覚悟・3
「陛下は本当に、私一人で我慢お出来になるんでしょうか?」
ロベルトを信じたいけれど信じきれない。それが正直な気持ちで、ロベルトの言葉を疑うのも初めての経験で、アンヌ・テレーゼは戸惑っていた。そんな話が出来るのは、養母であるノイマン夫人だけだ。
「本当に完全に実行なさることが可能かどうかは、私もはっきり分からないけれど、少なくともそのために随分涙ぐましい努力をなさったのは確実よ。でもね、完全では無くても、余り怒らない方が良いわよ」
「そんな、怒ったりはしません」
「押し殺した怒りは体を痛めつけるから、本当に怒ったりしちゃだめ。いつでも愚痴や不平は、私に吐き出してしまうようになさいね」
「陛下は……これまで、ただの一度も約束を破られた事は無いんです。でも……」
「愛人の方々との関係を、本当に精算なさることが出来るのか……不安?」
「ええ。色々な気性の方がいるでしょうし、陛下がそのおつもりでも上手く行くのかどうか、疑問を持っているんです。そんな事、とてもお尋ねは出来ませんけど」
「良くないわ、そんな考え」
「そ、そうですか?」
「ええ。自分の不安について、きちんと御説明するのは難しいかもしれないけれど、陛下はあなたを妃に迎えると決意なさったんだから、あなたの疑問や不安にも直接向き合おうとなさっているのだと思うの。だから、私とひそひそ話をするだけで、肝心の陛下には内緒なんて、良くないわ」
「でも、そんな話を陛下に申し上げるなんて、きっと御不快でしょうし」
「相手が浮気性の愚かな男なら、その通りでしょうけど、陛下は違っていらっしゃる。だから……」
その時、調理場から今晩のメニューが届けられた。
「ズワイガニとカリフラワーのテリーヌ、豆と季節野菜のポタージュ、牡蠣の香草ソース仕立て、ローストビーフ温野菜添え、リンゴのクレープ包み……結構よ。ああ、そうそう。陛下とアンヌ・テレーゼは今夜は陛下の御部屋で、私はこちらでいただきます。私はデザートは抜いてくださいな。陛下の方にはチーズの盛り合わせとコーヒーも忘れないように」
調理場の者は恭しく礼を返して部屋を出た。
「あの、陛下と私だけで?」
「ええ。そのモヤモヤした気持ちも、ちゃんと申し上げなさい。受け止める能力の無い方ではないのですから。それに、陛下はちゃんとお約束は守ろうとなさっていると思うわ。そこも自分でちゃんと確かめなさい」
養母の言葉に従って、その夜の食事は帰国後初めての二人きりとなった。
「セシリアが是非二人きりで食事をして、きちんと話し合っておいた方が良いと言うので従ったが、色々気になるのか? いや、気になって当然だろうが」
「私をお手元に引き取られて以来、約束して下さった事を陛下がたがえられたことは、ただの一度も有りません。それは良く承知しているのです。でも……」
「でも? 良いから、続けなさい」
「……でも、不安なのです。陛下がその、付き合ってこられた方々との御関係を清算なさるとはおっしゃいましたが、そう、うまくいくものでしょうか?」
「ふうむ。やっぱりそこか。確かに相手が有る事だからな。だが……皆それなりに誇りも自負心も有る。それにつきあう当初から『妃を迎える時には別れる』と言ってあるのだしな。確かに、理屈通りにはいかないのが人の感情だ。だが……あれらを信用してよいと思っている。そのあたりの人選は適切だったと思うのでね。かなりの女が、私と別れるのを機に、かねてから憎からず思っていた身近な男やら幼馴染やらと結婚する意志を固めた。そこで彼女たちの新しい門出に、かなりの金銭的な援助を与えた。無論相手の男たちは、王である私と女との関係を承知している。……たしかに、その男どもに取って怪しからん王かもしれんが、金銭でもたらされる慰めや癒しは、恐らく今のお前が思うより大きいのだ」
金銭による援助を十分喜んで受けさせるように、ロベルト王なりの工夫も有ったらしい。彼女たちは皆苦労人なので、王の心遣いを感じ取ってくれたように思う……そういう話だった。
