第2話 辺境の屋敷と、怖そうな旦那様
王都を出発した乗合馬車を乗り継ぎ、最後は荷馬車の荷台に揺られること三日。
私はついに、目的の場所にたどり着いた。
「嬢ちゃん、ここでいいのか? 本当に?」
御者のおじさんが、心配そうに声をかけてくる。
私が地図を片手に降り立った場所は、深い森の奥にある、古びた屋敷の前だった。
「はい、地図によるとここです。ありがとうございました!」
私は笑顔で手を振り、走り去っていく荷馬車を見送った。
改めて、目の前の屋敷を見上げる。
石造りの外壁はツタに覆われ、庭は雑草が伸び放題。
屋根の一部は苔むしていて、どこからどう見ても「お化け屋敷」寸前の廃屋だ。
普通の貴族令嬢なら、悲鳴を上げて逃げ帰るかもしれない。
けれど、私は胸の前で小さく拳を握った。
(静かだわ……!)
なんて素晴らしい環境だろう。
怒鳴り散らすお父様も、意地悪な命令をしてくるお姉様たちもいない。
聞こえるのは鳥のさえずりと、風が木々を揺らす音だけ。
それに、この伸び放題の庭。手入れをすれば、きっと素敵な家庭菜園になるはずだ。
「よし、まずはご挨拶ね」
私はボストンバッグを握りしめ、錆びついた鉄柵の門をくぐった。
玄関の扉の前に立ち、深呼吸をしてからノックをする。
コン、コン。
返事はない。
留守だろうか? でも、煙突からはうっすらと煙が上がっている。
「失礼します。ギルドの紹介で参りました、リナリアと申します!」
もう一度、少し声を張り上げてノックをした。
すると。
ギギギ、と重苦しい音を立てて、扉がゆっくりと内側に開いた。
「……ギルド?」
現れたのは、巨大な影だった。
見上げるような長身。扉の枠に頭をぶつけそうなくらい背が高い。
ボサボサに伸びた黒髪の隙間から、鋭い猛獣のような金色の瞳が、じろりと私を見下ろしていた。
無精髭に覆われた口元。右の頬には、古傷のような跡が見える。
明らかにカタギではない雰囲気。
彼が、私の旦那様になる予定のジークフリート様だろうか。
「あの、ジークフリート様……でしょうか?」
私が恐る恐る尋ねると、彼は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「またか。……帰れ」
「えっ?」
「ギルドの連中には断ったはずだ。俺に嫁など必要ない。どうせ金目当てか、物好きな貴族の賭け事だろう。ここは若い娘が来るような場所じゃない」
声は低く、地を這うような威圧感があった。
彼は私を拒絶するように、扉を閉めようとする。
ここで閉め出されたら、私には帰る場所がない。
私はとっさに足を一歩踏み出し、扉の隙間に体をねじ込んだ。
「待ってください! 私、帰る家なんてないんです! ここにおいてもらえないと困ります!」
「なっ……危ないだろうが!」
ジークフリート様は慌てて扉を押さえた。
乱暴な言葉とは裏腹に、私を挟まないように配慮してくれたのがわかった。
やっぱり、ミレーヌさんの言った通り「気難しいけれど悪い人ではない」のかもしれない。
「頼みます、置いてください。私、家事なら何でもします。掃除も洗濯も、料理だって得意です!」
私がそう言うと、彼は呆れたようにため息をついた。
そして、自分の両手を私の前に突き出した。
「……見ろ」
「はい?」
「この手には、魔力がない。生活魔法一つ使えないんだぞ」
彼は自嘲気味に言った。
「貴族の男なら、指先一つで火を灯し、水を出し、風で掃除をする。だが俺は、呪いのせいで魔力が空っぽだ。薪割りも、水汲みも、全部この手でやらなきゃならない。泥臭くて、不便で、惨めな生活だ。……お前のような華奢な娘が耐えられるはずがない」
彼の言い分はもっともだった。
この国の貴族にとって、肉体労働は下賤なものとされている。
魔力がない夫なんて、恥以外の何物でもないだろう。
でも。
私は彼の手をじっと見つめた。
大きくて、ごつごつとした手。
指先はささくれ、皮が厚くなっている。
それは、誰かに頼ることなく、自分一人の力で生きてきた証だ。
「……素敵な手ですね」
「は?」
ジークフリート様が、間の抜けた声を上げた。
「これのどこがだ。傷だらけで、泥まみれだぞ」
「ええ。だからです。誰にも頼らず、ご自分の力で生活を守ってこられたんですね。働き者の、立派な手だと思います」
私は躊躇なく、彼の大きな手を両手で包み込んだ。
ひんやりとしていて、硬い。
実家で見た、ぶよぶよと太ったカエル男爵の手とは大違いだ。私はこの手を、とても好ましく思った。
「それに、魔力がないなら、私が補います」
「……お前、魔力があるのか?」
彼は驚いたように私を見た。
私は正直に答える。
「はい。といっても、『普通』以下ですけれど。お湯を沸かしたり、種火をつけたりするくらいならできます」
私は人差し指を立てて、小さな灯火をポッと灯してみせた。
ゆらゆらと頼りない、蝋燭一本分くらいの火だ。
姉たちなら「何それ、マッチ棒?」と笑うだろう。
けれど、ジークフリート様は金色の目を大きく見開いて、その小さな火を凝視していた。
まるで、尊い宝石でも見ているかのように。
「……十分だ。俺には、それさえもできない」
「なら、ちょうどいいですね。力仕事はジークフリート様にお願いします。その代わり、魔法が必要な細かいことは私がやります。これなら、二人で一人前です」
私がにっこりと笑うと、彼は言葉を失ったように口を半開きにした。
赤い顔をして、そっぽを向く。
耳の先まで赤くなっているのが、黒髪の間から見えていた。
「……勝手にしろ」
長い沈黙の後、彼はぶっきらぼうにそう言った。
「だが、俺は客としてもてなすつもりはないぞ。粗末な食事しかないし、部屋だって埃だらけだ」
「望むところです! 私、掃除とお料理には自信があるんです」
「……変な女だ」
彼はそう呟きながらも、扉を大きく開けてくれた。
そして、私の手から重たいボストンバッグをひょいと取り上げる。
「貸せ」
「あ、ありがとうございます」
先を行く大きな背中を見上げながら、私は屋敷の中へと足を踏み入れた。
薄暗い廊下は確かに埃っぽかったけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
こうして、私の普通を目指す新婚生活が始まったのだ。
――この時の私は、まだ気付いていなかった。
私の灯した小さな火を見た彼が、その温かさにどれほど救われた気持ちになっていたのかを。




