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黒い森・6

 元のゲンツ村は焼けた家々の土台だけが残っていた。事件の犠牲者をこの共同の墓に葬った際に、焼け焦げた物も片付けたようだ。そのためか見覚えのあるものが何も残っていない。アンヌ・テレーゼは、ここに来れば自分の記憶が蘇るのではないかと密かに期待していたので、いささか失望していた。それでも墓の前に立つと、自分に関わった所為で犠牲になったのかもしれない人々に詫びねばいけないと言う気持ちは膨らんで来る。


「そのような顔をさせるためにここに連れてきたのではない」

 夫には、考えている事がすべて見通されているのかも知れなかった。

「な? 考えてもみよ。幼い子供であったお前が、村の人々を殺害したのでは無いのだ」

 夫はそっと手を握ってくれた。子供の頃から、手を握ってもらうと気持ちが落ち着いたものだった。

「ですが……」

「なぜ、元の帝国では幼い子供の命を狙う卑劣な行為が横行したのか。そこまで帝国が腐ったのはなぜか、我々がおろかな行為を働かない為に、何が必要で何を避けるべきか……そのような事を探る手がかりになると思って、私は、ここまで来たのだ……事情が事情だ。楽しい思い出の手がかりなど、見つからぬかもしれんが、それでもその墓ばかり見ていては、何も真実にはたどり着けないだろうと私は思う」


 簡素な木製の墓標を見つめていたアンヌ・テレーゼは、夫の言う様に別のものに意識を向けようとした。ふと仰ぎ見ると、青々と茂る大木の枝が有る。


「あの大木に見覚えがあります」

「お前が子供のころ、男の子の身なりでよく登っていたと言う木か」

「ええ。七歳の時点でのそういった私の姿を、姉上は見たそうですが、私には何の記憶も無いのです。村には仲良しの子供や遊び仲間もいたはずですが、恐ろしい事件当日の状況を切れ切れに思いす以外は、この木に登るのが楽しかった事と、養い親のパウルやアガタと話した言葉をわずかに思い出せるだけです」

「養い親の名前を思い出しただけでも、進歩じゃないか」

「でも、何か大切な事を忘れているような気がして……なりません」


 だが、思い出そうとすると、頭の中にもやがかかったような感覚に陥る。

 

「完全に思い出すには、まだ、つらすぎる事が有るのかも知れんな」


 思い出せない、忘れた、と言うのも一種の自己防衛ではないかというロベルトの推理は正しいのかもしれないが、それならそれで、自分は卑怯者だと自己嫌悪を覚える。


「お前は、当時子供だったのだぞ。自分を責めるのは間違っている」

「そうでしょうか?」

「ああ、間違っているさ。この件に関しては、珍しく頑固だな」

「私が災いを持ち込んで、その持ち込んだ当人だけが幸せに生きているのですから……」


 足元には丈の低い小さな白い花がたくさん咲いている。


「この花ですが……村の人たちは『厄除け草』などと呼んでいました」

「何かまじないにでも使うのかな?」

「この花を抜いて、こうして両手で持って胸元にあてて、無事を祈りたい人の顔と名前を思い浮かべて……」

 アンヌ・テレーゼは言葉通り一本抜いて胸元に押し当てた。

「……『あの人の厄を払って』と口に出して唱えます。想いが強ければ強いほど、その念じた相手の厄をはらう力が強いなどと言うようです」

「ん? どうした?」

「姉と……おねえちゃんと、厄払いをしたんです。事件の前日に。なのに……なのに、ニナ姉ちゃんは」

 急にそれまで忘れていた義理の姉の名前が、はっきり思い出された。

「ニナと言うのがパウル村長とアガタの娘だな?」

「そうです」


 急に茂みの木々がガサガサ揺れた。ロベルトは剣に手をかける。だが、殺気はまるで感じられなかった。


「あんた、アンヌ・テレーゼかい?」

 木の陰から、小柄な女が現れた。どうやら薬草取りらしく、大きな籠を持っている。

「ニナ姉ちゃん?」

「ああ! やっぱり、アンヌ・テレーゼだ! 良かった、ねえ、兄ちゃん、あのちっちゃなアンヌ・テレーゼだよ。ほら見て」


 そう叫んだ女は、記憶の中の世話好きな義理の母アガタそのものだった。だが……足を引きずっているようだ。その声につられて顔を見せた男はパウル村長そっくりだ。


「ひょっとして、ヤン兄ちゃん?」

「こりゃ、たまげた。アンヌ・テレーゼ、うまく落ち延びたんだな」


 奇跡の再会だった。聞けばあの凄まじい暴行の後、遠方に薬草取りに出ていたヤンと相棒のミーチャが虫の息だったニナを担いで逃げ、薬草に詳しくて魔女だと噂される山奥の老婆のところで丸二月、熱を出したまま意識も無い状態で寝込んでいたらしい。