「はあ。養母の言うようにそれぞれ、お人柄も優れた女性たちだから、陛下が魅力を感じられたのでしょうし、御約束もちゃんと守る方ばかり、そういう事ですよね?」
「ああ、そうだな。ん? 何だかすっきりしていない顔だな」
「……そうでしょうか」
「ははあ」
ロベルト王はニヤリと言う感じの笑みを浮かべた。
「私の欲求が満たされないで、また何か引き起こすのではないかと、そのあたりが気になるか?」
「いえ、あの、その」
「こやつ、真っ赤になりおって。食べてしまうぞ」
「はい」
「馬鹿め。私の苦労が水の泡ではないか。あと数日の事が我慢できぬほど、私が思慮分別の足らない愚か者と思っているのか? 王宮は、誰も見ていないようでいて誰かが必ず事実に気付く、そういうところだ。不都合な事は、皆が口を閉じているから、隠されているだけだ。心の中でこっそりとにせよ、後ろ指を指されるのは、我慢ならんのでな」
「後ろ指など、誰が指しましょうか」
「私ではなくとも、お前の方が不快な噂にさらされるかもしれん。それはそれで耐え難い。真実、清らかな状態で式を挙げたら、その後は思い切り夫の権利とやらを行使させてもらうぞ。世継も必要だからな」
「あのう……妻の権利と言うのも、御座いますよね」
「ああ。夫の不貞を咎める権利は有るな。あるいは真実を知る権利も」
「なるほど……以前はお答えいただけなかった事も、近頃は教えて下さるのは……私が妻になるから、なのですね?」
「以前はほんの子供であったしな。子供に色事に関わる言い訳をする義理も無かったからだよ。それでも、幼いお前の涙をためた目で見つめられた瞬間、心臓が跳ね上がった心地がしたことが有ってな……あの折、女に見つめられて息苦しさを感じるより、嬉しいと感じるのは、お前だけだとも気が付いたのだ。あの時、お前が気持を変えなければ、将来妻にしたいと思った。身の回りに良い男は色々居ただろうに、お前の目は何時も私に向いていた。心変わりせずにいてくれて、感謝する」
感謝するなどと言われて、アンヌ・テレーゼは驚いた。
「その……驚いてしまいました。自分だけが勝手に陛下をお慕いしている、そう思ってきたので」
「お前が望む事は、すべてかなえた。そう思っていたのだがな。私の誠意はあまり伝わらなかったのか?」
「いえ、そうではございません。そのう、陛下は私を庶出の妹か弟のようなものとお考えなのだと、そんな風に思っておりました」
「月の物が始まる前は、たしかにそのようであった。大間抜けな私は、お前が少年だと信じていたしな。だが、少年と信じていた時ですら、お前を幸せにしたいと強く思っていたよ。後からお前が女の子だと知って、自分は男色の気はやはり無いのだと納得できて、安心した」
「男女の情、などと言うことは漠然としかわからないのですが、陛下に一番近しい者として見て頂きたい、ずっとそう思って参りました。幼心に、自分は死ぬまでお傍にお仕えしたいと、思い定めていました」
「随分と早くに将来を決めてしまったのだな。だが、それを聞いて私は嬉しいよ。お前の選択が間違いでは無かったと実感してもらえるように、私も務めよう」
ごく自然に抱きしめられた。触れられるだけでなぜこうも、嬉しいのだろう。これが恋とか愛とか言う感情だろうか? 自分の心臓の音が耳障りな程大きく感じられ、アンヌ・テレーゼは戸惑った。
「艶めかしい表情が自然に出るようになったな。姉上はどう仰せだった?」
「陛下の妻として常に並び立つ存在となる覚悟が必要である一方で、多くの人々の想いにつぶされたりがんじがらめになったりしないで、私らしい王妃でいてほしい……そのように言われました」
「さすがだな。私もそのように思うぞ」
「陛下に大切にして頂かなくてはいけないとも……」
「ならば姉上に納得して頂けるように、もっともっと大切にしなくてはいかんな」
羽毛で撫でる様な軽いキスが、アンヌ・テレーゼの顔に降ってきた。




