第20話 英雄の帰還
国王陛下の登場に、部屋の空気は凍りついたように静まり返った。
豪奢なマントを翻し、威厳に満ちた初老の男性――この国の王、アルマン七世がゆっくりと歩みを進める。
その背後には、抜身の剣を持った近衛騎士たちが、鉄壁の護衛として控えていた。
「へ、陛下……! おお、陛下ぁぁッ!」
沈黙を破ったのは、父の情けない叫び声だった。
父は這いつくばったまま、王の足元にすがりつこうとした。
「よくぞ……よくぞ来てくださいました! このベルベット伯爵、感涙にむせび泣いております!」
父の顔色は、恐怖の青ざめから、一転して歓喜の赤色へと変わっていた。
彼は完全に勘違いをしていたのだ。
王家が軍を率いて現れたのは、伯爵家である自分たちを救出し、この野蛮な男(ジークフリート様)を成敗するためだと。
「陛下、聞いてください! この男は狂っております!」
父は煤だらけの指で、ジークフリート様を指差した。
「私の娘を誘拐し、洗脳して監禁したのです! そればかりか、連れ戻しに来た私たち親族に暴力を振るい、あまつさえ殺そうとしました! 見てください、この娘の惨状を!」
「そうですわ陛下!」
姉のエレノアも、ここぞとばかりに泣き真似を始めた。
「この男は魔法で私たちを吹き飛ばしたのです! 私の大切なドレスも台無しにされました! どうか、この不敬な野蛮人に極刑を! 即刻、首を刎ねてくださいまし!」
彼らは必死にまくし立てた。
自分たちが被害者であり、正義は自分たちにあると信じて疑わなかった。
王家は貴族の味方だ。どこの馬の骨とも知れぬ男より、歴史ある伯爵家の訴えを聞くはずだ――と。
「……」
国王陛下は無言だった。
冷ややかな瞳で、足元にすがりつく父を一瞥し、そしてゆっくりと視線を上げた。
その視線の先には、私を背に庇い、仁王立ちしているジークフリート様がいる。
(だ、旦那様……!)
私は心臓が口から飛び出しそうだった。
どうしよう。父たちの嘘が信じられてしまったら。
旦那様が捕まってしまう。
彼はただ、私を守ろうとしてくれただけなのに。
「あ、あのっ! 違います! 旦那様は悪くありません!」
私は勇気を振り絞って叫んだ。
「悪いのは私なんです! 私が実家を出たから……旦那様は私を助けてくれただけで……!」
「黙りなさいリナリア!」
母が金切り声を上げた。
「お前は黙って見ていなさい! 陛下が正義の裁きを下してくださるわ。……さあ陛下、どうぞご命令を! この男を地下牢へ!」
父たちは勝ち誇った顔で、ジークフリート様を嘲笑った。
見てみろ、これが身分の差だ。お前のようなゴロツキが、貴族に逆らった末路だ――というように。
しかし。
国王陛下は、父たちの言葉など聞こえていないかのように、静かに口を開いた。
「……探したぞ」
その声は、震えていた。
怒りではない。深い、深い情愛と、後悔と、そして感謝に震えていた。
陛下は父たちを無視して通り過ぎ、ジークフリート様の目の前まで歩み寄った。
近衛騎士たちが一斉に緊張する。
ジークフリート様は、微動だにしない。
そして。
信じられない光景が、私たちの目の前で繰り広げられた。
国王陛下が、膝を折ったのだ。
誰あろうこの国の王が、薄汚れたシャツを着た一人の男の前で、深々と頭を下げたのだ。
「えっ……?」
父たちの時が止まった。
私の時も止まった。
「……ジークフリート」
陛下が、万感の思いを込めてその名を呼んだ。
「余の……いや、この国の英雄よ。よくぞ、生きていてくれた」
「……」
「そなたに全ての呪いを背負わせ、追放同然に送り出した余を、恨んでいるだろうか。それでも余は、そなたに会いたかった。……礼を、言わせてくれ」
王の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「魔王を討ち、国を救ってくれて、ありがとう。そして……呪いに打ち勝ち、こうして戻ってきてくれて、本当にありがとう」
シン……と、部屋中が静まり返った。
