国王・3
「あれが最後の皇帝の娘であるならば、王妃に迎えてもおかしくない身分ではないか」
「そういう事にはなりますが、肝心の陛下のお気持ちは?」
「気持ち、か?」
「ええ。あれは一心に陛下をお慕いしています。ただ、親や兄弟を思う気持ちに近い様な気も致しますが」
「そのようだな。あれが思う程、自分が立派な王では無いと言う自覚はあるさ」
「王としては、今のままでも十分御立派だと思います」
やはり育ての親である乳母の言葉は痛い所を突いてくる。
「王としての手腕は、まずまずだが、私生活が褒められたものではない、という事か」
「はあ、まあ……そのあたりは御自身でもお判りでしょう。私は王としての陛下では無く、おひとりの男の方として、あの子をどうお考えか、どうなさりたいのか……差し支え御座いませんでしたら伺っておきたいのです。今はまだ、はっきりしたお考えはお持ちではないような気もいたしますが」
「そうだなあ。あれが大人になるのを傍で見ていたい。それ以上はろくに何も考えていない。ただ……あれが、なぜ記憶を失っているのか、その謎がとけていない以上、今の扱いをあまり変えない方が良いかも知れないとは思っているがな」
以前セシリアが「女である事に心底絶望するような辛い事を戦場で見聞きして、女の子としての自分を無意識にでしょうが放棄したのでは」という仮説を述べた事が有る。あの初潮の一件以来秘密を共有してくれているロベルトが信頼を寄せている侍医も、そのセシリアの仮説に賛意を示した。失われた記憶も恐らくそのあたりの事情と絡んでいる、というのもセシリアと侍医の二人に共通した見解だ。
「内面的な成長に伴い、御自分で女に戻ろうとなさるまで、あまり無理はしない方が良いかもしれませんな」
その侍医の言葉が有ったので、余計にロベルトは侍従が少女である事を知らないふりをしてきたと言う経緯が有る。
「あの子が女の子に戻りたい素振りを見せましたら、少しずつ女らしい事を教える事に致しましょうか」
「セシリアにそこは任せるが……そのようなそぶりは、見えているか?」
「ええ。微かにですが。以前は全く興味を示さなかった女性の衣服に関して、自分から話をする事が時折ございます。ですが、女の姿は馬に乗る場合も不便だとか、剣を扱うにも弓や射撃を学ぶにしても、万事不便だとも申しておりました」
「射撃など、習っているのか」
「近衛の陣内に先ごろもうけられました射撃場に通って、学んでおります。腕前のほどは射撃の教官が褒めておりましたから、悪くは無いようです。どうやら先ごろ開発された小型の短筒を、陛下をお護りするのに使えないか考えているようですね」
「あれが女だと気が付いている人間は、どの程度いるだろうな」
「さあ……私には見当がつきません」
「射撃の教官にばれたのではないか……などと気になってな」
射撃の姿勢の指導をする際に、ある程度体に触れているだろう。その際に気づく可能性は高い気がする。それに……他の男が、あの侍従にわずかでも触れるのは、やはり嫌なのだ。あれだけ美しいのだから、教官が劣情を催すという危険も有りそうだ。そんな事も、つい思い浮かんでしまうロベルトであった。
「あの教官には三人の娘がおります。毎日賑やかで大変なのだと聞いた事がございます。そうですねえ、ああした年頃の少女を見慣れておりますから、あるいは気が付いたかもしれません。ですが陛下があれを男として遇しておられる事は十分教官も承知しておりますから、要らざる事は申しませんでしょう」
「そうか」
セシリアの言葉を聞いて、下種な心配をしすぎたのかも知れないと思い、いささか恥じたロベルトであった。
