第25話 「私の聖女様」
王都での初日、怒涛の大掃除と使用人たちへの挨拶を終えた私たちは、ようやく夫婦水入らずの夜を迎えた。
夕食後、私はバルコニーに出て、王都の夜景を眺めていた。
無数の明かりが宝石箱のように輝いている。
実家の屋根裏部屋から見ていた景色と同じはずなのに、今の私には、まるで違う世界のように美しく見えた。
「……ここか」
背後から、ジークフリート様が声をかけてきた。
彼は私の隣に並び、手すりに肘をついた。
夜風が、彼の黒髪を優しく揺らす。
「疲れただろう。今日は色々あったからな」
「いいえ。心地よい疲れです。……旦那様こそ、大丈夫ですか? 久しぶりの王都で」
「あぁ。お前が隣にいてくれるなら、どこだろうと同じだ」
彼は自然な調子で甘いことを言って、私の肩を抱き寄せた。
その体温に触れると、私は心の底から安心する。
でも、私にはまだ、一つだけ聞けていないことがあった。
「……あの、旦那様」
「ん?」
「私、ずっと不思議だったんです。どうして……私の料理が、旦那様の呪いを解いたんでしょうか?」
今日、法廷でジークフリート様は「リナリアの魔力は測定不能なほど高い」と言ってくれた。
姉の魔法を弾き返したのも、その力だと言う。
でも、実家で無能と言われ続けてきた私には、まだ実感が湧かなかった。
「お医者様でも、神殿の神官様でも治せなかったんですよね? それが、ただのポトフやハンバーグで治るなんて……」
私が自信なさげに呟くと、ジークフリート様は私の手を取り、自分の胸――心臓のあたりに当てた。
「……俺が受けた『魔王の呪い』は、魂を腐食させ、魔力を根こそぎ食い荒らす『飢餓』の呪いだった」
彼の鼓動が、トクン、トクンと掌に伝わる。
「どんなに高位の回復魔法をかけても、呪いがそれを餌にしてしまい、逆に俺の命を削るだけだった。……だから俺は、自分の中に誰も入れず、ただ魔力が尽きて死ぬのを待っていたんだ」
「そんな……」
想像するだけで胸が締め付けられる。
誰にも頼れず、癒やされることすら許されず、一人で朽ちていく孤独。
「だが、お前は違った」
ジークフリート様は、愛おしそうに私の瞳を見つめた。
「お前の魔法は、押し付けがましい『治療』ではなかった。……お前はただ、『美味しくなあれ』『元気になあれ』と願って、料理を作ってくれただろう?」
「は、はい。それはもちろん」
「それが良かったんだ」
彼はふっと笑った。
「お前の魔力は、料理という形をとることで、俺の警戒心も、呪いの拒絶反応もすり抜けて、体の奥底まで染み込んできた。……純度百パーセントの、温かくて優しい『愛』そのもののような魔力が」
「愛……?」
「あぁ。お前は無自覚に、自分の生命力を削って料理に込めていたんだ。普通なら倒れてしまうほどの量を、惜しげもなく」
私は驚いて自分の手を見つめた。
実家で毎日クタクタになっていたのは、単なる重労働のせいじゃなくて、魔力を使いすぎていたから?
「俺の枯渇していた器は、お前の魔力で満たされた。そして、お前の『俺を元気にしたい』という純粋な願いが、呪いの『飢え』すらも癒やして浄化したんだ」
ジークフリート様は、私の手を両手で包み込み、跪いた。
昼間、国王陛下が彼にしたように。
今度は彼が、私に対して最上級の敬愛を示してくれた。
「リナリア。お前は『無能』なんかじゃない。……神殿の聖女など足元にも及ばない、俺だけの『本物の聖女』だ」
「旦那様……っ」
涙が溢れて止まらなかった。
ずっと、自分には価値がないと思っていた。
誰の役にも立てない、穀潰しだと。
でも、この人は言ってくれた。私が、彼を救ったのだと。
「ありがとう……。私を見つけてくれて、私のご飯を食べてくれて……ありがとうございます……!」
私が泣きじゃくると、ジークフリート様は立ち上がり、優しく涙を拭ってくれた。
そして、壊れ物を扱うように私を抱きしめた。
「礼を言うのは俺の方だ。……愛している、リナリア。これからは俺が、お前のすべてを守る」
「はい……! 私も、愛しています!」
月明かりの下、私たちは契約ではない愛の誓いを交わした。
◇◇◇
翌朝。
目を覚ますと、隣にはジークフリート様の寝顔があった。
安心して眠っているその顔を見て、私は幸せな気持ちでいっぱいになった。
(私、聖女様……なのかな?)
自分の手のひらを見つめてみる。
昨日までと同じ、あかぎれのある手。
でも、この手で彼を救えたのなら、この手は私の誇りだ。
「……ん、リナリア?」
ジークフリート様が目を覚まし、眠たげな声で私を呼んだ。
「おはようございます、旦那様。……朝ご飯、何がいいですか?」
私が尋ねると、彼はとろけるような笑顔で答えた。
「お前の作るものなら、何でも。……あぁ、でも」
彼は少し考えて、悪戯っぽく付け加えた。
「ハチミツたっぷりのパンケーキがいいな」
「ふふっ、かしこまりました! 私の聖女パワー入りですね!」
私はベッドから飛び起き、軽やかな足取りでキッチンへと向かった。
今の私には、どんな魔法よりも強力な愛という隠し味がある。
今日の朝食は、きっと昨日よりもっと美味しくなるはずだ。
――こうして、私と旦那様の絆は揺るぎないものとなった。
しかし、幸せな日々を満喫する間もなく、次なる試練が迫っていた。
それは、一週間後に迫った建国記念舞踏会。
公爵夫人としてのデビュタントであり、私が王都中の貴族たちに品定めされる決戦の場だ。
芋洗いダンスしか踊れない元・地味令嬢の特訓の日々が、幕を開ける。




