試練・1
黒い森に出かけてアンヌ・テレーゼに取っては思いがけない嬉しい再会もあったし、山賊たちの恭順と言う成果も有った。あのチャチャイ人はどうやら無事に一度故国の土を踏んだようだが、今度は妻を伴ってセレイアに戻ってきた。どうやらロベルト王は新しい航路を開こうとしているようだった。
「農業は国の基本ではあるが、天候や自然災害の被害も考慮せねばいかんし、投資の何倍もの利益が生まれると言う産業でもない。交易でせいぜい稼いでおけば、無理な税をとる必要も無い。したがって民に恨まれる事も無くなる」
王は交易を盛んに進め、その利益を治山治水、教育といった分野につぎ込んだ。王は大富豪だと言うものもいたが、その王の暮らしは質素だった。だが書籍と食事には費用を惜しまなかった。アンヌ・テレーゼは女性たちが乗馬や武術に親しむ機会を積極的に作った。そのため女性用の優美な馬具や乗馬服、武術の修練用の服など、これまで存在しなかったような品物が生み出され、流行した。
貴族だけが集う晩餐会より、気軽な集まりが主流になり、格式ばった舞踏会より健康な若い男女が集うパーティーが一般的になった。それと共に身分の違う男女が出会い、結婚をするケースも増えた。王は意図的に貴族と平民の垣根を取り払うような政策を、露骨にではないがそっと機能させていた。
「男女双方が十八歳以上で、互いが真剣に望むのであれば身分出自を問わず王国が結婚を認める」
後にロベルト王の結婚令と呼ばれた法律は、平民に支持されたのは予想されたことだったが、大貴族の子息たちが次々平民の女性との婚姻を望んだのはロベルト王ですら予想はしていない事態だった。平民と結婚した大貴族たちは領土の返納にも協力的だった。領土を返納した貴族は爵位と年金を与えられ、居住用の資産三箇所までの継承が認められた。かなりの大貴族が投資の失敗や領地運営の失敗や賭博や道楽で、多額の借金を背負っていた。すべての負債を王が綺麗に決済して、代わりに年金を賜るというのは、領地運営が苦手な貴族たちにはかなり歓迎された。だが、先祖伝来の地を手放すのは外聞が悪く、自らの無能を露呈するようなものだと考える貴族も少なくは無かったので、事は水面下で進行した。
貴族同士で政略結婚を持ちかけようとした相手の家が、いつの間にやら領地を返納していたり、肝心の息子や娘が平民の恋人と駆け落ちしたり、と言うことが頻繁に起こるようになっていた。
「オヤジどもが大慌てだ。政略で自らの力を強めようとしていたのにな」
王の力はますます強まり、王に対抗できる大貴族はいなくなってしまったし、貴族同士の連携もたいした政治的力を持たなくなってきていた。かわりに登用試験に合格した役人たちが政治の実権を握るようになっていた。軍も士官学校出身者が将校の過半数を占め、全国民は徴兵の義務を負うようになった。先代の王の時代までは、兵役に出るのもいわば手弁当状態だったが、ロベルトはすべての兵士に食料と制服を支給したので、貧しい家庭の若者にとって、軍は「うまい飯を腹いっぱい食えるところ」となっていた。
同時に軍制や兵器の改革も進み、騎馬の騎士が主体の近隣諸国の軍隊とは比べ物にならない戦闘能力を有するようになった。ロベルトは才能有る人材を広く登用し、研究費はたっぷり与えるので、ますますセレイアには各方面の研究者・技術者が集まるようになっていたのだが、軍事も例外ではなかったと言うわけだ。
ロベルト王は勤勉で、アンヌテレーゼはその王を支える存在になろうと努力してきたが、自分にさほどのことが出来るとも思えない。愛人が生んだ継子たちとの関係は悪くは無かったが、母親としての経験も無い事もあって気後れし、互いに遠慮も働き、家族と言うには程遠い状態だった。そんな状態をロベルトが少々残念に感じているのはわかるのだが、どうすれば良いのかわからないのだった。夫は「もっと気楽に付き合えばよいのだ。考えすぎてもいけない」と言うのだが……
継子たちは皆、それぞれ父の優れた資質を受け継いで、将来は国政を担う頼もしい存在になると皆に認められつつある。中には口に出してはっきり「嫡出でいらっしゃらないのが、まことに残念で」と言う貴族も少なくない。大半は老人で、アンヌ・テレーゼに子が生まれない事を残念に思う気持ちかららしいが、言われる側にしてみれば、攻め立てられているような気分にもなるのだった。
