第18話 旦那様の静かなる激怒
「――紅蓮の炎よ、我が敵を焼き尽くせ! ファイア・ボール』!」
姉のエレノアが叫び、杖の先から赤い光が溢れ出した。
それは火の玉となり、真っ直ぐにジークフリート様へと放たれる。
「旦那様、逃げて!!」
私が悲鳴を上げた、その時だった。
「……うるさい」
ジークフリート様が、鬱陶しそうに左手を払った。
ただ、それだけ。
虫を追い払うような、無造作な動作。
ヒュンッ。
迫っていた火の玉は、彼の手に触れることすらなく、空中で霧散した。
まるで、最初から幻だったかのように。
「……は?」
エレノアが間の抜けた声を上げた。
杖を構えたまま、ポカンと口を開けている。
「な、何よ今のは……。私の魔法が、消えた? どうして? あんた、魔力がないんじゃ……」
「……この程度、魔法とも呼べん」
ジークフリート様は冷ややかに言い捨てた。
本当は、彼から溢れる膨大な魔力が障壁となって弾いただけなのだが、魔力感知の鈍い姉たちには「なぜか消えた」ようにしか見えていないようだ。
ジークフリート様は、ゆっくりと、しかし確実に彼らへと歩み寄った。
一歩、足を踏み出すたびに。
ドクン、と屋敷全体の空気が重くなる。
「ひっ……!」
父が後ずさりし、腰を抜かしてソファへ倒れ込んだ。
母は扇子を取り落とし、ガタガタと震え出した。
それは、生物としての本能的な恐怖だった。
目の前にいるのは、ただの木こりでも、貧乏貴族でもない。
かつて数万の魔物軍を単身で屠り、歩く厄災と恐れられた英雄の殺気。
それが今、一点に集中して放たれているのだ。
「あ、あ、足が……動かない……」
エレノアが涙目になって呻いた。
物理的なプレッシャーに押され、彼らは呼吸すら忘れて硬直していた。
ジークフリート様は、父の目の前で足を止めた。
そして、見下ろすように冷たく告げた。
「おい。さっき言ったな。『リナリアの居場所は台所と洗濯場だ』と」
「あ、あぁ……そ、そうだ! それがどうした!」
父は震えながらも、必死に虚勢を張った。
「その娘は無能だ! 魔力もない、社交もできない! 家事くらいしか能がない廃棄物だぞ! それを引き取ってやろうという親心が分からんのか!」
「無能、か」
ジークフリート様は、ふっと自嘲気味に笑った。
そして、私のほうを振り返り、手招きした。
「リナリア、手を出せ」
「え? は、はい」
私が恐る恐る右手を差し出すと、彼はその手を優しく包み込み、父たちの目の前に掲げた。
「よく見ろ。この手を」
彼の声は、静かだが、心の奥底に響くような重みがあった。
「あかぎれだらけで、マメがあって、爪も短く切り揃えられている。……貴族の令嬢の手ではないな」
私は恥ずかしくて引っ込めようとしたけれど、彼は離さなかった。
「だが、この手は魔法だ」
「は?」
父が呆気にとられた顔をする。
「お前たちが『無能』と呼んでこき使っていたこの手が、毎日冷たい水を汲み、床を磨き、美味い飯を作っている。……お前たちは知らんのだろうな。この手がどれほど温かく、どれほど人を救う力を持っているか」
ジークフリート様は、私の手の甲に、敬愛を込めるように額を寄せた。
「俺は、この手に救われた。……凍えていた俺の心も、体も、この小さな手が温めてくれたんだ」
「だ、旦那様……」
視界が滲んだ。
私のしてきたことは、無駄じゃなかった。
「役立たず」と言われてきた日々が、この人の言葉一つで報われていく。
ジークフリート様は顔を上げ、再び父たちを睨みつけた。
その瞳には、もはや慈悲の色など欠片もなかった。
「お前たちには過ぎた宝だったということだ。……二度と、俺の妻を『無能』などと呼ぶな。その汚い口でリナリアの名を呼ぶことすら許さん」
ゴゴゴゴ……と、屋敷全体が彼の怒りに共鳴するように軋み始める。
「さっさと失せろ。俺の視界から消えなければ……次は威圧だけでは済まさんぞ」
最後通告。
父と母は、完全に戦意を喪失していた。
顔面蒼白になり、這うようにして玄関へと逃げ出そうとする。
「ひぃぃッ! お、覚えてろよ! 衛兵を呼んでやる!」
「こ、こんな呪われた屋敷、二度と来るものですか!」
捨て台詞を吐きながら、惨めに逃げ惑う両親。
これで終わりだ。
私はホッと息を吐こうとした。
だが。
「……ふざけないでよ」
その場に一人、踏みとどまっている人物がいた。
姉のエレノアだ。
彼女は恐怖で震えながらも、それ以上の屈辱と嫉妬で顔を歪めていた。
「なによ……なによ、それ!」
エレノアは私を指差し、金切り声を上げた。
「なんでリナリアなのよ! あんたみたいな地味で無能な女が、なんでそんなに愛されてるの!? 私は王都で一番の美女なのに! 誰も私をそんな風に守ってなんてくれないのに!」
それは、ただの嫉妬だった。
自分より下だと思っていた妹が、自分より愛されている現実が許せない。プライドの高い彼女にとって、それは死ぬより耐え難いことだったのだ。
「許さない……絶対に認めない!」
エレノアは狂ったように叫ぶと、再び杖を振り上げた。
今度は、手加減なしの全力の魔力を込めて。
「消えちゃえ! リナリアァァッ!!」
杖の先から、さっきとは比較にならないほど巨大な炎の渦が生まれた。
それはジークフリート様ではなく、明確に私を殺すために放たれた。
「――ッ!!」
ジークフリート様が、瞬時に反応して私の前に飛び出す。
けれど、距離が近すぎる。
彼が防げば、彼自身が火傷を負ってしまう――!
(嫌だ、旦那様を傷つけないで!)
私は無意識に、彼を押し退けるようにして前に出た。
そして、炎に向かって両手を広げた。
「やめてぇぇぇッ!!」
私の悲痛な叫びと共に。
体の中から、熱い何かが爆発するように溢れ出した。
――次の瞬間。
誰も予想していなかった奇跡が起きる。




