黒い森・5
「あれは、何だ? 早馬のようだな」
大きな厚手の毛布に包まり眠っていたアンヌ・テレーゼは夫の胸に頭をすり寄せた。夫が自分の髪に指を絡ませ、梳くのは心地良い。今朝もいつものようにやさしい手つきではあったが、時折その手が止まるのだ。夫には心当たりが有るらしい。
「一騎だけのようですね」
「大至急のようだ。何が有ったのだ? 謀反……なら、このまま山賊でもやるしかなさそうだが」
「まさか!」
冗談でもなさそうな夫の口調に、驚かされる。
「さすがに……そこまでの度胸が有る者はいないと踏んでいるがな」
やがて朝もやの中、王家専用の早馬が到着した。かねてからロベルトは街道をまっすぐ国境地帯まで進むと都の留守を守る者たちに伝えておいたので、乗り手は宿場で幾度か馬を乗り換え、不眠不休でここまでたどり着いたようだ。あの王宮襲撃事件の黒幕らしい神聖帝国の皇族の生き残りで、アンヌ・テレーゼ自身の異母兄にあたるらしいヨーゼフ・オイゲンの行方は今でもわからないが、その手下であった『吹き矢の男』が脱獄したという。看守の男が買収されて手引きしたようだ。
「買収工作するだけの余裕が有ったか。ふむ」
送られてきた文書には、逃亡したチャチャイ国出身だという『吹き矢の男』の短い置き手紙も添えられていた。夫はどうやらその奇妙な文字の手紙が理解できるらしい。
「文字が……なにやら複雑な形ですね。何と書き残したのですか?」
「私の言う事に従えば故国に戻る事も可能だろうが、恩人を裏切るわけにはいかなかった。申し訳ない……と、まあ、そのような内容だ」
「謝るぐらいなら、脱獄などよせばよかったのに」
ロベルトによれば、あの男がヨーゼフ・オイゲンの手の者に接触する事無く、素直に取り調べに応じていれば、近く大君主国へ向かう船に乗せ、その先も大君主国の豪商ガァニィ・バヤルの力を借りてきちんとチャチャイまで送り届けるようにしてやるつもりだったと言う。
「チャチャイの人間にとって『恩知らず』とそしられるのは、耐え難い恥辱であるらしいのだ。あのフーチョンと言う男は祖国に戻りたがっていたが、自らその機会を潰した。それほど恩返しのほうが、あの男にとって重要であったのだろう」
「一体どこに逃げたのでしょうね」
「ヨーゼフ・オイゲンは……セレイア国内に潜んでいるかもしれんな」
「その私の兄であるらしい男は、何をする気なのでしょうね」
「たとえば……山賊たちの力を借りて私を殺害する、あるいは国内を混乱させる……と言ったあたりか。ただ、詰めが甘く計画がずさんなのではないか……と言う気もするがな」
「神聖帝国の復活を目指すなら……大君主国に多数いる亡命者たちの支持を受ける必要が有るように思いますが、国母以外、大して誰とも付き合いも無いようでした。国母から賜った邸は留守がちのようでしたし。頻繁に留守にして一体どこに出かけていたのか、全く調べはつきませんでした」
大君主国滞在中は旅先の事でもあり、ガァニイ・バヤル以外の人物の力を借りるのもためらわれた。姉は大君主の世継ぎの母だが、その姉と叔母である国母の関係は微妙であるらしいので、用心深くせざるを得なかったのだ。
「ヨーゼフ・オイゲンの経歴がはっきりすれば、何か手がかりもありそうだが……」
ロベルトは『吹き矢の男』フーチョンが行っていた奇妙なまじないが気になるらしい。
「日の出の時刻に、奇妙な図形を地面に描いて、その上に井戸の水を掛けて再び消すと言う事を繰り返していたらしい。まじないと言うより、のろいかも知れんな」
「のろい、ですか……」
「うむ。あの市場の井戸は……その昔、西の大陸で神聖帝国が唯一の国家であったころの宮殿の井戸の名残らしい。奇妙な図形が何に基づくものなのか、あれこれ調べたが,さっぱりわからないのだ」
