第26話 地獄の? 特訓開始!
王都での新生活二日目。
私の目の前には、鬼のような形相をした初老の女性が立っていた。
「背筋が曲がっておりますわ、奥様! 扇子の角度は四十五度! 足音を立てずに歩くのです!」
ビシッ! と指示棒が空を切る。
彼女は、王家から派遣されたマナー講師、マダム・ローズ。
「歩く礼儀作法書」の異名を持ち、数多の貴族令嬢を震え上がらせてきた伝説の淑女だ。
「は、はいっ! ごめんなさい!」
私は頭に分厚い本を乗せたまま、必死に姿勢を正した。
ドレスの下にはコルセットが巻かれていて、息をするだけで精一杯だ。
(うぅ……お掃除なら何時間でもできるのに、立っているだけでこんなに疲れるなんて……)
一週間後の舞踏会に向けて、私は公爵夫人としての立ち振る舞いを叩き込まれていた。
しかし、私のスペックは「家事全般:Sランク」「戦闘力(防御):SSランク」だが、「社交性:Eランク(村人レベル)」なのだ。
「次はダンスですわ。基本のワルツを」
「は、はい! ダンスなら、収穫祭で踊ったことがあります!」
私は自信満々で頷いた。
村の広場で、皆と手を取り合ってクルクル回るアレだ。あれなら得意だ。
「音楽、スタート!」
優雅な弦楽器の音色が流れる。
私はパートナー役の若手騎士の手を取り、リズムに合わせて――
ダンッ! ダンッ! シュバッ!
力強く大地を踏みしめ、俊敏なステップで回転した。
「ほらっ、ほらっ、よいしょー!」
「お、奥様!? 速い! 速すぎます!?」
若手騎士が悲鳴を上げた。
私の無自覚な身体強化魔法が乗ったステップは、残像が見えるほどの高速移動と化していた。
「ああっ、目が回るぅぅ……!」
ドサァッ。
若手騎士は遠心力に耐えきれず、目を回して倒れてしまった。
「――ストップ!!」
マダム・ローズが頭を抱えて叫んだ。
「奥様! それはワルツではありません! 『芋洗いの儀式』か何かですか!?」
「えっ? でも、村では一番上手だと褒められたんですが……」
「ここは村ではありません! 王宮です! もっと優雅に、空気のように軽やかに!」
マダム・ローズは深いため息をついた。
「はぁ……。これでは一週間で間に合うかどうか。ジークフリート様のパートナーとして恥をかかせるわけにはまいりませんのに」
その言葉が、私の胸にチクリと刺さった。
そうだ。私はジークフリート様の隣に立つのだ。
あんなに立派な旦那様に、私のせいで恥をかかせるなんて絶対にしたくない。
「……申し訳ありません。もう一度、お願いします」
私は唇を噛み締め、頭を下げた。
◇◇◇
レッスン室の扉の隙間から、その様子を覗き見ている男がいた。
もちろん、ジークフリートだ。
「……リナリア」
必死に汗を流し、慣れないハイヒールで足にマメを作りながら練習する妻の姿。
ジークフリートは、今すぐ飛び出して「もういい、頑張らなくていい!」と抱きしめたい衝動に駆られていた。
「閣下、我慢です」
隣にいた執事のセバスが、主人の袖を掴んで止めた。
「奥様は、閣下のために変わろうとされています。そのお気持ちを無駄になさってはなりません」
「分かっている……。だが、あんな厳しくしなくてもいいだろう。リナリアはそのままで十分可愛い」
「それは閣下の惚気でございます」
ジークフリートは不満げに唸ったが、リナリアがふらついた瞬間、我慢の限界を超えた。
バンッ!
