第15話 普通って何でしょう?
嵐の夜を越え、私たちの絆はより一層深まった……ような気がする。
少なくとも、朝の挨拶をする時に、お互い顔を見合わせて少し照れてしまうくらいには。
「おはようございます、旦那様」
「……あぁ。おはよう」
食卓についても、昨晩の添い寝の記憶が蘇り、なんだかむず痒い。
ジークフリート様は、私の作ったオムレツを黙々と食べているけれど、耳が少し赤い。
(可愛いなぁ……)
強面で無口だけれど、中身はとても純情な旦那様。
私は幸せを噛み締めながら、自分の分のオムレツを口に運んだ。
今日のオムレツには、チーズとたっぷりのハーブが入っている。もちろん、無自覚の活力増強スパイス(魔力)付きだ。
◇◇◇
食後。ジークフリート様は「薪を割ってくる」と言って、裏庭へと出て行った。
私は後片付けをしながら、ふと窓の外を見た。
ジークフリート様が、薪の束の前に立っている。
斧を構え……ない?
(あれ? 斧、どこに置いたのかしら)
彼は手ぶらだった。
そして、太い丸太を見下ろし、何かをブツブツと呟いている。
次の瞬間。
スッ。
彼が人差し指を軽く振った。
ただ、それだけ。
パカァンッ!!
乾いた音が響き、丸太が見事に真っ二つに割れた。
斧も、ノコギリも使っていない。まるで、見えない刃が空気を切り裂いたかのように。
「えっ……?」
私は食器を洗う手を止めて、目を擦った。
見間違いだろうか?
旦那様は魔力がないはずだ。だから、魔法で木を切ることなんてできないはず。
(きっと、すごく素早く手刀を入れたんだわ。旦那様は力持ちだし、空手チョップの達人なのかも!)
私は「さすが旦那様!」と感心して、再び皿洗いに戻った。
――一方、庭にいるジークフリート様は、冷や汗をダラダラと流していた。
(……力が、戻りすぎている)
彼は震える自分の手を見つめた。
今のは、初歩的な「風の刃」の魔法だ。
薪を割る程度の出力に抑えたつもりだったが、危うく地面ごと切り裂くところだった。
リナリアの料理を食べ始めてから約一ヶ月。
体内の呪いは完全に消滅していた。それどころか、以前よりも魔力回路が太く、強靭になっている。
今の彼なら、単身で城を落とすことすら造作もないだろう。
だが。
(……言えない)
彼は屋敷の方を振り返った。
窓越しに、鼻歌を歌うリナリアの姿が見える。
彼女は言ったのだ。
『強い魔力を持つ方の傍にいると、萎縮してしまう』と。
『魔力なんてない方がいい』と。
もし、自分が「国最強の魔術師」に戻ったと知られたら?
彼女は怯えるかもしれない。「騙していたんですか」と軽蔑されるかもしれない。最悪の場合、出て行ってしまうかもしれない。
(絶対に、隠し通さねば)
ジークフリート様は固く誓った。
リナリアの前では、あくまで「魔力のない、ちょっと力持ちなだけの普通の夫」でいるのだ、と。
「……ふぅ」
彼は額の汗を拭い、今度は物理的に(手刀で)薪を割り始めた。
◇◇◇
昼下がり。
私がリビングでお裁縫をしていると、ジークフリート様が戻ってきた。
「リナリア。……少し、聞きたいことがあるんだが」
「はい、何でしょう?」
私は繕い物をしていた手を止めた。
旦那様のシャツの袖口がほつれていたので、直していたのだ。
「お前の言う『普通』というのは、具体的にどの程度のことを指すんだ?」
「『普通』ですか?」
唐突な質問に、私は首を傾げた。
「そうですねぇ……。例えば、お料理なら、食べた人が笑顔になること。お掃除なら、その場の空気が綺麗になること。お洗濯なら、シミ一つなく真っ白になること……でしょうか?」
私が答えると、彼は眉間に皺を寄せて考え込んだ。
「……空気が綺麗になるというのは、物理的な埃の話か? それとも、瘴気浄化レベルの話か?」
「瘴気? またご冗談を。ただの換気ですよ」
「……そうか。じゃあ、このシャツの修繕は?」
彼は私が手に持っていたシャツを指差した。
ついさっきまでボロボロだった袖口は、今は新品同様に元通りになっている。
縫い目が見えないくらい、完璧に。
「これは『修復』です。針と糸を使いましたけど、最後にちょっとだけ『あ、くっつけ』って念じたら、綺麗に馴染むんです。これくらい、普通ですよね?」
「……念じたら、くっつく」
彼は頭を抱えた。
物質修復。それは高位の錬金術師しか使えない高等技術だ。
それをお裁縫の仕上げ感覚で使う妻。
「リナリア。……お前の実家では、それが当たり前だったのか?」
「はい。お姉様たちは『ドレスの裾が破れたから直せ』って持ってきましたし、お父様は『ワインをこぼした絨毯をシミ一つなくせ』って。できなければ夕食抜きでしたから、必死に覚えたんです」
私が笑って話すと、ジークフリート様の表情が曇った。
怒りと、悲しみが混ざったような、複雑な顔。
「……そうか。辛かったな」
「えっ? いえ、今は役に立っていますし!」
「リナリア」
彼は私の手を取り、真剣な眼差しで見つめてきた。
「お前の『普通』は、世間では『奇跡』と呼ばれるものかもしれない。だが……俺にとっては、それが一番の救いだ」
「旦那様……?」
「だから、そのままでいてくれ。……ただ、人前ではあまり張り切りすぎないようにな」
「はい、わかりました。旦那様だけの秘密ですね!」
私がウインクすると、彼は嬉しそうに、でも少し切なそうに微笑んだ。
(旦那様、やっぱり私のこと『世間知らず』だって心配してくれているんだわ)
私は彼の優しさに胸を打たれた。
彼が隠している「本当の力」と、私が無自覚に振り撒いている「規格外の力」。
お互いに「相手のために」と思っている秘密が、奇妙な均衡を保っている。
――そんな穏やかな昼下がり。
遠くから、ガラガラという車輪の音が聞こえてきた。
「……来たか」
ジークフリート様が、ふっと表情を引き締めた。
ポチも立ち上がり、扉の方を向いて低く唸る。
「えっ? 誰か来たんですか?」
私が立ち上がろうとすると、ジークフリート様が制した。
「リナリア。俺の後ろにいろ」
彼の背中から、今まで感じたことのないような、圧倒的な威圧感が立ち上る。
それは普通の旦那様ではない。
国を守り、魔王を屠った英雄の背中だった。
「招かれざる客の到着だ」
屋敷の前に止まったのは、見覚えのある――見たくもなかった、ベルベット伯爵家の紋章が入った豪華な馬車だった。