退出するセシリアに、侍従がロベルトの居室に戻るには及ばない事を伝えさせた。侍従自身の入浴は乳母の住まう部屋の方で行うはずだ。
「そうでも無ければ、覗きでもしでかしそうだ」
ロベルトは浴槽につかりながら、そんな独り言をつぶやいて苦笑した。侍従には教えていないが、あの侍従が現在使っている部屋は、かつて王の愛人の秘密の居室として使われた時代が有り、入浴をしている様子を覗き見る事が出来る秘密ののぞき穴が儲けられているのだ。そんなものを作らせたのは祖父か、曾祖父かどちらからしいのだが。
風呂から出ると、冷やしたワインを飲むことにしたが、一番若く腕が立つ護衛が「毒見をお忘れにならんようにと、言いつかっております」などと言った。色街での飲み食いの際は、女たちにさせるが、今のような場合は護衛にさせる事になる。そのように常々侍従が護衛たちに命じているようだ。
「お前が先に飲め。一杯注いでやっても良いのだが、眠気を誘うとまずいからな、半分だ」
「はっ」
銀製のゴブレットに注いだ、冷えた白ワインを護衛は飲み干すと、その後どうすべきか戸惑ったようだ。
「そのまま渡してくれ」
飲み口を拭うとか、飲み口を外して回すとか、宮中の作法は面倒な事だ。ロベルトは構わずそのゴブレットとワインの瓶を持って、暖炉脇の寝椅子に陣取った。連日これほどの警備を怠らないのは大君主国の暗殺部隊を恐れての事だ。かの国は攻め入ろうとする国の、元首なり宰相なりに毒を盛る場合が有るらしい。その場合は国家の中枢にまで協力者が入り込む必要が有るので、簡単ではないだろう。もっと大まかに目標を絞り込まないで、相手方の宮殿なり城なりの飲料水や酒にたっぷり毒を仕込むなどと言う手口も過去には有ったようだ。こちらのやり方なら、使用人にたっぷり金品を掴ませておけば、不可能では無いだろう。
一番確実に危険なのは、寝所に腕利きの暗殺者が忍び込んだ場合だ。古い城や宮殿には図面に載っていない隙間やら穴やらが開いている場合が多い。そうした場所に暗殺者が潜り込むと厄介だ。ロベルトは自身の居室を中心に十分調査させ、無用な抜け穴や隙間を塞がせた。その調査のおかげで、色々と面白い仕掛けも再発見したのだ。風呂ののぞき穴もそうした仕掛けの一つだ。
「風呂かあ……」
どの王がどんな女の入浴の様子を覗いて楽しんだのか、今では皆目わからない。だが、確かに意中の女の入浴の様子を覗くのは楽しそうだ。あれの白い肌が湯で温まると……などと、つい具体的な事が思い浮かんでしまう。そんな自分を何とまあ下種な奴だと思うが、それが掛け値なしの自分なのだとロベルトは思っている。
だが、あの侍従は……アンドレアスは……いや、アンヌ・テレーゼと呼ぶべきか、ともかくあの娘は自分を信じきっている。幼い子供が父を見る様な、妹が兄を見る様な、そんな雰囲気が強いとは思うが。
どうせ何れは正妻である妃を迎えなくてはいけないのだ。ならば、あの子で良いではないかと思う一方で、急いては事を仕損じるだろうとも思う。
一人でワインの一本を空けてしまうと、後は寝るばかりだ。
護衛がベッドの下にも潜り込んで、危険なものが無い事を確認してから寝室に引き取った。足元の書棚は、実は隠し扉で、隣のアンドレアス、いや、アンヌ・テレーゼの部屋に直接通じている。
「ちょっと寝顔でも見てくるか」
ロベルトはごく、軽い気持ちで隠し扉から隣室に入った。実は以前に二度ばかり、寝顔を見に行った事はあるのだ。その際はもっとおっかなびっくりだったが。酒の勢いを借りた所為か、今回はためらいなくランプを手に隣室に入った。その方がはっきり寝顔を見る事が出来るからだ。だが、その行動がどのような波乱を招くのかは、全く予想していなかったロベルトであった。