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婚儀・1

 人々の歓呼の声を受けて、ロベルト王と王妃となったアンヌ・テレーゼは王宮正面ホール上の白亜のテラスから並んで手を振った。一連の宮廷内部での儀式を終えて純白に金の刺繍を施した華やかな礼服を纏い、白いマントをたなびかせた王の隣に、自分が妃として妻として立っているのが、まだどこか現実感が無い。子供のころから住み慣れた王宮の景色がまるで違って見える。


「緊張するか?」

「はい」

「私も実は、緊張している。何しろ生まれて初めてだからな」


 そう改めて囁かれて、それもそうなのかと合点した。王は自分よりずっと大人で、何でもできる何でも知っている尊敬できる人だが、だがそんな王にしても結婚式は初体験なのだ。だが、それをわざわざ自分に伝えてくれることで、自分の気持ちは随分と楽になった。やはりこの方らしい細やかな心配りだと思う。


 王宮の正面広場に詰めかけた参賀の人々の行列はまだ、延々と続くが、ひとまず王と王妃は宮殿に入る。


「もう礼服なんぞ脱いで、寛ぎたい気分だろう? 祝宴は皆に美味い物と良い酒を大盤振る舞いするから、我々は引っ込ませてもらうようにしたからな」

「はい」

「疲れたろう。風呂にでもゆっくり入って、少し休め。夕食は二人で取ろう」


 これまでの部屋は何と大君主国に行っている間に、大急ぎで改装され、隣室と繋がれて広くなっていた。位置関係からすれば、元の自分の部屋であるのだが、随分様子が変化した。寝台も王の部屋に有る物と同じぐらいの大きさになっていたし、侍女の控えの間や、衣裳部屋もそれらしく整っていたので驚いた。それでも愛着のある椅子や机、小物類はきちんと残されていて、男のなりをしていたころの衣装もしまいこまれていた。


 臣下の者たちは大盤振る舞いの大宴会で飲めや歌えやの大騒ぎのようだ、微かにその賑わいの様子が風に乗って聞こえてくる。


 疲れてなどいない、と思っていたが実際はそうでもなかったようだ。大君主国にも一緒につきあってくれたネリーは正式に王妃付きになった。そのネリーが若いメイド達を指揮して婚礼衣装を脱がせてくれたが、確かに随分楽になった。極上のシルクタフタに金糸銀糸で華やかな刺繍を施し大量の真珠を縫い付けたドレスの重みは大変なものだ。更に長いトレーンを引き、ベールをかぶり、金襴の縁を付けこれまた大量の宝石を縫い付けたマントも着ていたのだから、当然と言えば当然だ。


「着付けをさせて頂く時は大仕事でしたのに、お脱がせする時はあっという間ですねえ」


 全く、ネリーの言うとおりだ。高く結っていた髪も緩やかに後ろで纏める形にしてもらう。髪にも華やかな髪飾りが幾つも使われていたのだが、これは皆、ロベルト王自らが見立て贈った品物だった。

 

 寝室に隣接する浴室も、よりゆったりしたものに変わった。気分を落ち着け肌をなめらかにする効果のあるハーブを入れた湯にゆっくりつかり、侍女三人がかりで体を隅々まで丁寧に洗われてから、少し午睡を取り、夕食の時刻になった。


「陛下とお二人きりですから、部屋着でとの仰せです」


 またコルセットで締め上げるのかと思っていたら、緩やかで着心地の楽なシルクの下着類に、ふんわりとした素材の羽織る感覚のドレスを纏った。前開きで、淡いピンクの地紋入りのビロードに金糸銀糸で華やかな刺繍を施し、繊細なレースを配した優美な部屋着と言った所だろうか。確かに正式の場に出て行くわけには行かないだろうが、ちょっとした社交の場になら十分着ていけそうなものだった。


「御化粧は……念入りに、でも、控えめにでしょうね」


 良くわからないが食事の後も、ずっとロベルトと二人きりで過ごすことを視野に入れて、ネリーは発言しているのだ。その事に気が付き、アンヌ・テレーゼは急に恥ずかしくなった。


「陛下は思いやり深い方のようですし、優しく接してくださいますよ。きっと大丈夫です」


 何が大丈夫なのか、聞き返すのも恥ずかしい。


 王の居室に入ると、ロベルトがにこやかに迎えてくれた。いつもと変わらない、落ち着いた様子に、アンヌ・テレーゼも緊張がほぐれた。


「そのドレスも似合うな。ではまず、ワインで乾杯でもしようか」

「はい」


 食事は品数は抑え目だが豪華で、消化が良く、胃にもたれない物を選んであるようだった。


「貝と海老をまとめたこのソースの感じが、私は好きだが、どうだ?」

「あっさりしていますが豊かな味わいで、大変美味しいです」

「子羊のローストと、この野菜、合うだろう?」

「はい。本当ですね」

「もう少しワインをお飲み。その料理とも良く合うから」


 食事を終えて、いつもならゆっくりコーヒーか茶なのだが、なぜかココアが出された。

「ココアとは珍しいですね。普段は飲みませんが、たまにこうして頂くと美味しく感じます」

「料理長の見解ではココアを飲んで、頑張るべきだということのようだ」

「え?」

「ココアは親密な男女の間で、夜を共に過ごす時に飲んだりする場合も有るのだ。一種の薬効成分に期待しているのだろう。コーヒーにチョコレートの組み合わせも似たような意味合いだな」