ロベルトによれば、神聖帝国ではさまざまの『まじない』や『のろい』が重要視され、最近までそうした特殊技能者の集団が皇室に深くかかわって来たが、セレイアは建国以来、まじないやら占いやらと政治の結びつきを排除してきた。そのためセレイアにはそうした「おどろおどろしい」「眉唾物」を研究する人間は皆無だった。
「下町の辻で占いをする者たちの中には、そうした帝国の建国のころからの古いまじないやら、のろいやら知る者もいるのでは無いでしょうか?」
「そうか、そうした連中は大半が今も、先祖伝来の生業を守っていると私も聞いた記憶がある。なるほど、良い方法かもしれん」
「あるいは共に酒盛りをした山賊たちが知っているかもしれませんね。たとえばヤーコップあたりは、知っていても不思議は無いような気がします」
祖母が皇室の血を引いているなら、有り得る事のようにアンヌ・テレーゼは思った。
「確かに物知りのようだしな。聞くだけは聞いてみよう」
朝食はもっちりした独特の食感のパンにチーズ、干し肉、ドライフルーツだった。山賊の料理番が用意した物を皆で食べたのだが、どれも滋味あふれる味と香りで見事なものだ。アンヌ・テレーゼが味の良さをほめると、見るからに善良そうな小柄な褐色の髪の料理番は、嬉しげに微笑んだ。
「山賊になると、このようなうまいものを毎朝食べられるのか。確かに悪くない稼業のようだな」
ロベルトは食事を頬張りつつ、赤毛のヤーコップの肩を叩いた。
それから目立たぬ場所で、送られてきた報告書をヤーコップに見せ、フーチョンの手紙の内容を伝え、正体不明のまじないの図形を地面に描いて見せたようだった。かなり長い間、二人は話し込んでいたが、二人とも難しい表情なのがアンヌ・テレーゼは気になった。やがて、皆の朝食が済み、アンヌ・テレーゼも食後の茶を飲んでいたところ、ロベルトが戻ってきた。
「いかがでしたか?」
「ヤーコップは帝国で呪い師をやっていた者が配下にいるそうだ。やはり、一種の『のろい』らしい。その井戸の水の縁につながるものの力を吸い込み、対になる印の有る場所まで運ぶそうだ」
「そういえば、料理長が『近頃は野菜も魚も肉も高い。高い割りに良いものが無い』とふさぎこんでいましたので、宮中の温室や庭で栽培された野菜や果物を使うように提案した事がありました。あれは、井戸から力が吸い込まれたせいではないでしょうか?」
「野菜や果物は都から離れたさまざまな地方から運ばれてくるのだから、違うのではないか?」
「ああ、そうですね」
「だが、調査するべきだろうな……」
夫はまた、考え込んでいる。
「野菜や果物の件は……アンヌ・テレーゼの言う事が正しいのかもしれん」
「さようですか?」
「地方官たちの報告では、この三年、際立った野菜や果物の被害は無いはずなのだ。定期的に隠密の巡検使を遣わしているが、作物被害の報告は無かった。とすればだ……都の市場に野菜や果物が運ばれる途中、あるいは店頭に並べるまでに何か異変があって、損害が出たのかもしれん」
「と、申しますと?」
「何か、異変があったのは確かなのだ。だが、地方の報告は無い。夜中に荒らされるとか、盗まれるとかだな……それで商品が大きく損なわれたり数が不足したりすれば、価格は当然跳ね上がる。うむ。ありえるな」
アンヌ・テレーゼは自分がほんの思いつきで言っただけのことを、夫があれこれ考えて可能性がなくは無いというのを聞いて、逆に驚いた。
「その件は都でまたじっくり調べよう。今日はともかく、ゲンツ村だ。何かがいるのは確かなようだ。それが人か、人ならざるものか、確かめてこよう。な」
人ならざるもの、と聞いてアンヌ・テレーゼはブルッと一瞬震えた。それを見てロベルトは穏やかな笑みを浮かべて「大丈夫だ。私の勘が外れないのは、お前も知っているだろう?」と言った。
「はい」
「思わぬ形で、協力者も得たのだ。大丈夫だ。な?」
そう夫に言われると、絶対に大丈夫だと信じる事ができるから不思議なものだ……とアンヌ・テレーゼは思った。




