黒い森・2
「皆にがんばれと声援を受けたわけだが、明日は久しぶりに馬で出かける訳だから、控え目にしておこうな。そのほうが良いだろう?」
「……はい……そうですね」
改装を終えた側の瀟洒な居室で共にコーヒーを楽しんでから、各自入浴となった。
いつも一緒のネリーは飲めや歌えやの騒ぎを楽しんでいたようでもあったが、女主人の用事をこなすとなると引き締まった表情で真剣だ。彼女に言わせれば「魅力的な寝化粧」というのも重要なのだという。体から夫の好みに合った良い香りがほのかに漂うようにすべきだし、手の先から足の先まですべすべと滑らかでなくてはいけないそうだ。そのためには肌の手入れも重要なのだという事であった。
「陛下は高雅な御趣味の方ですから、難しいですね。あまりに香料が強いのはお好みに合わないだろうと思うのです。何か香りについておっしゃいますか?」
「お前は良い匂いがする、とは時折おっしゃるけれど」
「そうですか。今は御入浴の際にお使いになるもので工夫しておりますが、香油の配合はあえて単純なものにしております」
大君主国で習い覚えたというオイルマッサージを、靴をはくとどうしても痛みがちなかかとやつま先まで、丁寧に行う。おかげでかかとも硬くならないし、足の爪もゆがんでいない。何より疲れが取れる感じなのがありがたい。
昨夜は夫がベッドで「花びらのように美しい爪をしている」といって、足の爪を口に含んで舐りまわしたが、その際の体を突き抜けた得体の知れない快感を思わず思い返してしまって、顔が赤くなった。そうした秘密の戯れについてさすがに口にするのは、はばかられる。その様子をネリーがどう受け取ったものか、しみじみとした調子でこんな風に言った。
「御夫婦は長い縁でございます。新妻のころの思い出というのは、夫である方には特別大切な意味があるようですから、大切にいたしませんとね。お二人が仲むつまじい御様子で、ほっとしております」
「ネリーのおかげで、毎日心穏やかに暮らせるの。ありがとう」
「いえ、私が勝手にあれこれ気をもんでおりますだけです。ですが、多少はお役に立てておりますか?」
「役に立っているどころか、私はネリーが頼りなの。これからもよろしくね」
「ありがとうございます。命の御座います限り、真心をこめてお使えする所存です」
その後、足をマッサージをしてくれながら、ネリーは自分の母親がこのあたりの出身で、その母親は結婚前に、旧神聖帝国の最後の皇后フレデリカの小間使い役を務めていた……といううち明け話をした。フレデリカはアンヌ・テレーゼの実母であるらしいから、あらためて深い縁なのだと驚いた。
「ねえ、ゲンツ村について何か知らない?」
「母も父もこのお城からゲンツ村へ向かう道筋の途中にあるリボフ村の出身です。細かな事情は何も知りませんが両親は結婚してすぐに命の危険を感じて、セレイア側に逃げ込んだと聞いております。そこでセレイアの国境警備隊の隊長をなさっていたヴァルター・ノイマン様にお助けいただきまして、両親そろってヴァルター様のお邸で雇って頂けました。ああ、ご存知かと思いますがヴァルター様の御子息がマウリッツ様です」
「へええ、ネリーはノイマン邸で育ったわけ?」
「さようです」
アンヌ・テレーゼの義母セシリアがマウリッツと結婚するはるか以前から、ネリーはノイマン邸の使用人の娘として暮らしていたというわけだ。
「そうしたわけで私自身はセレイアで生まれて育ちましたし、細かな事情は『知らないほうが良い』という事で教えてもらえませんでした。ですが……私が結婚してすぐでしたか、母の弟だという人が逃げ込んで来ました。『秘密がばれて、レッヒ公の私兵がなだれ込んで来た』と言った事までは聞き取れましたが、母が『娘には聞かせたくないの』といって話を中断して、別室に行ってしまったので細かな事情は存じません」
「レッヒ公爵って、もとの神聖帝国の大貴族よね?」
「そのようですね。フレデリカ皇后様の御実家であるジーケ侯爵家とは長年の因縁のある関係だとか、母の死後にセシリア奥様に教えて頂きました」
「リボフ村もゲンツ村もジーケ侯爵領だったの?」