「ココアもチョコレートも、原材料は同じでしたよね」

「ああ。そうだ」

「随分昔になりますが、市中への夜のお出かけにお供した際、コーヒーとチョコレートを出してもらった事がございました」

「どのあたりの場所だ?」


 アンヌ・テレーゼが、運河の側の壁が白い三階建ての建物について話すと、ロベルト王は苦笑した。


「女の子を娼館に連れて行ったのだから、私もとんでもない大馬鹿だな」

「ああ……だから『悪い大人のいけない悪戯』などとあの女性は言ったのですね」


 苦笑交じりの王の説明によると、どうやらあの建物の女主人らしき女性は、王の愛人と言うより、ひいきの高級娼婦であったらしい。


「もう、ああした悪所には出かけないから、昔の事は勘弁してくれ。な?」


 急にあの娼館で眼にした春本の類の幾つかの挿絵を思い出した。


「どうした。表情が硬いな。どうもこちらまで緊張してしまうではないか」

「すみません」

「別に、わびる事でもない。……おいで」


 手を取られて、寝所に入った。そのようにされれば、素直に従う、それ以外の選択肢はアンヌ・テレーゼには存在しない。何をやっても手際の良い王は、あっという間に自分自身もアンヌ・テレーゼも裸にしてしまった。


「とりあえず、馴染んでもらわないとな」


 クスッと言う感じで、王は笑う。悪戯を見つかった子供のような笑い方だと、アンヌ・テレーゼは思った。だが、それから口づけられ、抱きしめられると、何が何やらわからなくなってくる。闇の中に蠢く気配、あ……あれは?……な、なに?


「ひぃい」

 およそ甘さとは無縁の、自分でも驚くような悲鳴を上げていた。

「どうした?」

「あ、あの」

「やめておこうか。何か、思い出したのではないか?」

「何か、暗い中で、呻き声が上がっていて……お、男がひどい事を言っていて……ッ!」

「灯りをつけてやろう」


 王は部屋に灯りをともした。当然ながら、互いの裸の肉体がいやでも目に入る。


「ほう、この方が良いかな。良い眺めだ」

「陛下……」

「冗談はさておき、やはり、何か思い出したのだな? この、傷に関わりが有ることか?」


 左のこめかみから後頭部にかけての傷は、普段は黒く艶やかな髪の中に隠れていて、知らない者には全く気がつかれない。だが、ロベルトの長い指はいかにも大切そうにその傷をたどった。抱きしめられているだけで、少し呼吸が落ち着いてきた。昔から良く知っている広く逞しい胸に体を寄せると、大きな手が背中をさする。それが大層心地良かった。主に懐いた猫か何かになった様な気分だ。


「黒い森の近くのゲンツ村、ゲンツ村の村長パウル・イェーガーの家に住んでいたんです」

「姉上が忘れたと仰ったと言う、お前の預け先の家か」

「はい」

 

 ゲンツ村は黒い森の恵みで、どうにか住民が生きている、そんな小さな村だった。狩猟と薬草取りと細々とした畑仕事で、村の生活はどうにか成り立っていた。


「皆……森を大切にしていて……キノコや薬草を取る時も……樹を傷つけないように……細心の注意を払っていました」


 王は抱きしめたまま、いささかもアンヌ・テレーゼをせかしたりしなかった。おかげで「小さなアンヌ」として森の側の村で暮らした楽しい日々と、突然その暮らしが終わりを告げた恐ろしい最後の日の一部始終を思い出したのだった。


「襲ってきた連中は、セレイアの者だったか? それとも」

「帝国の二十の冠を縫い取った旗を持った者がいましたから、恐らくは……」


 王の話す所によれば、そのゲンツ村以外に近隣の三か村が略奪され、ほぼすべての住民が虐殺され、すべての家が焼かれたらしい。ゲンツ村も含む地域の領主は最後の皇后フレデリカの実家だったそうだ。大君主国にいるルゥルゥによれば、フレデリカはアンヌ・テレーゼ自身の産みの母であるらしい。虐殺の犯人は対立する貴族の勢力だろうと推測されているだけで、細かな事情は今となっては探りようが無いらしい。


「何しろ関係する生存者がいないので、当時の事情が不明なのだ」


 わかっている事は、ごくわずかだ。

「小さなアンヌ」と呼んで自分を慈しんでくれた村長も息子も惨殺された事、更に……心から慕っていた村長の妻と娘が男たちによって辱められ虐殺された事、そして自分はなすすべもなく火の気の無くなった暖炉の奥で震えていた事、そうした忘れていた辛い過去を克明に思い出したのだった。


「村長の妻であるアガタに『いつも男の子の服を着て、女の子だと知られないように気を付けていなさい』と言われて育ちました」

「女の子であると知られれば、危険……だったのだな」


 自分が皇帝の娘、皇后フレデリカの娘であったがために、何の罪もない村の人々を恐ろしい運命に導いてしまったのかもしれない。


「私は……村にとって、災いの種だったのです、きっと」

「……だが、お前自身に、罪が有るわけでは無い」


 アンヌ・テレーゼは蘇った惨たらしい記憶に打ちのめされ震えていた。だが、大きな手が優しく背中をさすりあげ、まぶたにキスを落とされると、辛かった過去を自分一人で背負いこまなくても良いのだと言う想いが無言の内に伝わってきて、嬉しくて有り難くてホッとして……思わず号泣してしまったのだった。

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