第16話 招かれざる客の到着
静寂に包まれていた辺境の森に、場違いな馬のいななきと、車輪の軋む音が響き渡った。
屋敷の前に停まったのは、けばけばしい装飾が施された馬車だった。
泥跳ねで汚れているが、側面に描かれた紋章は間違いなくベルベット伯爵家のものだ。
「……リナリア」
ジークフリート様が、私を背に庇うように前に立った。
その背中は広く、頼もしい。
けれど、私の体は反射的に震えてしまった。
幼い頃から刷り込まれた恐怖心は、そう簡単に消えるものではない。
バンッ!
馬車の扉が乱暴に開かれた。
「おい! なんだこの汚い場所は!」
最初に降りてきたのは、小太りで赤ら顔の父――ベルベット伯爵だった。
彼は新品の革靴が泥で汚れたのを見て、あからさまに顔をしかめた。
「最悪ですわ! こんなド田舎、空気が臭くて息ができません!」
続いて降りてきたのは、派手なドレスを着た姉のエレノアだ。
ハンカチで鼻を押さえ、まるでゴミ捨て場を見るような目で屋敷を見上げている。
「まったく……。あの子、こんな貧相な廃屋に隠れていたのね。恥ずかしいったらありゃしない」
最後に、母も降りてきた。
三人とも、私の記憶にある通りの、傲慢で冷たい目をした家族たち。
「お父様、お母様……それに、お姉様……」
私の声を聞きつけ、父がギロリとこちらを睨んだ。
「やっと出てきおったか、この穀潰しが! 親をこんな所まで呼びつけるとは、どこまで不孝者なんだ!」
「あらリナリア。相変わらず貧相な格好ね。使用人かと思ったわ」
姉がクスクスと笑う。
私が着ているのは、ジークフリート様が街で買ってくれた、シンプルだけど着心地の良い麻のワンピースだ。
姉の着飾った絹のドレスに比べれば地味かもしれないけれど、私にとっては宝物なのに。
「……何の用だ」
低く、地を這うような声が響いた。
ジークフリート様だ。
彼は腕を組み、仁王立ちで家族たちを見下ろしている。
その威圧感に、父が一瞬怯んだように見えた。
「な、なんだ貴様は。……あぁ、リナリアが転がり込んだという貧乏貴族か」
父はジークフリート様をじろじろと品定めした。
ボサボサの髪、無精髭、そして使い古されたシャツ。
今の彼を見て、元・救国の英雄公爵だと気付く者はいないだろう。
父は鼻で笑い、蔑むように言った。
「フン。魔力も金もなさそうな、野蛮な男だな。リナリアにはお似合いのゴミ溜めだ」
「……何だと?」
ジークフリート様の眉がピクリと動いた。
私は慌てて彼の腕にしがみついた。
「だ、旦那様! 我慢してください……!」
ジークフリート様なら、指先一つで父を吹き飛ばせる。
でも、そんなことをしたら彼が化け物扱いされてしまうかもしれない。
私は彼を守りたかった。
「……ふん。まあいい」
父は尊大に胸を張った。
「立ち話もなんだ。中に入れろ。喉が渇いた」
「えっ? でも……」
「聞こえんのか! 客人を待たせるとは何事だ!」
父が怒鳴り声を上げ、強引に玄関へと歩き出した。
ジークフリート様が殺気を放とうとしたけれど、私は首を横に振って止めた。
ここで騒ぎを起こせば、彼らがもっと酷いことを言いふらすかもしれない。
一度話を聞いて、早く帰ってもらおう。
◇◇◇
彼らはドカドカと土足のまま屋敷に上がり込んだ。
私が毎日ピカピカに磨き上げた床に、泥の足跡がついていく。
胸が痛んだけれど、ぐっと堪えた。
「あら?」
姉のエレノアが、キョロキョロと周囲を見回した。
「外見はボロ屋敷だけど、中はやけに綺麗ね。空気も……なんだか気持ち悪いくらい澄んでいるわ」
「どうせリナリアに掃除させたのでしょう。あの子、掃除だけは取り柄だったから」
母がソファにふんぞり返りながら言った。
「おいリナリア、茶だ。上等な茶葉を使えよ」
父の命令に、私は条件反射で「はい」と言いそうになった。
けれど、ジークフリート様が私の肩を強く抱いた。
「……出す必要はない。こいつらは客じゃない」
「何だと!? 貴様、伯爵家当主に向かってその口の利き方は……!」
「いいのです、旦那様」
私はジークフリート様の手をそっと握った。
「早くお茶を出して、要件を聞いて、早く帰っていただきましょう。私、大事な茶葉は出したくありませんから、出がらしのお茶を淹れてきます」
「リナリア……」
私は台所へ向かい、一番安い茶葉で薄いお茶を淹れた。
本当なら、ジークフリート様には最高のおもてなしをしたいけれど、この人たちにはもったいない。
リビングに戻り、カップを置く。
「……なんだこの泥水のような茶は!」
父が一口飲んで、カップをテーブルに叩きつけた。
茶渋が飛び散り、テーブルクロスを汚す。
「こんな不味いものを客に出すとは! やはり教育が必要だな!」
父が手を振り上げた。
叩かれる――!
