第8話 庭に迷い込んだ子犬(?)です
ジークフリート様との契約(という名の新婚生活)が成立してから、数日が経った。
私の生活は、驚くほど充実していた。
朝は早く起きて、美味しい朝食を作る。
昼間は掃除と洗濯をして、午後は荒れ放題だった庭の手入れ。
夜は暖炉の前で、旦那様とたわいない話をする。
これ以上の幸せが、どこにあるだろう。
……まあ、強いて言うなら、もう少し庭が賑やかだといいな、くらいだ。
ある晴れた日の午後。
私は洗濯物を干すために、タライを抱えて裏庭へと出た。
「ふふーん♪」
鼻歌交じりにシーツを広げようとした、その時だった。
ガサガサッ。
庭の奥、森との境界にある茂みが大きく揺れた。
風ではない。何かがいる。
「……あら? 野生動物かしら」
私は手を止めて、目を凝らした。
タヌキか、ウサギだろうか。
可愛いお客さんだといいな、なんて呑気なことを考えていると。
ヌッ。
茂みから現れたのは、白銀の毛並みを持つ、巨大な獣だった。
四つ足で立っているのに、私の背丈よりも遥かに大きい。
鋭い牙、ガラス玉のような青い瞳。そして、揺らめくような長い尻尾。
「わぁ……」
私は思わず感嘆の声を上げた。
なんて立派な、大きなワンちゃんだろう!
(この辺りには、随分と育ちの良い野良犬がいるのね。シベリアン・ハスキーの亜種かしら?)
普通なら腰を抜かす場面かもしれない。
でも、そのワンちゃんは、足を引きずり、どこか辛そうに息を荒げていた。
白い毛並みの一部が汚れ、お腹がぺちゃんこに凹んでいる。
グルルルル……。
低い唸り声が聞こえた。
威嚇ではない。これは、どう聞いても――
「お腹、空いてるの?」
私が尋ねると、ワンちゃんはビクッと体を震わせ、少しだけ後ずさりした。
警戒しているようだ。無理もない。知らない人間に会ったら怖いよね。
「待ってて。今、何か持ってくるから」
私は大急ぎで台所に戻り、昨日の残りの干し肉と、飲み水を入れたボウルを持ってきた。
「はい、どうぞ。怖くないわよ」
少し離れた場所にそれを置き、私はしゃがみ込んで手招きをした。
ワンちゃんは青い瞳で私をじっと見つめ、鼻をヒクヒクさせた。
そして、干し肉の匂いに抗えなくなったのか、恐る恐る近づいてきた。
ガツガツッ!
一口食べた瞬間、彼は猛烈な勢いで干し肉に食らいついた。
やっぱり、相当お腹が空いていたみたいだ。
あっという間に平らげ、ボウルの水もピチャピチャと飲み干す。
「よしよし、いい子ね」
私は自然と手を伸ばし、その眉間を撫でた。
ビクッと身を固くした彼だったが、私が優しく撫で続けると、次第に目を細め、喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
「毛並みがふわふわねぇ。ブラッシングしたらもっと綺麗になりそう」
私がもふもふの毛に顔を埋めていると、背後から殺気立った声が響いた。
「リナリア!! 離れろッ!!」
振り返ると、ジークフリート様が斧を構えて立っていた。
顔面蒼白で、額には玉のような汗が浮いている。
「えっ、旦那様? どうしたんですか、そんな物騒なものを持って」
「どうしたもこうしたもない! そいつは……そいつは『フェンリル』だぞ!」
「フェンリル?」
私は首を傾げた。
聞いたことがある。確か、神話に出てくる伝説の魔獣だ。
一噛みでドラゴンを殺し、その吐息は森を凍らせるという、Sランク指定の災害級モンスター。
「はい、知っています。物語に出てくる怖い狼ですよね?」
「そうだ! それが今、お前の目の前にいるんだ! 今すぐこっちへ来い!」
ジークフリート様は必死に叫んでいる。
私は膝元のワンちゃんを見た。
彼は私に撫でられながら、「くぅ~ん」と甘えた声を出して、お腹を見せる勢いで転がっている。
「……えっと。旦那様、冗談がお上手ですね」
「は?」
「だって見てください。こんなに可愛いんですよ? フェンリルだなんて、もっとこう、目が血走ってて火を噴くような怪物のことでしょう?」
「いや、その青い目と銀の毛並みは間違いなく……」
「ほら、お手」
私が掌を出すと、ワンちゃんは「わんっ」と短く鳴いて、巨大な前足を私の手に乗せた。
肉球がぷにぷにしていて気持ちいい。
「……」
ジークフリート様が絶句して、持っていた斧を取り落とした。
彼には信じられない光景だった。
森の主であり、人間など餌としか認識していないはずの孤高の魔獣フェンリルが、ただの(と思っている)人間の娘に、尻尾を振って「お手」をしているのだ。
ジークフリート様の鋭い目は、フェンリルの様子を冷静に観察した。
◇◇
魔獣は、リナリアの干し肉を食べていた。
恐らく、あの干し肉にも彼女の無自覚な魔力が込められていたのだろう。
魔獣にとって、高純度の魔力は極上の餌であり、麻薬のようなものだ。
完全に餌付けされ、骨抜きにされている。
(……俺と同じか)
◇◇◇
ジークフリート様は、斧を拾い上げて深いため息をついた。
フェンリルに敵意はない。それどころか、リナリアを守る忠犬のような顔をしている。
「……はぁ。わかった、もういい」
彼は脱力したように肩を落として近づいてきた。
「旦那様、この子、怪我をしているみたいなんです。ここで手当てをしてあげてもいいですか?」
「……好きにしろ。ただし、家の中には入れるなよ。でかすぎる」
「ありがとうございます! よかったわね、ポチ!」
「……ポチ?」
ジークフリート様が眉をひそめた。
伝説の魔獣に向かって、随分な名前だ。
「はい! 名前がないと不便ですから。ねー、ポチ?」
私が呼びかけると、フェンリル――ポチは「わふっ!」と嬉しそうに吠えた。
どうやら気に入ったらしい。
「よし、じゃあポチ。今日からあなたがうちの番犬よ。旦那様とお家をしっかり守ってね」
ポチは力強く頷き、さっそくジークフリート様の足元に擦り寄って愛想を振りまいた。
ジークフリート様は引きつった顔で、その巨大な頭を撫でてやる。
「……俺が魔獣に守られる日が来るとはな」
彼は複雑そうな顔をしていたけれど、その瞳はどこか優しかった。
こうして、我が家に新しい家族(?)が増えた。
番犬としてはちょっと大きすぎるけれど、もふもふしていて温かいから、冬になったら湯たんぽ代わりになりそうだ。
――ちなみに。
数日後、森の魔物たちが屋敷に近づかなくなったのはポチのおかげだと思っていたけれど、実はポチが「ここはお母さん(リナリア)の縄張りだぞ!」と森中に威圧を放っていたせいだと知るのは、ずっと先のことである。




