第5話 私の魔法は「生活魔法」レベルです
美味しい朝食と、旦那様の笑顔(?)でエネルギーをチャージした私は、腕まくりをして廊下に立っていた。
目の前には、二階へと続く立派な螺旋階段がある。
かつては艶やかなマホガニーの手すりだったのだろうけれど、今はどす黒い汚れがこびりつき、床には粘着質で黒い煤のようなものが溜まっていた。
「うーん、さすがに長年の汚れは頑固そうですね」
私は指先で黒い汚れを少し拭ってみた。
べとり、としていて、少しひんやりする。ただの埃ではないようだ。カビの一種だろうか?
この屋敷全体を覆っている、なんだか湿っぽくて重たい空気の原因は、きっとこれだ。
「よし、一気にやっちゃいましょう!」
私は雑巾を構え、深呼吸をした。
私には攻撃魔法も、防御魔法も使えない。
けれど、実家で毎日毎日、広い屋敷を一人で掃除させられてきた経験がある。その中で編み出した、私だけのささやかな魔法。
「――『洗浄』」
短く唱え、掌から魔力を放出する。
イメージするのは、清らかな水と、汚れを弾き飛ばす風。
パァン、と小さな光が弾けた。
その瞬間。
私の手元から広がった光の波紋が、階段を一気に駆け上がった。
こびりついていた黒い粘液が、光に触れた端から「ジュッ」という音を立てて蒸発していく。
曇っていた手すりは新品のような艶を取り戻し、黒ずんでいた絨毯は鮮やかな深紅の色を蘇らせた。
「ふふっ、これくらいなら一発ですね!」
私は満足げに頷いた。
実家の汚れに比べれば、これくらい可愛いものだ。実家の台所の油汚れの方がよっぽど手強かった。
調子に乗った私は、そのまま廊下、窓、そして天井の隅に巣食っていた黒い蜘蛛の巣のようなものまで、次々と『洗浄』していった。
魔法を放つたびに、屋敷の中に漂っていたどんよりとした空気が晴れ、キラキラとした光の粒子が舞う。
「ふんふんふーん♪」
鼻歌交じりに窓ガラスを拭いていると、背後から何かが落ちるような、ドサッという音がした。
「?」
振り返ると、そこには薪の束を抱えたまま呆然と立ち尽くす、ジークフリート様の姿があった。
「あ、旦那様! 見てください、窓がこんなに綺麗に……って、どうされたんですか? そんなに怖い顔をして」
彼は目を見開き、その後、抱えていた薪を取り落とし、私の元へと大股で歩み寄ってきた。
「お前……今、何をした?」
「え? 何って、お掃除ですが」
「掃除? あれがか?」
彼は震える指で、ピカピカになった階段と、光が差し込む窓を指差した。
「この屋敷に染み付いていたのは、ただの汚れじゃない。俺の体から漏れ出した『呪いの瘴気』だぞ!? 高位の神官ですら浄化に三日はかかる代物だ!」
「えっ、そうなんですか?」
私はきょとんとして、自分の手を見つめた。
瘴気? 呪い?
言われてみれば、ちょっとしつこい油汚れみたいな感じだったけれど。
「でも、洗剤を使わなくても落ちましたよ? 『洗浄』の魔法をちょっと強めにかけただけで」
「『洗浄』だと……?」
ジークフリート様は頭を抱えた。
「それは生活魔法の初歩だろう。それで瘴気を消滅させるなど、聞いたことがない」
「ええー、そうですか? でも実家では、お風呂場のカビ取りもこれでやってましたし……」
「お前の実家の風呂場は魔界なのか?」
彼は本気で理解に苦しむような顔をしていた。
◇◇◇
彼――ジークフリートが驚愕するのも無理はない。
かつて魔王の呪いを受けた英雄の体からは、常に周囲を腐食させる強力な瘴気が漏れ出していた。
この屋敷が廃屋のように朽ちていたのも、庭の草木が枯れていたのも、全てその瘴気のせいだ。
普通の魔術師なら、触れただけで皮膚が爛れ、精神を病むレベルの猛毒。
それを、この小柄な妻は「ちょっと強めのカビ」程度の認識で、生活魔法一発で消し去ってしまったのだ。
(……やはり、この娘は異常だ)
ジークフリートは、目の前ののほほんとした妻を見下ろした。
彼女の体からは、清浄で、どこまでも温かい魔力が溢れている。
昨日のスープも、今朝のパンも。そしてこの掃除も。
彼女が行う全てが、最高ランクの聖女の奇跡そのものだった。
だが、本人は「私なんて魔力がない役立たずですから」と本気で信じ込んでいる。
(誰だ、こいつにそんな出鱈目を吹き込んだのは。……いや、むしろ好都合か)
もし彼女の力が王宮に知れれば、国中が彼女を奪い合い、道具として利用しようとするだろう。
彼女が望む普通の幸せなど、粉々に砕け散ってしまう。
ジークフリートの瞳に、強い光が宿った。
彼はリナリアの肩をガシリと掴むと、真剣な眼差しで言った。
「リナリア。よく聞け」
◇◇◇
「は、はいっ」
急に強い力で肩を掴まれ、私は背筋を伸ばした。
ジークフリート様の顔が、今まで見たことがないほど真剣だ。
「お前のその掃除魔法は……すごすぎる。あまりに綺麗になりすぎて、目に毒だ」
「えっ、綺麗になりすぎてダメなんですか?」
「そうだ。俺以外の男に見せたら、眩しすぎて目が潰れるかもしれん」
「そんな大袈裟な……」
「約束してくれ。この魔法を使うのは、この屋敷の中だけだ。人前では絶対にやるな。いいな?」
彼の剣幕に押され、私はこくこくと頷いた。
「わ、わかりました。旦那様がそう仰るなら」
「よし」
彼は安堵したように息を吐くと、不器用に私の頭をポンポンと撫でた。
「……綺麗にしてくれて、ありがとう。息がしやすい」
その言葉と、大きな手の温もりに、私の心臓はトクンと跳ねた。
褒められた。役に立てた。
それだけで、私は舞い上がりそうになる。
「えへへ、どういたしまして! じゃあ、次はお洗濯をしてきますね!」
私はバスケットを抱え、軽やかな足取りで庭へと向かった。
その背中を見送りながら、ジークフリート様が何かを呟いていたことには、気付かないまま。
――屋敷は浄化され、主の呪いも解けつつある。
しかし、そんな二人の平穏な生活を揺るがす来訪者が、すぐそこまで迫っていた。