結婚して十年目の年に入ってすぐ、水源をめぐるカルフ公国の大貴族とセレイアの開拓村との争いで、国境紛争が発生したが、公国の精鋭だという騎士団を「百姓が鉄砲を担いだ」軍隊が散々に蹴散らした。セレイアの国境警備部隊は全員新型の銃を装備していた上に一門ではあるが最新型の大砲まで投入できたのに対して、カルフ公国側は時代遅れの鎧カブトの騎士と申し訳程度の火縄銃なのだから、勝負は初めから明らかだった。その顛末は瞬く間に諸国に広まり、それ以降セレイアと事を構えようという国は無くなった。些細な争いを大きくして、高飛車に報復をもくろみ大失敗した愚かな大貴族はカルフ国内で、粛清されたらしい。そこで何を思ったか、カルフ大公は美少女の誉れ高い十四歳の一人娘イレーヌをセレイアに送りつけてきた。
「側室としていただければ何よりですが、御正妃以外は王のおそばに置かないお国柄と言う事は重々承知しております。イレーヌ大公女の夫は陛下にお定め頂けましたら望外の喜びです」
すると、カルフの大公女を迎えて十日もたたないうちに、ケンメル王国国王が「末永い友好の印」として正室腹の十八歳の第二王女を送り込んできた。このモード王女は五カ国の言葉を自在に話す才媛で、セレイアで学問を修めたい希望が有る様だった。こちらはイレーヌ大公女のような華やかな美貌ではなかったが、匂い立つような気品が有り、何より打てば響くような賢さで、賢王の誉れ高く諸学に造詣の深いロベルト王には実にふさわしい「お相手」ではないかと取りざたする者も相当な数に上るようだった。
このような事になったのは自分に子が無いから……そうアンヌ・テレーゼは感じて、暗い気分になった
「頭が痛いな」
「この十年、いつも御一緒にすごさせていただきましたのに……お子を授からない私がいけないのです」
「そのように、自分を責めるな」
「……ですが、結婚して十年になりますのに」
結婚してからのこの十年、ロベルトは誠実な夫であり続け、アンヌ・テレーゼはずっと寝食を共にしてきた。それなのに一向に懐妊の気配が現れない。結婚して五年目から、ロベルトは先王の同母弟の後妻腹の二人の息子たちを王宮に迎え入れ、自ら教育に乗り出した。この措置は「王妃にお子ができないから」だと言う人々の噂は真実なのだろうと、アンヌ・テレーゼは見ていた。
「二人の姫君方は、いずれも孤児の私などよりセレイアの王妃にふさわしい方たちですね……」
「そうかもしれんが、若くも無い私の相手にはふさわしくない。三人の息子たちか二人の甥たちかの妻になら、年齢的にも相応で良いと思う」
「他国の王たちは皆、側妃が幾人かおりますのに……大国の王が私のような子も生めぬ女に義理立てしてくださるのは……申し訳なくて」
大君主の寵姫である姉はこの十年で更に五人の子を産んでいる。それにかの国のハレムには姉以外に寵を賜る女が常時二十人以上はいるのだ。子も生めない自分がずっと王と寝床を共にしていて良いとは思えない。セレイアの歴史の中で、子が生まれないのを理由に離縁された妃もいたのだ。自分から離縁を申し出るべきかも知れない……ふと、そんな事を考えてしまう。
賢い夫は、そんな事はとうに見通しているのだろう。ため息をつき、首を横に振ってこう言われた。
「なあ、お前の気持ちはその程度のものであったのか? 私は結婚する前に言ったはずだ。子が生まれなくてもあせるなと。お前は私の最後の女なのだと」
「申し訳ありません」
「まあ、この所、お前の気持ちに波風を立てるような事ばかり続いたからな。だが、案ずるな。二人の姫は息子か甥の妻に迎えようと思う。それに子が生まれなくても、次のセレイア国王は甥たちのいずれかが継ぐ事も可能だ。私は自分が息絶えるまで、お前と仲むつまじく共にありたい、そう思っているのだぞ。信じられないか?」
「いいえ、いいえ、信じております」
「そうか。ならば……それで良いのだ。な?」
夫が抱きしめてくれた。その気持ちを毛筋ほども疑ってはいないのだ。だが、申し訳なくて涙がこぼれた。




