ノイマン夫人・2
「母上、今夜は陛下が久しぶりに王宮内でお夕食を召し上がります。ですから今夜は申し訳ありませんが」
「ああ、良いのよ。お役目第一ですからね。私はネリーと昔話でもしながら、のんびり食べますよ」
アンドレアスは実に嬉しそうだ。
ノイマン夫人から見て、アンドレアスの王に向ける気持ちが歳月と共に異性に対する思慕の色合いを強めてきているのは明らかだったが、男として扱われ、王宮と言う特殊な世界で生活してきただけに、本人に自覚が殆ど無いように感じられる。アンドレアスが少女であると知りつつ、このような形で身近に置き続けている王の気持ちも考えもはっきりしない今、何もそのあたりについては触れない方が良いのだと、ノイマン夫人は考えている。恐らく、王自身色々と迷っているのだろうから。
それとなくアンドレアスの幼い頃の事を聞き出し、ノイマン夫人自身の常に危険にさらされていた帝国での日々を重ねあわせて考えてみた所で、一つの推論が導き出されていた。
まずは王の言うように自分とアンドレアスの面差しが似通っているとして、互いが血縁かも知れないと考えた。次いでアンドレアスという名は、本人が微かに記憶していた自分の名前が「アンではじまり、スで終わった」と記憶していたのでつけられたという点を考えてみた。三番目に、あの、黒い森に出やすい地域に住んでいた、もしくは養育されたという事、そして、最後は……
「この白いシャツの刺繍がねえ……」
アンドレアスが発見された時、身に着けていた膝丈ズボンと白いシャツは、汚れきりところどころ破れていたが、貧しい農奴や猟師、炭焼きといった家の子が身に着けるにしては上等な品だった。それなりに豊かな家で育てられたのかもしれない。いずれにしてもあの服を用意した家の実子では無く「育てられた」のは確実だ。シャツの右の裾の裏に刺繍された小指の頭ほどの丸い印が意味するものは、明らかだと思われる。ズボンも汚れていた時は黒か濃い灰色かに見えたが、洗い上げてみると暗紫色だった。この色も特別な色だ。
特殊な刺繍とズボンの色についてもう、何年も気になっていたが、亡き夫の書斎で、つい最近一枚の表を見つけて、残された報告書を王に渡すべき時期が来たのだと感じた。
昔からずっと仕えてくれているメイドのネリーと一緒に、具だくさんのスープと牛肉のソテーにサラダと言う簡素ではあるが、滋養に富んだ食事を終えると、亡き夫の書斎に保存してあったあの、帝国の皇族に関する分厚い調査報告書とアンドレアスが発見された時に着用していた服を抱えて、ロベルトに面会を申し入れた。王とアンドレアスもちょうど食事が終わった所であった。
「どうぞ人払いをお願いいたします」
「アンドレアスもか?」
「はい」
それを聞いて、ロベルト王は意外だと言う表情をした。アンドレアスは一瞬不満そうな表情を浮かべたが、静かに部屋を出て行った。
「あれにも内緒とは、一体何なのだ? セシリア」
「この服を御記憶かと存じますが……」
「あれの着ていた服だな」
「はい。この右の前裾の裏側をご覧ください」
「ほう。なかなか凝った刺繍だな。金糸が使われているようだが、なぜ、わざわざ裏の目立たぬ場所に……」
「これは神聖帝国では『忌み子の印』と呼ばれたものです。そして、このズボンですが一種の禁色でして特別な意味が有ります。少なくとも、農奴の子では絶対に着用を許されないものです」
「何やら込み入った事情が有りそうだが、何かわかったのか」
「あくまで私の考えですが……」
忌み子、つまり望まれずに生まれた子を意味する言葉だが、神聖帝国では一般に男女の双生児は忌み子であった。そうした双子を皇族や貴族の正妻が産んだ場合、男子は育てられ、女子は家臣に預けられた。そうした女子はどこかの邸内でずっと監禁状態で養育するか、どうしても外に出す場合は男の姿をさせなければいけないとされた。
「私自身は田舎の貴族の邸の中で閉じ込められる様にして育てられましたが、着る服の裏にはすべて、この忌み子の印が縫い付けられておりました。その印を密かに纏う事で、世に出た方の男子が無事に育つと信じられていたのです」
「セシリアは高貴な血筋だと亡き父上がおっしゃっていたが、ならば皇族であった訳か?」
「皇族か貴族かは存じません。私の服の印はすべて銀糸でした。ですが、これは金糸です」
「その違いは、何だ?」
「亡き夫の書斎を整理しておりまして、つい最近見つけましたこの表によりますと、忌み子の印には五種類あるそうです。御覧下さい」
マウリッツは五種類の印の絵を描き、それぞれに解説をつけて表にまとめていた。
「黒糸が農奴では無い者、地主・商人などの自由民の家の子か。赤い糸が官位官職を賜っていても皇帝に目通りは適わない家柄の子、紫が目通りが適う貴族や地方の有力者の家の子、銀糸が皇族か城持ちの大貴族の子、金糸が皇帝自身の御子……ふうむ……では……」
「薬草取りのおばばに昔教えて貰った話によりますと、皇帝の血筋では普通の家より頻繁に忌み子が生まれたそうです」
「で、このズボンの濃い紫色の意味合いは、何なのだ?」
「自分の家より高貴な家の子を預かった場合に使う色とされています。預かり子の色、などと呼ぶ色ですね」
「セシリアの子供時分の服も、こんな色だったのか」
「はい。どの服もこの色でした」
ロベルトは難しい顔つきになって、マウリッツ・ノイマンの残した報告書を読み始めた。
「この報告書は蝋で封をした紙袋に入れられていたが、セシリアは全く読んでいないのか?」
「はい。先代様の御命令で亡き夫がまとめたものです。私が読んでよいとは思えませんでした」
「セシリアらしい、律儀な事だ。これによれば、セシリアの母上が皇帝の姉君という事になるようだぞ。セシリアと兄のイゴールを産んですぐに亡くなられたようだ。父上は公爵だな。チェルケズ公爵ダリオ・ミラディンか……既に故人のようだ」
「私の……母の名は記されておりましょうか?」
「ああ、これだ」
ロベルトが指差した系図に、亡き夫らしいかっちりした読みやすい字で女の名が記されている。
「アンヌ・テレーゼ・コルネリウスですか」
「コルネウスは皇帝の姓だな。皇帝の姫君が降嫁した場合は、結婚後も姓はそのままか。何々……歴代皇帝の次女はアンヌ・テレーゼの名をつけられているのか。ならば……アンの音で始まり、スで終わると言うのだから……」
「さようですね。あれも、本来の名は……恐らく」
「アンヌ・テレーゼ・コルネリウスという事か。ふうむ……セシリアの双子の兄上は生存している可能性が高そうだが、行方はわからんよな」
「コルネリウスを名乗る人物は、誰が居るのでしょう?」
「ここに記された二十人だが……大方死亡が確認されてるはずだ。ただ、あれと同じ時期に出生したと思われる皇太子のリシャールだけが生死不明だったと記憶している」
「やはり、顔は似ているのでしょうか」
「そう考えるのが、自然だな。それにしても、セシリアとあれが従姉妹同士だったとはな」
「かなり歳の離れた従姉妹ですね」
「顔がどことなく似ているのも道理だ」
その後王と乳母はかなり長い時間、二人きりで話を続けた。
「まだ結論は出ていないが、当分相談した手筈でやっていく他あるまい」
その王の言葉に対して、乳母は深々と礼をして、王の居室を辞した。