第17話 理不尽な要求
ジークフリート様から放たれた冷徹な殺気。
それに気圧されたのか、父は一瞬だけたじろいだが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「な、なんだその目は! 貴族に向かって生意気だぞ、この野蛮人が!」
父は、自分がどれほど危険な猛獣の尾を踏んでいるのか、全く理解していなかった。
ジークフリート様は一歩も引かず、ただ静かに、私を背に庇い続けている。
「……書類上の無効申請など、どうでもいい」
ジークフリート様は、父の手にある書類をゴミのように見下ろした。
「リナリアは俺を選び、俺もリナリアを選んだ。神と、互いの心に誓った契約だ。紙切れ一枚で覆せると思うな」
「だ、黙れ! 平民風情が法を語るな!」
父は唾を飛ばして喚いた。
そして、苛立ちをぶつけるように、テーブルの上にあったハチミツの瓶――私たちが初めてのデートで買った大切な思い出の品――を払い落とした。
ガシャンッ!
瓶が砕け、琥珀色の液体が床に広がる。
私の心臓が、早鐘を打った。
「あ……」
「ふん、汚らしい」
父は靴底でハチミツを踏みにじった。
「いいか、リナリア。これは命令だ。お前が家を出てから、屋敷の中はめちゃくちゃだ。掃除も洗濯も滞り、私は昨日から同じ下着を履いているんだぞ! 恥を知れ!」
「……え?」
私は耳を疑った。
父は今、なんと言ったのだろう。
私がいないと寂しいとか、心配だとか、そういう言葉じゃない。
「不便だから戻れ」と言っているのだ。
「お母様もよ!」
母が扇子でテーブルを叩いた。
「お茶を淹れる者がいないから、喉が渇いて仕方ないわ。それに、私の肩を揉む係もいないじゃない。あなたがいないせいで、私の美貌が損なわれたらどう責任を取るつもり?」
「私だって!」
姉のエレノアも金切り声を上げた。
「明日の夜会に着ていくドレスのアイロンがけ、誰がやるのよ! 新しい使用人は『給料が安い』ってすぐに辞めるし、あなたが戻ってきてタダで働きなさいよ!」
……あぁ。
そうか。
私の心の中にあった、最後のかさぶたのようなものが、ぽろりと剥がれ落ちた音がした。
この人たちは、私を娘や妹として見ていない。
ただの便利な道具。
壊れるまで使い潰して、壊れたら売ればいいと思っている所有物。
それが、私の家族の正体だった。
「条件を出してやる」
父がニヤリと笑い、ジークフリート様を指差した。
「お前が大人しく実家に戻り、ガマ男爵への輿入れを承諾するなら、この男への『誘拐罪』での告発は見逃してやろう」
「ゆ、誘拐……?」
「そうだ。未成年の娘をたぶらかし、連れ去った罪だ。衛兵に突き出せば、この男は投獄されるぞ。……だが、お前が賢い選択をするなら、慈悲を与えてやってもいい」
父は勝ち誇った顔で、私に手を差し伸べた。
「さあ、来いリナリア。お前の居場所は、あの屋敷の台所と洗濯場だ。それがお前に似合いの『幸せ』なんだよ」
父の手。
かつては、この手で叩かれるのが怖くて、必死に従ってきた。
この手に掴まれたら、もう二度と逃げられないと思っていた。
でも。
私は、自分の右手をぎゅっと握りしめた。
「……嫌です」
私の口から、小さな、けれどはっきりとした言葉がこぼれた。
「あ? なんだと?」
「お断りします、と言ったんです!」
私は顔を上げた。
父の目を、真っ直ぐに見据える。
足は震えているけれど、心は不思議なくらい凪いでいた。
「私はもう、あなたたちの道具ではありません。私の居場所は、台所でも洗濯場でもない。……ジークフリート様の隣です!」
シン……と、部屋が静まり返った。
父も、母も、姉も、信じられないものを見るように口を開けている。
今まで一度も反抗したことのなかった私が、初めて牙を剥いたのだから。
「な、な、なんだとぉ……!?」
父の顔色が、朱色から土色へと変わっていく。
ワナワナと唇を震わせ、そして爆発した。
「このっ、恩知らずがぁぁッ!! 誰が育ててやったと思っているんだ! 親の言うことが聞けんのか!!」
父が激昂し、私に向かって手を振り上げた。
今までなら、私はここで目を閉じて、痛みに耐える準備をしていただろう。
でも、今は違う。
「……触るな」
私の目の前に、分厚い壁が現れた。
ジークフリート様だ。
彼は父の振り上げた腕を、今度は手首ではなく、二の腕ごとガシリと掴み上げた。
「ぎゃっ!?」
「俺の妻の言葉が聞こえなかったか? 『嫌だ』と言ったんだ」
ジークフリート様の瞳が、金色に輝いた。
その瞳孔は、獲物を狩る猛獣のように細く収縮している。
「これ以上、彼女に理不尽な要求を突きつけるなら……俺にも考えがある」
ミシミシ……と、父の腕の骨が悲鳴を上げる音がした。
「い、痛い! 離せ! 貴様、暴力で解決するつもりか! 野蛮人め!」
「暴力? まさか」
ジークフリート様は冷ややかに笑った。
「俺はただ、ゴミを排除しようとしているだけだ。……お前たちがリナリアにしてきたことに比べれば、これくらいは『挨拶』にもならんだろう?」
「ひぃっ……!」
父は完全に萎縮していた。
単なる腕力ではない。ジークフリート様から溢れ出る格の違いに、本能レベルで恐怖しているのだ。
しかし、ここで黙っていないのが、この一家の愚かさだった。
「お、お父様を離しなさいよ!」
姉のエレノアが叫んだ。
彼女は懐から、一本の杖を取り出した。
先端に赤い魔石がついた、攻撃魔法用の杖だ。
「野蛮な木こり風情が! 魔法で消し炭にしてやるわ!」
エレノアが杖を構え、詠唱を始める。
彼女は、この国でもそこそこの魔力を持つ魔術師だ。
至近距離で放たれれば、タダでは済まない。
「いけない! お姉様、やめて!!」
私が叫んで止めようとした、その時。
「……愚か者が」
ジークフリート様は、父の腕を放り投げると、私を背後に隠し、無防備なまま一歩前へ出た。
まるで、そよ風でも受けるかのように。