「母が皇后様に若いころお仕えしていた事を考えると、少なくともリボフ村はそうではないかと……ですが、確かなことはむしろ陛下が御存知ではないでしょうか?」
ネリーが言うにはロベルト王は自分の領地となった土地のことだから、色々と細かく調査させているに違いないと言うのだ。
「それもそうだね。明日御一緒してそのリボフ村も通過するのだろうから、伺ってみるよ」
無意識にネリーと話してると少年ぽい言い回しになってしまうが、最近はネリーも特に注意はしない。公的な場所での応対が、王妃らしくできているから大目に見てくれているようだ。
ベッドに入ってからネリーとの話の内容をロベルトに伝えると、レッヒ公爵家とジーケ侯爵家の悪しき因縁に満ち満ちた歴史をかいつまんで教えてくれた。
「これは全部、セシリアからの受け売りだがな。ちなみにセシリアの生家であるチェルケズ公爵家はジーケ侯爵家の本家に当たるのだ」
初代レッヒ公爵は神聖帝国の成立に大いに力を尽くした初代皇帝の最も信頼する弟であったそうで、五つしかない公爵家の中で最も格上とみなされる家柄だそうな。だが、最後の皇帝も含めて、終わりの六代の皇帝の皇后はチェルケズ公爵家とジーケ侯爵家が輩出したという。
「特にジーケ侯爵家は美男美女ぞろいの家で有名であったらしい。お前を見ても、それは納得できるが」
レッヒ公爵の姫君はどういうわけか「美女」とは言いがたい者ばかりで、器量好みの激しい歴代の皇帝に拒絶されてしまったようだ。
「釣り合いを配慮してレッヒ家の姫君を皇后に迎えるような事を言った最後の皇帝も、美しいフレデリカ姫を見てしまうとあきらめきれず、口約束を反故にしてしまったのだ。最後のレッヒ公爵はきつい人柄だったと聞くし、誇り高い人でもあったようだから、皇帝やフレデリカ皇后が許せなかったのだろう」
「で……その怒りやわだかまりが内乱に発展してゆくのですね?」
「そうだ」
「だとしたら、最初にレッヒ家との約束を破った皇帝が一番悪いのですね」
「守れそうも無い約束はするものでは無いと思う。特に為政者の立場に立つものはな」
「その点、陛下はきちんとしておいでですね」
「小心者だから、色々調べてから結論を出すからな」
「それは、小心者とは違うと思います。陛下」
「あー、陛下はやめなさい。今は二人きりなのだからな、言ったであろう? ロベルトと呼べと。お前が違うと思ってくれるのは嬉しいが、私は本当に小心者なのだ」
「でしたら……小心であることも良き為政者には必要ですか?」
「さあ、人によりけりだろう。生まれつきの性格性分というのは、なかなかに治せぬものでも有るからな、自分の性分となすべき仕事との間で、折り合いをつけるまでのことよ。王ではなくても、たとえば職人でも、猟師でも必要な事をどれだけ無理せずこなせるようにするか、というのは大事なのでは無いかと思う」
そういえば以前、王などではなく家具職人の息子に生まれたかったとか、猟師に自分はかなり向いているような気がするとか、ロベルトが言っていた事を思い出した。
「本当は誰もが好きに仕事を選べるような世の中が、一番良いのだろうが……なかなかに難しいな」
「お好きではないのかもしれませんが……陛下はやはり王に向いておられるのです」
「ロベルトだ」
「ああ、申し訳ありません、ロベルト」
「まだ、名前をすんなりとは口にしがたいか?」
「前よりは、慣れました」
「明日は久しぶりに馬だ。気晴らしになるかな?」
「陛下、いえ、ロベルトのおそばにいる事ができるのですから、私は幸せです。気晴らしなど……ああ、でも、久しぶりに御一緒の遠乗りは嬉しいですけど」
「明日は男装できちんと武器も装備したほうが良い」
「やはり、危険ですか?」
「無論近衛の連中は供をするが、用心に越した事は無い」
そんな話をする間も、夫のたくましい胸に体をすり寄せると、ごく自然に抱きしめてもらえる。この幸せが何者かによって、無残に中断させたりしたら自分がどうなるのか見当もつかない。自分も夫を見習って用心深くありたいと、アンヌ・テレーゼは思うのだった。




