侍従・1
R15は保険です。
贅を尽くした寄木細工の床に白大理石の柱、部屋の真ん中には巨大な四柱式ベッドが有り、そのわきには繊細な細工を施された猫足の机と椅子、部屋の隅の赤々と火が燃えている暖炉の前には高価な絨毯が敷かれ、その上に繻子張りの優美な寝椅子が置かれている。
若い小柄な侍従は暖炉の火を見つめながら、主のいない寝室で泣いていた。
真面目で仕事熱心であるから、仕えている王が不在でも王の許しなく椅子に座ったりベッドに腰掛けたりなど、決してしないのだ。侍従は王に仕えて五年になる。もともとは王の治める国の人間では無かった。九歳のころ飲まず食わずで戦場でさまよっていた所を、運よく王に拾われたのだ。侍従は命の恩人で主で、武芸や学問の師匠でもある「国王陛下」を心から尊敬していたし、感謝もしている。実際まだ青年といってよい年頃の国王は優れた政治家で、国一番の武人でもある。女性関係がかなり放埓でだらしない事を除けば、尊敬できる人物で、気前は良いし、思いやりも有る。実際、若い侍従は王を……ほとんど崇拝していると言っても良い。
「陛下、僕は……」
侍従は暖炉の火を見つめながら、知らず知らず大きな黒い瞳から、涙を流し、すすり上げていた。以前はこんな事は無かったのだが、この所、主がどこかの女性のもとに出かけて留守となると、ついこのように涙が出てきてしまうのだ。困った事に。
主の留守中、寝ずの番をしろなどと命じられている訳では無い。自室に下がって休めば良いのだが、主が無事に戻るまで心配で心配で、とても眠れないのだった。
かつてはどこに行くにも何をするにも、侍従は王の供をしたものだが、一昨年から愛人やなじみの娼婦の所を訪れる時は、供を命じられなくなったのだった。厳つい体つきの護衛三人は相変わらず供をするのに、自分だけ外された事が心外だったが、侍従という立場ではそのような事を主に向って言うべきではないし、実際、侍従はその件に関して何も王には言っていない。
こうした場合、通常は王は朝食の時刻まで宮殿に戻らない。だが、その日に限って何がどうなったのか侍従には分からなかったが、気が付くと暖炉の前の寝椅子に寝かされていたのだ。 泣き疲れて眠っていたらしい。大きなベッドには主が一人で眠っていた。耳を澄ますと健やかな寝息がかすかに聞こえる。それを聞くと侍従は心からホッとした。自分の体には王が微行の際に愛用しているコートが掛けてあった。恐らく王が掛けて下さったのだと、侍従は理解した。王が愛用している香水の香りがほのかに感じられる。この香りは、どこか深い森の奥の清らかな泉のほとりを侍従に思い起こさせる。深みがあって謎めいていて爽やかで胸の奥がざわめく、そんな魅力的な薫りを味わってから、主のコートを型崩れしないように丁寧に付属の衣裳部屋に収めておく。
先ずは自分自身の身支度を直さねばいけない。顔を洗い、髪をとかして黒いリボンで結ぶ。下着はすべて新しいものに着替える。下着は重要だ。ことにこの侍従のように秘密を持つ者には。
下着類はすべて白い。シャツも白いが、後は黒づくめだ。タイも上下の仕着せも靴下も靴も。侍従の目も髪も黒いので、それに合わせるようにと言う王の意向なのだ。ただ一つ、王が昨年与えた勲章だけが華やかな色合いを放っている。宮中に潜り込んでいたスパイ組織を摘発した功績によるものだ。それ以降、若い侍従は「黒の侍従」とか「黒い懐刀」とか言われて、権勢を誇る貴族たちにも一目置かれ、恐れられるようにもなった。王は貴族に任じるつもりだったが、自身の領地や召使の管理など役目を果たす上で鬱陶しいだけだと言うような事を言って固辞した。そして、これからもただ身近で仕えたいと強く願った。貴族の中には、真実それが侍従の願いであるのかについては疑う者も有ったが、王は若い侍従の願いを理解してくれた。
邸や領地を頂かない代わりに、宮殿で王の私室に最も近い部屋を賜った。そして若い大貴族の子弟の歳費に相当する年金を支給して下さっている。それで十分すぎるほどだと侍従は思っている。
王が目覚めたとあれば、他の者達にも呼び鈴を鳴らして知らせ、まずはうがいと洗顔の介助である。整髪と髭剃りは王専属の理髪師に任せる。衣装の着付けだが、下着の着替えは専属のメイド二人と三人がかりで素早く行う。襟付きのシルクのシャツを着せ、ズボンや靴下を穿かせ、クラバットを結び上衣を着せるのは侍従の役目だ。
「やはり、お前が結ばないと襟元が決まらないな」
「恐れ入ります」
毎朝、ほぼ同じ言葉を互いに繰り返しているが、王が自分のクラバットの結び方を気に入ってくださっていると言うのは、侍従に取って非常に重要な事なのだった。そして、その言葉を殆ど合図のようにして、理髪師とメイド二人は王の御前を退出する。入れ違いに朝食が運ばれてくるのだ。毒見も侍従の重要な役目であった。
まずは、王が食事の最初に飲む澄み切ったコンソメスープを一匙、王自身のスプーンですくって毒見用の小さなカップに入れてもらい、飲む。王自身のスプーンに毒を仕込む場合もありうるから、この手順は省けないのだ。
「これは美味そうだな」
王自身の手で、黄金色に輝くオムレツを真ん中から二つに切り、ひとかけらを毒見用の銀食器に乗せる。侍従は恭しくいただき、咀嚼音その他のぶざまな音を立てないように万全の注意を払って優雅に美しく毒見をするのだ。これで王のナイフフォークにもオムレツにも毒が無い事がはっきりする。
「まことに結構でございます」
「そうか」
同様の手順でハムなどの加工食肉、魚の燻製もしくはマリネ、サラダ、果物と手順良く、毒見をする。 朝食の席で、王は侍従がどの様に食べ物を食べるかしばしばじっと見つめる。侍従の好物が何であるのか、自然と理解しているのは確実で、王が明らかに毒見の量よりも多目の量を取り分けてくれるのも、侍従の好物のオムレツと大好物の果物類は半分ほど侍従に食べさせるのも、王の心遣いのようだ。
朝食には菓子パン類も供されるのだが「気に入ったのなら、お前が食べろ」と言われる事も珍しくない。
食事中に飲む茶は、侍従が淹れる。無論、これも王のカップに注いだ上で、一匙だけ毒見する。
「毒見など面倒極まりないなあ。どうせならお前と一緒に食事をした方が、よほど気分が良いと思うのだが、それを口にすると老人どもがうるさいだろうか……」
王のお気持ちは有り難いが、恐れ多い。自分はただの侍従であるのだから。そのように若い侍従は感じている。