彼は扉を開け放ち、大股で部屋に入っていった。
「そこまでだ」
◇◇◇
「旦那様!?」
「閣下? まだ練習の途中ですが」
マダム・ローズが眼鏡を光らせたが、ジークフリート様は無視して私の腰に手を回した。
「そろそろ休憩したらどうだ?」
「で、でも……私、まだ全然踊れなくて……」
「大丈夫だ。ダンスなど、俺に身を任せていればいい」
ジークフリート様は、私の手を取った。
「マダム、音楽を」
再び音楽が流れる。
ジークフリート様がリードし、ゆっくりとステップを踏み出す。
イチ、ニ、サン。イチ、ニ、サン。
彼の大きな手が、私の背中をしっかりと支えてくれている。
その安心感のおかげか、さっきまでガチガチだった体が自然と動いた。
「……上手いじゃないか」
耳元で、彼が優しく囁く。
「足元を見るな。俺の目だけを見ていればいい」
金色の瞳に見つめられると、周りの景色が消えて、彼と私だけの世界になる。
あぁ、そうだ。
私は「上手く踊ろう」としていたけれど、大事なのは「彼と一緒に歩むこと」なんだ。
一曲踊り終えると、私は一度も足を踏むことなく、完璧なワルツを踊りきっていた。
「……ふん。愛の力、というやつですわね」
マダム・ローズが呆れたように、でも少し微笑んで言った。
「ですが、休憩というのは賛成ですわ。私も少し喉が渇きました」
「あ! それなら、お茶とお菓子を用意してあります!」
私はここぞとばかりに、ワゴンを運んできた。
特訓の合間に焼いた、特製のマカロンと、疲労回復効果のあるハーブティーだ。
もちろん、無自覚の聖女パワー(超回復)入りである。
「どうぞ、召し上がってください」
マダム・ローズは「いただきましょう」とマカロンを口にした。
サクッ……。
その瞬間。
鬼教官の表情が、一瞬で蕩けた。
「……ッ!?」
目に見えて、彼女の全身から疲れという疲れが霧散していく。
長年の悩みだった腰痛が消え、肌にツヤが戻り、視界がクリアになった――ように見える。
「な、なんですのこれ……!? 体が……羽根のように軽いですわ!?」
「お口に合いましたか?」
「合うも何も……! これは、王宮のパティシエでも作れませんわよ!?」
マダム・ローズは戦慄しているようだった。
まるで、私を未知の生物か何かを見るような目で見つめてくる。
(……この公爵夫人は、ただの田舎娘ではない。一緒にいるだけで癒やされ、食べれば若返る。まさに『歩くパワースポット』だわ)
そんな心の声が聞こえてきそうなほど、マダムの目は驚愕に見開かれていた。
(ジークフリート閣下が溺愛するのも分かりますわ。こんなの、手放せるわけがありませんもの)
マダム・ローズは何かを納得したように咳払いをし、姿勢を正した。
その眼差しは、先ほどまでの「出来の悪い生徒を見る目」から、「崇拝すべき対象を見る目」に変わっていた。
「……奥様。訂正いたします」
「はい?」
「あなたは、今のままで素晴らしいですわ。技術など、私が小手先で誤魔化せるように仕込んで差し上げます。……その代わり、このマカロンのレシピを教えていただけないかしら?」
「えっ? はい、もちろんです!」
こうして、最強の鬼教官もまた、私の胃袋掌握術によって陥落したのだった。
◇◇◇
そして一週間後。
ついに建国記念舞踏会の当日がやってきた。
私室の鏡の前。
そこに映っているのは、自分でも誰だか分からないほど綺麗に着飾った女性だった。
王都一番のデザイナーが仕立てた、夜空のような深い青色のドレス。
髪には、旦那様がくれた髪飾りが輝いている。
「リナリア」
背後から、正装したジークフリート様が現れた。
黒のタキシードに、公爵家の紋章が入ったマント。
息を呑むほど格好良くて、私は頬を赤らめた。
「……綺麗だ」
彼が私の手を取り、甲に口づけを落とす。
「行こうか。俺の自慢の妻を、世界に見せつけてやる」
「はい、旦那様」
私は深く息を吸い込み、彼のエスコートを受けた。
いざ、戦場(舞踏会)へ。
元・地味令嬢の、一世一代の晴れ舞台の幕が上がる。




