第3話 最初の食事は「普通のポトフ」です
屋敷の中は、外観から想像していた通りの惨状だった。
長年使われていなかったのか、家具には白い布がかけられ、床にはうっすらと埃が積もっている。
けれど、私は絶望するどころか、腕まくりをしたいくらいウズウズしていた。
(磨けば光るわ。この階段の手すりも、窓ガラスも!)
とはいえ、まずは腹ごしらえだ。
到着したのは夕方。窓の外はもう薄暗くなり始めている。
「台所をお借りしてもいいですか?」
「……奥だ。だが、食材なんて干し肉と根菜くらいしかないぞ」
ジークフリート様はボストンバッグを床に置くと、気まずそうに頭をかいた。
「俺は普段、焼くだけか煮るだけのものしか食わん。口に合うかは保証しない」
「干し肉とお野菜? 十分すぎます! 実家では、具のないスープの日もありましたから」
私が明るく答えると、彼はまた「変な奴だ」と呟いて、台所へと案内してくれた。
台所は、意外にも片付いていた。
というか、物がなさすぎた。鍋が一つと、まな板、包丁。そして部屋の隅に置かれた木箱には、ジャガイモと玉ねぎ、硬そうな干し肉が無造作に放り込まれている。
「よし、これならポトフが作れますね」
私はエプロンを取り出し、さっそく準備に取り掛かった。
まずは井戸水で野菜を洗う。
水は冷たくて手がかじかみそうだったけれど、不思議と苦ではなかった。
だって、自分の意志で、自分のために料理ができるのだから。
(美味しくなぁれ、美味しくなぁれ)
心の中でおまじないを唱えながら、野菜を一口大に切っていく。
干し肉は薄くスライスして、旨味が出やすいように。
カビ臭かった鍋は、さっき見せた小さな火で一度空焚きをして消毒し、それから水を張った。
コトコト、コトコト。
静かな屋敷に、スープの煮える優しい音が響き始める。
立ち上る湯気と共に、干し肉の塩気と野菜の甘い香りが漂ってきた。
私は仕上げに、庭に自生していたハーブ――ローズマリーに似た香草をちぎって鍋に入れた。
「よし、完成!」
味見をしてみる。
うん、干し肉からいい出汁が出ている。塩気もちょうどいい。
普通のポトフの出来上がりだ。
ダイニングルームに戻ると、ジークフリート様は長テーブルの端に座り、所在なさげに窓の外を眺めていた。
「お待たせしました。粗末なものですけれど」
湯気の立つ木皿を彼の前に置く。
彼は驚いたように皿を見つめた。
「……匂いは、悪くないな」
「毒見は私がしましたから、大丈夫ですよ」
「別に疑ってなどいない」
彼はぶっきらぼうに言うと、スプーンを手に取った。
そして、熱々のスープを一口、口に運ぶ。
その瞬間だった。
カラン、と乾いた音がして、彼の手からスプーンが滑り落ちた。
「ジークフリート様!?」
私は慌てて彼の顔を覗き込んだ。
彼は口元を押さえたまま、目を大きく見開いて固まっている。額には玉のような汗が滲み、顔色がカッと赤くなっていた。
「あ、熱すぎましたか? すみません、私ったら猫舌の方への配慮が足りなくて……!」
「ち、違う……!」
彼は絞り出すような声で言った。
そして、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がると、自身の胸元をギュッと鷲掴みにする。
「なんだ、これは……熱い。腹の底から、何かが……」
「えっ、やっぱり熱かったんじゃ」
「違う! 痛みが……消えていく?」
「はい?」
痛み? 空腹で胃が痛かったのだろうか。
ジークフリート様は荒い呼吸を繰り返しながら、自分の体を確認するように腕や腹をさすっている。
彼の視点では、信じられないことが起きていたらしい。
体の奥深くに巣食っていた、鉛のように重く冷たい「呪いの楔」。それが、温かいスープが流れ込んだ瞬間に、まるで春の雪解けのように溶け出したのだという。
全身を駆け巡る温かな奔流。
指先の痺れが消え、視界がクリアになり、冷え切っていた手足に血が通っていく感覚。
それは彼にとって、数年ぶりに感じる生きた心地だった。
けれど、そんなことなど露知らず。
私はオロオロと背中をさすることしかできなかった。
「あ、あの……お水、持ってきましょうか?」
「……いや、いい」
彼は深く息を吐き出すと、ゆっくりと椅子に座り直した。
そして、震える手でもう一度スプーンを握りしめる。
「……すまない。驚いただけだ」
「お口に合いませんでしたか?」
「逆だ」
彼は短く答えると、今度は猛烈な勢いでスープを口に運び始めた。
ハフハフと湯気を吐き出しながら、ジャガイモを、干し肉を、スープの一滴まで残さず平らげていく。
その食べっぷりは、見ていて気持ちがいいほどだった。
あっという間に皿は空になり、彼は満足げに息をついた。
「……美味かった」
ボソリと言われたその言葉に、私の胸は温かいもので満たされた。
「おかわり、ありますよ?」
「……もらう」
結局、彼は鍋いっぱいに作ったポトフを三杯もおかわりしてくれた。
実家では餌のような扱いだった私の料理が、ここではこんなに喜んでもらえる。
(来てよかった)
私は自分の分をゆっくりと味わいながら、心からそう思った。
――その夜。
ジークフリート様は、数年ぶりに激痛で目覚めることのない朝を迎えることになるのだが、その理由が私のスープにあるとは、まだ誰も気付いていなかった。