「魔女のおばあさんの秘術のおかげか、アンヌ・テレーゼのおまじないのおかげか、足はちょっとばかし、折れたせいで左右の長さが変になっちゃったけどさ、今じゃミーチャと所帯を持って、息子と娘も生まれたよ」

「まあ、姉ちゃん、お母さんなんだ」

「そうだよ。ね、そちらの方は……」

「私の夫よ。つい最近結婚したの」

「ロベルトと言います。どうぞよろしく」

「あれまあ、その、アンヌ・テレーゼを連れて来て下さって、ありがとうございます」 


 どうやらゲンツの虐殺事件の生存者はアンヌ・テレーゼとニナだけらしい。


「何しろ、まだ、あの物騒な兵隊連中がそばにいるかもしれないって、気が気じゃ無かったんで」


 まだ少年であったヤンとミーチャの力では、ニナをこっそり救出するだけでせいいっぱいだったのだ。

 更に、ニナが足を引きずりながらも歩けるようになるまで、事件から丸二年近くかかったのだ。本当に酷い怪我で、手ひどい性的な暴行も受けたのだから、二年がかりでも「奇跡的な回復」だったのだろう。


「ニナがどうにか歩けるようになってから、ここに着てみたら、セレイアの兵隊たちが墓を作って、瓦礫を片付け終わった後だったんだ」


 そういうヤンの話も無理からぬものであった。


「アンヌ・テレーゼが本当はお姫様なんだって私もヤンもミーチャも知っているけど、その、旦那様は……やさしそうで御身分ありげな方だね」

 ニナに聞かれて、どう答えたものかアンヌ・テレーゼは戸惑う。

「その……」

 すると、ロベルトが至って気軽な調子でこう言った。

「一応、セレイアの国王をやっています」

 ニナとヤンは一瞬非常に驚いた顔になった。

「え? あああ、そうか。そうですよね。アンヌ・テレーゼの本当の身分は御存知なんですよね」

「隠された皇女だった、と言うことは知っていますが」



 それからは大変だった。ゲンツ村の事件当日、薬草取りや猟や炭焼きや交易で村を離れていた者は男ばかりで、十五名にのぼるらしい。皆、山をひとつ越えた所に有るセレイアの開拓地に移り住み、農民になっていた。セレイアの女性と所帯を持ったものも多く、子供も村全体で二十人生まれているらしい。

 誘われるままに、ロベルトとアンヌ・テレーゼの一行は国境地帯の開拓村を訪ねた。


「先ほどは、ご挨拶もきちんと申し上げませんで」


 父親譲りの穏やかな人柄のヤンは、開拓村の村長を務めている。ロベルトが都から持ってきたワインを渡すと、非常に喜んでくれた。


「そうなの。頭の傷ねえ。可愛そうに」


 記憶が曖昧である事や、頭の傷のことを話すと、ニナは心配そうな顔つきになって、傷をそっと撫でた。その手つきが優しかった亡きアガタの事を思い出させた。つい先ほどまで、このニナの名前もヤンやミーチャの事も全く思い出せずにいたのだが、そんな事は口にすべきでは無いとアンヌ・テレーゼは思った。

 ニナたちが、アンヌ・テレーゼがどこかで生きていると信じ、毎日無事を祈っていたと聞かされて、皆の名前すら忘れていた自分が、ますます罪深く感じられて、肩身が狭かった。だが、そんな事は押し隠して、できうる限りにこやかに微笑んで、話をする。


「でも、陛下、ううん、ロベルトに引き取って頂いて、その後は幸せに暮らしているの」

「実の親御さんたちは冷たい人だったようだけど、旦那様はやさしい立派な方で、本当に良かったねえ」

「そう。私にとって、一番大切な人なの」

「そっか。夫婦仲が良いみたいで、本当に良かった」

「ありがとう。ニナ姉ちゃん」


 開拓村でも無礼講の宴会になった。村自慢のエールを飲み、素朴な、だが心のこもった料理の数々をご馳走になった。それだけですめば、すべてはめでたしめでたしだろうが、どうやら最近、元のゲンツ村に怪しい人物がしきりに出入りしているのは確かなようだった。


「家は残ってないし、何があるとも思えないんですが、何かがあそこにいることがあるんですよ。墓を荒らす獣ではないと思うんです。水に濡れた足跡が有ったんで……」


 ヤンのそんな言葉に幾人かが同意した。夫は「明日にでも、皆の協力も頼んで、調べてみるか」などとつぶやいている。どうやらまだ、調べるべき事が色々有る様だ。


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