私は身を縮こまらせた。
ガシッ!!
鈍い音がして、父の手が空中で止まった。
ジークフリート様が、父の手首を掴んでいたのだ。
万力のような力で。
「い、痛っ……! 貴様、離せ!」
「……俺の家で、俺の妻に手を上げるな」
ジークフリート様の声は静かだった。
けれど、その瞳の奥には、煮えたぎるようなマグマごとき怒りが渦巻いている。
部屋の空気がビリビリと震え、窓ガラスがカタカタと鳴った。
「ひっ……!」
父は顔を青くして、ジークフリート様の手を振りほどいた。
そして、恐怖を誤魔化すように大声を張り上げた。
「よ、よくも伯爵に触れたな! 無礼討ちにしてやってもいいんだぞ!」
「お父様、やめてください!」
私は二人の間に割って入った。
「要件は何なんですか? お母様が危篤だという手紙をいただきましたけれど……とてもお元気そうじゃありませんか」
「ふん、あれは方便よ」
母は悪びれもせず、扇子を仰いだ。
「そうでも書かないと、あなたが戻ってこないと思ったからよ。感謝なさい」
「感謝……?」
「そうよ。あなたに素晴らしい縁談を持ってきてあげたの。ガマ男爵……いえ、ガマール男爵様をご存知でしょう? 資産家の」
知っている。
六十歳を過ぎて、これまでに五人の妻を迎え、その全員が「謎の衰弱死」や「逃亡」をしているという、悪名高い好色家だ。
「あの方は、若い娘がお好きなの。あなたのような地味な娘でも、若さだけはあるから貰ってくださるそうよ」
母はニタリと笑った。
「結納金は弾んでくださるわ。それで我が家の借金も返せるし、あなたも男爵夫人になれる。ウィンウィンじゃない?」
「お断りします」
私はきっぱりと言った。
「私はもう結婚しています。ジークフリート様という、大切な旦那様がいます」
「はぁ? 結婚?」
姉のエレノアが、ジークフリート様を指差してせせら笑った。
「こんな薄汚い男との、おままごとみたいな生活が結婚? 笑わせないでよ。こんな魔力もなさそうな男、ただの木こりか何かでしょう?」
「それに、リナリア」
父がニヤニヤしながら、懐から一枚の書類を取り出した。
「お前が勝手に出した婚姻届だがな……。私が『親権者の同意がない』として、無効申請を出しておいたぞ」
「えっ……?」
目の前が真っ暗になった。
無効? 私たちの結婚が?
「法的には、お前はまだ未婚だ。つまり、親である私の命令には逆らえないということだ」
父は勝ち誇った顔で宣言した。
「さあ、帰るぞリナリア。この男には、手切れ金として銅貨一枚くらい恵んでやる」
絶望が押し寄せる。
やっぱり、私は逃げられないのか。
この幸せな生活は、幻だったのか。
私が膝から崩れ落ちそうになった、その時。
「……ほう」
ジークフリート様が、短く笑った。
それは、これまで見たことのないような、冷酷で、そして美しい笑みだった。
「無効、か。……面白い」
彼は一歩前に出た。
その体から、目に見えないはずの圧力が津波のように溢れ出し、父たちを圧倒する。
「ならば、力ずくで認めさせるまでだ」
――英雄が、本気で怒った瞬間だった。




