最後の砦だった。そこをどうしていくかをありとあらゆるシチ


ュエーションから対応策を練っていったのに全て水の泡と消えることになった。そこに


は空しさすらあった。


 一つの線が切れた感覚だった。ボルト・フロム・ブルーを発見してから掲示板の参加


者の苦しみの種である対象たちを守るために奔走してきたのがこれで途絶えた。こんな


言い方はしたくないがティアラの完全勝利といえる。


 その日は腐りかけそうな思いにやられながら溜まった雑務をこなしていった。これで


連続殺人事件に区切りがついたこと、埼玉の捜査情報を待ってから次の対応をすること、


長い地方捜査による疲労を考慮されたことでそう指示された。正直、頭の中が詰まって


いたのでよかった。


 この日は雑務が一段落ついた夜の早い時間に解散となった。正代さんは「明日からも


捜査は続くからな」と気を引き締める言葉を全員へ伝える。ただ、クライスの対象を失


ったことで心にある固いものがどこかへなくなってしまったのは否めない。それは特別


刑事課の面々の様を見ていれば分かる。


 「どうしたもんかねぇ」


 帰りぎわに金井がもらした呟きぐらいしか言葉はなかった。明日からも解決への糸口


がほぼ見当たらない捜査が続くのかと思うと憂鬱さもあった。これまでは対象を守ると


いう責務を持っていたが、これからもそれと同等以上のメンタルを保てる糧があるのか


とすれば微妙だ。




 「おかえりぃ」


 「ただいま」


 久しぶりに帰った自宅には特別な思いが生じた。いつも当たり前のように帰る場所が


こんなにも安心感を与えてくれるものだと実感することができて。帰る家があること、


そこに誰かがいてくれること、家の中の明かりが点いていること、変わらない空間に迎


えてもらえることを幸せと思えた。一連の事件の捜査による疲労がまたそれをより強く


感じさせてくれた。


 張っていたものが抜けたような脱力感が訪れ、自分の部屋のベッドにダイブして身を


落ち着かせていく。ベッドの少し冷えた様に体は吸いつくように居心地がよく、数分は


そうしていると「お兄ちゃん」と近く遠くに声がした。


 「んっ」


 「そのまま寝ない方がいいよ」


 「あぁ、分かってる」


 本当に寝てしまいそうな状態に向かっていきそうなタイミングだった。多分、妹の言


葉がなかったら朝まで眠りについていただろう。ここ数日はぐっすり寝れてなかった分、


深く沈むことは間違いない。


 「ごはんあるからね」


 「うん」


 「お風呂も入ってるから」


 「うん」


 「洗濯はやっとくからいいよ」


 「うん」


 言い流すような適当な返事をしていった。こうして言葉を掛けてもらえることがどん


なに喜ぶべきことかも感じている。それでもここでそれを素直に表現するような関係で


もないことが邪魔していく。疲労のせいにしてなんとなくの対応で終わらせている自分


が少し嫌だった。


 気力を起こそうと閉じていた両目を開くとちょうど左手の腕時計が眼前に映った。か


れこれ10年以上もしている。自分にとって、長持ちしているとか愛用品とかで分けら


れるものではない。これは父親が愛着をもって使っていたものだ。だから、両親を失く


してからは形見として自分が使っている。壊れても修理してもらってなんとか今までは


もっている。


 母親の形見の指輪は妹が持っている。結婚指輪は両親を送るときに棺の中に入れたの


で婚約指輪だと思う。事件当時はまだ妹も小さかったので手近に置いていたがいつから


か指にはめるようになっていた。妹は妹なりに両親への思いが今も心にあるのだろうと


思う。


 自分は両親の代わりにはなれない。どんなに頑張っても無理だ。妹の心に開いている


穴を埋めてやることはできない。自分は自分に出来ることしかできない。それがもどか


しくもあるけれどしょうがない。その範疇を越えることはできない。両親が今も生きて


いたらと考えることはあるが最終的にいつもそれを打ち消している。考えるだけ空しく


なることに気づいてしまうから。人は過去とともに現在を生きていく。忘れられない過


去を抱えて。



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