ノイマン夫人・1
青年国王ロベルトの乳母であるノイマン夫人は、名をセシリアと言い、王国の貴族では無い。だが、貴族に準じた扱いを受け、王宮内では誰にも一目置かれる存在だ。戦死したノイマン夫人の夫は先代国王の信任厚い軍人であった。それも並みの軍人ではなく諜報工作の責任者であったらしい。
ロベルトが身体壮健・眉目秀麗な青年であるだけでなく、善政を敷き、一度は傾いた王国の財政を立て直すような優れた国王となったのは、生まれついての素質以上にノイマン夫人の厳しくも献身的な養育によるところが大きいと広く認識されているのだ。
ロベルトは生まれながらの王太子であったが、生母の王妃は産後の肥立ちが悪く、ロベルトが初めての誕生日を迎える前に亡くなった。その、母親との縁が薄い跡取り息子の養育を、若い戦争未亡人で一人息子を亡くしたばかりのノイマン夫人に委ねたのは、先代の国王だった。
「亡き息子が生きていたならばどう育てたか、そして将来王になる子供には何が必要か、常に意識して育ててほしい」
その先代国王の言葉は、ノイマン夫人の養育方針を決定づけた。母を失った赤子と息子を失った女は、たがいに寄り添うようにして、瞬く間に強いきずなを結んだ。幾度か幼いロベルトは病に見舞われることが有ったが、ノイマン夫人の献身的な介護でいつも無事に乗り越える事が出来た。少なくとも先代国王はそのように語っていたし、人々もそれを認めていた。だが、ノイマン夫人としては「当たり前の事」をしただけだと思っていたので、先代国王の言葉はいささか面はゆいのだった。
ロベルトが一歳を過ぎる頃から、ノイマン夫人は砂遊びをさせたのだが、砂は清潔なものを吟味し、庭師の手で丁寧にふるいにかけ、異物の混入が無い事を確認していた。最初の頃は自分で掘り返すより、庭師たちがあらかじめ作った山を突き崩す事にロベルトは夢中になっていた。二歳になって型抜き遊びをする頃になると、貴族や軍人・学者・豪商の家庭で同じ年か、少し年上の兄弟姉妹がいる健康で性格の穏やかな幼児をノイマン夫人が五人選び、一緒に砂遊びをさせた。幼い子供同士揉めると、ノイマン夫人は如何なる場合も相手の子供に謝らせたが、そうした場合は必ず「ロベルト様が王太子でいらっしゃるから、御身分に遠慮させたのです」と言い、砂遊びは中断させて子供たちを帰宅させるのだった。ロベルトは厳しく叱責される訳ではなかったが、自分のわがままで遊び相手が気分を害すると、楽しい遊びも止めになってしまうという事を幾度も体験して、四歳になる頃にはごく自然に遊び仲間に気配りが出来る子供になった。
仲良く遊んでいれば、ノイマン夫人が口をさしはさむ事はほとんど無く、ロベルトの自由にさせた。だが、遊んでいるロベルトの側で編み物や刺繍をしながら、常に目配りは怠らなかった。
砂遊びがしにくい晩秋から冬に掛けては、室内の床に白い大きな布を広げ、好きなように絵や模様を書くと言う遊びをした。やがてその布に陣地や道を書き、その上におもちゃの兵隊を置いたりして遊んだりもするようになった。あるいは紙芝居や絵本の類をノイマン夫人が読む、という事も有った。
ロベルトを含めた六人で、ほぼ毎日のように一緒におやつを食べたが、その際も「仲良く楽しく食べるにはどうすれば良いのか」をロベルトにノイマン夫人は考えさせたのだった。仲良しの子供の好みや、皆が楽しめる趣向について考える事が、マナーや社交術の基礎となった。
五人の子供たちはやがて、ロベルトの学友となり、有能な廷臣となって、今やこの国を支える人材に育っている。その五人が五人ともノイマン夫人には頭が上がらないのだから、宮廷における夫人の立場が強固になって行くのは、自然な流れなのだった。
だが、どれほど権勢を握ろうとも、ノイマン夫人は昔と変わらず黒一色の飾りの無いドレスを纏い、亡き夫に贈られた指輪以外の装身具は身に着けない状態を保っている。王となったロベルトは長年の功績に対して、爵位と領地を与えようとしたが、それを固辞した。そのかわり可能な限り宮中に伺候し続ける事と、優れた軍人であった亡き夫の最期の地に、顕彰碑の建立を願ったのだった。
ロベルト国王は忠実なノイマン夫人の願いを受け入れ、他に終生の年金の支給と、身寄りのいないアンドレアスを養子に迎えさせる事を決めた。
「アンドレアスという名前は男の名だけれど、お前は女の子よね。本当の名前は何というのかしら?」
国境近くでロベルトが拾った戦災孤児らしい子供は、身なりは男の子だったが、実は少女だった。ノイマン夫人は風呂の世話をしてやったし、着替えの手伝いもしてやったから、アンドレアスが秘密だと考えている事は、夫人にとっては秘密でも何でも無いのだった。
「いくら考えても思い出せません。アン……何とかだろうとは、思うのですが、その名前を呼んだはずの両親の記憶がはっきりしないのです」
ロベルトが連れて来た最初の日のアンドレアスの髪型は、ところどころムラになって地肌が透けて見えるようなひどいものだった。更には左のこめかみから後頭部にかけて比較的新しい傷が有った。どうやらその傷は自然に塞がっていたようだったが、自分の名前を覚えていないのが本当だとすると、怪我はかなりひどいものであったのだろう。もしかしてこの少女は、何かの事件なり事故なりに巻き込まれた被害者なのかもしれないとノイマン夫人は考えている。
というのも、ノイマン夫人自身が複雑な出生の秘密とやらを抱え込んでいたようで、幾度か理不尽にも殺されかけたのだ。それを避けるには他国に逃亡するしかないと悟り、親切な猟師の老人の手引きで王国側にやってきたのだ。薬草取りの老婆の小屋で厄介になっていた所、負傷したマウリッツ・ノイマンを救った事が機縁となり、帝国からの密入国者であったセシリアは軍人の妻となり、晴れてセレイア王国の国民となったのだった。
五年余りの結婚生活は幸せであったし、夫と息子を亡くした後は一心に世継の王子の乳母として務めていたので、生まれた土地のことなど考えたことも無かったのだが……自分とどこか面差しの似たアンドレアスを引き取って以降、ノイマン夫人は自分自身の遭遇した理不尽な災厄について、あらためて考える事が多くなった。
亡き夫マウリッツは、セシリアは生国である神聖帝国の皇族だった可能性が高いのではないかと推理していた。神聖帝国は歴史ばかりがやたら長かったが、セシリアの生まれた頃には建国当時の勢いはとうの昔に無く、領土も十分の一以下になってしまっていた。統治者は皇帝と呼ばれていたが、実態は小国の王と言って良い。だが他国の王家よりうんと家柄が古く、由緒正しいという事を大いに誇っていた。「いた」というのは、セシリアがマウリッツ・ノイマンと結婚して以降になるが、深刻な帝位継承をめぐる争いが起き、その結果近隣の諸国の介入を招き、内乱がおきて、結局は国が滅んでしまったのだ。
夫は戦死する寸前まで帝国の皇族の行方について調査していたようだ。どうやら先王の指示であったらしい。夫が亡くなり生まれた国が滅び、調査を命じた先王も亡くなられた。その詳細な報告書は夫の生前のままの状態の書斎にしまってあるが、セシリア自身が目を通したことは一度も無い。