父の口は、あんぐりと開きっぱなしで、顎が外れそうになっている。
姉と母は、白目を剥いて卒倒寸前だ。
彼らはようやく理解したのだ。
自分たちが「野蛮人」「木こり」「貧乏貴族」と罵っていた男の正体を。
この国で唯一、王が頭を下げる存在。
最高位の公爵位を持ち、武勲においては伝説と謳われる救国の英雄。
ジークフリート・ヴァン・ハイゼル公爵その人であることを。
「……顔を上げてください、陛下」
ジークフリート様が、静かに言った。
その口調は、いつものぶっきらぼうなものではなく、かつて王に仕えた騎士としての威厳に満ちていた。
「俺は、恨んでなどいません。……むしろ、感謝しています」
「感謝……?」
陛下が驚いて顔を上げる。
ジークフリート様は、背後にいる私を引き寄せ、肩を抱いた。
そして、これ以上ないほど穏やかな顔で微笑んだ。
「この地に送られたおかげで……俺は、この世界で一番の宝を見つけることができましたから」
「……ほう」
陛下は涙を拭い、私を見た。
そして、まるで春の日差しのような笑顔を向けた。
「そなたが、リナリア嬢か。レオンから聞いている。……我が友を救ってくれた『奇跡の料理人』とは」
「えっ? あ、はい……えっ!?」
私はパニックだった。
陛下? 英雄? 公爵?
私の旦那様は、「魔力がなくて、人付き合いが苦手な、普通の木こりさん(仮)」じゃなかったの?
「だ、旦那様……? 英雄って、魔王を倒した、あの……?」
私が恐る恐る尋ねると、ジークフリート様はバツが悪そうに視線を逸らした。
「……黙っていて、すまない。嫌われたくなくて、言えなかった」
「き、嫌うなんて、そんな……!」
驚きすぎて言葉が出ない。
私の作った普通のポトフを美味しいと言って食べてくれていた人が、教科書に載っているような偉人だったなんて。
「そ、そんな馬鹿な……」
後ろで、父がガタガタと震えながら呟いた。
「英雄ジークフリートだと……? まさか、あの呪われた公爵か!? し、死んだはずでは……いや、廃人になったと……」
「勝手に殺すな」
ジークフリート様が、父を一瞥した。
今や、その視線を受ける父の顔には、絶望しかない。
英雄を「木こり」呼ばわりし、その妻を「穀潰し」と罵り、あまつさえ殺そうとしたのだ。
国家反逆罪に問われてもおかしくない。
「ひっ、ひぃぃぃッ!! ご、ご無礼をぉぉッ!!」
父は額を床に擦り付け、必死に命乞いを始めた。
「し、知らなかったのです! まさか閣下だとは! ど、どうかお慈悲を! 私たちはただ、娘を心配して……!」
「心配?」
今度は、騎士団長のレオンさんが冷ややかに割り込んだ。
「心配していた親が、娘を『損害賠償』の道具にし、魔法で消し炭にしようとするものですか? ……すべて見ていましたよ、ベルベット伯爵」
レオンさんが合図をすると、騎士たちが父たちを取り囲んだ。
「ジークフリート公爵夫妻への殺人未遂、ならびに王家直轄領での狼藉。……言い逃れができると思いますな」
「あ、あぁぁ……終わった……」
父は白目を剥いて崩れ落ちた。
母と姉は、恐怖のあまり失神していた。
ジークフリート様は、私の方を向き、改めて私の手を取った。
「リナリア。……驚かせて悪かった。俺は、元英雄で、公爵だ。……だが」
彼は私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「お前の前では、ただの普通の男でいたい。……これからも、俺の妻でいてくれるか?」
その言葉に、私は胸がいっぱいになった。
英雄だろうが、木こりだろうが、関係ない。
私を守り、私のご飯を愛してくれたのは、目の前のこの人だけだ。
「……はい! もちろんです、旦那様!」
私が答えると、部屋中――国王陛下と騎士たちから、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
こうして、実家の襲撃は(彼らにとっての)最悪の形で幕を閉じ、私たちの秘密は公のものとなった。




