第28話(最終話) 『普通』の幸せ、これからの日々
建国記念舞踏会での伝説のお披露目から、一ヶ月が経った。
王都は、依然として「聖女公爵夫人」と「英雄公爵」の話題で持ちきりだったけれど、ハイゼル公爵邸の中には、驚くほど穏やかな時間が流れていた。
ある晴れた日の朝。
私はいつものように、厨房で包丁を握っていた。
「奥様、またそのような……! 朝食作りなど、我々にお任せくださいと言っているのに」
料理長が困ったような、でも嬉しそうな顔で嘆く。
私はふふっと笑って、フライパンを揺すった。
「いいえ、これだけは譲れません。旦那様の体調管理は、私の大事なお仕事ですから」
今日のメニューは、厚切りベーコンと目玉焼き、そして野菜たっぷりのミネストローネ。
王都の貴族が食べるような豪華なフルコースではないけれど、これが一番元が出るのだ。
「それに、これを入れるのがコツなんです」
私は仕上げに、鍋に向かってそっと囁いた。
――美味しくなあれ、今日も一日、旦那様が笑顔でいられますように。
鍋からふわりと金色の湯気が立ち上る。
それは無自覚な聖女の祝福。
食べた人の心身を癒やし、幸福感で満たす、世界で一番優しい魔法のスパイス。
◇◇◇
ダイニングルームに、焼きたてのパンの香りが広がる。
「おはよう、リナリア」
執務室から降りてきたジークフリート様が、私の頬に朝の口づけを落とした。
王都に戻ってからは、領地経営や王城への出仕で大忙しのはずなのに、彼の顔色はとても良い。
昔のような殺気立った雰囲気はなく、今は頼りがいのある落ち着いた旦那様の顔をしている。
「おはようございます、ジークフリート様。あと、ポチも」
「ワフッ!」
足元には、王都の生活にもすっかり馴染んだフェンリルのポチがいる。
彼は私の焼いたパンが大好物で、今も尻尾をブンブン振って催促している。
「いただきます」
ジークフリート様がスープを一口飲む。
その瞬間、彼の表情がふっと緩み、幸せそうに目を細めた。
「……あぁ。やっぱり、お前の飯が世界一だ」
「ふふ、お世辞が上手になりましたね」
「本心だ。王城の晩餐会で出る料理より、このスープの方が千倍美味い」
彼はパンに半熟の黄身を絡めながら、しみじみと言った。
「リナリア。……俺は、幸せだ」
「え?」
「呪われて、全てを失って、絶望していたあの頃は……こんな朝が来るとは想像もできなかった。愛する妻と、美味い飯と、暖かい家。……これ以上の宝が、どこにある」
彼の真っ直ぐな言葉に、胸が熱くなる。
私も同じだ。
実家で虐げられ、自分には価値がないと思い込んでいた。
でも、この人と出会って、私の世界は色鮮やかに変わった。
「あのね、旦那様」
私は彼を見つめて、微笑んだ。
「私、ずっと『魔力のない普通の人』と結婚して、『普通の幸せ』を手に入れるのが夢でした」
「……あぁ。俺は『普通』じゃなくて悪かったな」
彼が苦笑する。
英雄で、公爵で、超ハイスペックな旦那様。
「いいえ。気付きました。私の求めていた『普通』って、平凡って意味じゃなかったんです」
「ん?」
「おはようって言い合って、ご飯を食べて、一緒に笑い合う。……そんな、かけがえのない日常のことだったんです」
私は手を伸ばし、テーブル越しの彼の手を握った。
「だから、あなたは私にとって最高の『普通』の旦那様です」
ジークフリート様は目を見開き、それから愛おしそうに私の手を握り返した。
「……勝てないな、お前には」
窓の外から、柔らかな陽光が差し込み、私たちを包み込む。
食事が終わったら、今日はお天気も良いし、庭でお茶でもしようか。
ポチのブラッシングもしなくちゃ。
夜は、旦那様の好きなハンバーグを作ろう。
そんな、愛しい予定でいっぱいの毎日。
私の魔法は、生活魔法レベルです。
世界を救うような派手な魔法じゃないけれど、大切な人の毎日を、ピカピカに輝かせる魔法。
これからも私は、この魔法で、大好きな人と一緒に生きていく。
「さあ、冷めないうちに召し上がってください」
「あぁ、食べるよ。……ありがとう、リナリア」
穏やかで、温かくて、とっても美味しい。
そんな私たちの普通で特別な物語は、これからもずっと続いていく――。
(完)




