第14話 嵐の夜のハプニング
私は震える指先で、手紙を開いた。
中に入っていたのは、殴り書きのような筆跡の便箋が一枚。
『親愛なる娘、リナリアへ。
お前が家を出てから、母様が心労で倒れ、危篤状態だ。今すぐ戻らなければ、死に目にも会えないぞ。
また、お前が放棄した家事労働により、我が家は甚大な損害を被っている。これ以上の不義理を働くなら、お前の嫁ぎ先にも損害賠償を請求することになる。
だが、慈悲深い父として最後のチャンスをやろう。今すぐ戻り、ガマ男爵への輿入れを承諾するなら、全てを許してやる。
愛する父より』
「っ……」
読み進めるうちに、血の気が引いていくのが分かった。
お母様が危篤? 私のせいで?
それに、損害賠償だなんて。もしジークフリート様に迷惑がかかったら……。
「……嘘だ」
横から手紙を覗き込んでいたジークフリート様が、短く切り捨てた。
彼は私の手から便箋を取り上げると、くしゃりと握り潰した。
「え?」
「全部、出鱈目だ。レオンからの情報では、母親は元気に夜会へ出かけているし、父親も酒場で暴れているそうだ。……それに、『ガマ男爵』だと?」
ジークフリート様の声温度が氷点下まで下がった。
部屋の温度まで下がった気がする。
「あんな好色な古狸に、お前を売るつもりだったのか……」
「……はい。実家では、それが私の唯一の価値だと言われていましたから」
私が力なく笑うと、ジークフリート様は痛ましげな顔をして、強く私を抱きしめた。
「聞くな。そんな戯言、信じなくていい」
「でも、もし本当に旦那様に迷惑がかかったら……」
「かからない。……仮に請求書が来たとしても、俺が燃やす。軍隊が来ても、俺が追い返す」
彼の腕の力が強くなる。
「お前の価値を決めるのは、あいつらじゃない。……俺だ。俺にとって、お前は何よりも価値がある。金貨の山を積まれても渡せないくらいにな」
「旦那様……」
その言葉は、どんな魔法よりも温かく、私の凍りついた心を溶かしてくれた。
私は彼の胸に顔を埋め、小さく頷いた。
「……はい。私、どこにも行きません」
◇◇◇
その夜。
私たちの心を映したように、外は激しい嵐になった。
ゴロゴロ……ドガァァンッ!!
窓ガラスがビリビリと震えるほどの雷鳴。
私はベッドの中で、毛布を頭から被って震えていた。
(怖い……)
実家にいた頃、何か失敗をすると、罰として真っ暗な屋根裏部屋に閉じ込められた。
雷が鳴る夜は、特に怖かった。誰も助けに来てくれない。泣いても無駄だ。
そんな幼い頃の記憶がフラッシュバックして、呼吸が浅くなる。
ピカッ! バリバリバリッ!
「ひっ……!」
近くに落ちたのだろうか。
私は耳を塞ぎ、目をきつく閉じた。
その時。
コン、コン。
扉がノックされ、返事を待たずに開いた。
蝋燭の灯りを持った、ジークフリート様だった。
「リナリア。……起きているか?」
「あ……旦那様……」
私が毛布から顔を出すと、彼はホッとしたような、でも少し気まずそうな顔をした。
「すまない。雷が……うるさくてな。その、お前が怖がっていないかと思って」
「……怖いです。すごく」
正直に言うと、彼はベッドの端に腰掛けた。
蝋燭をサイドテーブルに置き、私の震える手の上に、自分の大きな手を重ねてくれる。
「大丈夫だ。俺がいる」
「はい……」
彼の手の温もりに、少しだけ震えが治まる。
でも、彼が部屋に戻ってしまったら、また一人ぼっちだ。
そう思うと、どうしても手を離したくなくて、私は彼の手をギュッと握り返してしまった。
「あ……ごめんなさい、私……」
慌てて離そうとすると、逆に彼の方から強く握り締められた。
「……リナリア」
彼は少し躊躇ってから、言った。
「もし嫌でなければ……朝まで、ここにいてもいいか?」
「え?」
「床で寝る。お前が眠れるまで、傍にいる」
彼は本気で床で寝ようとしていた。
さすがにそれは申し訳なさすぎる。それに……私も、彼の近くにいたい。
「床なんてダメです! 体が痛くなりますよ」
「だが、ベッドは一つしか……」
「……広いですから、半分こしましょう?」
私は勇気を出して、自分の隣――空いているスペースをポンと叩いた。
ジークフリート様は一瞬固まり、それから耳まで真っ赤にして狼狽えた。
「い、いいのか? 俺は男だぞ? 襲わない保証なんて……いや、襲わないが……!」
「ふふ、信用していますよ。旦那様は紳士ですから」
私が微笑むと、彼は観念したようにため息をつき、「……失礼する」と慎重にベッドに入ってきた。
ぎしっ。
マットレスが沈み込み、隣に圧倒的な存在感が生まれる。
背中合わせになるように横たわったけれど、彼の体温が背中越しに伝わってきて、ドキドキして眠れそうにない。
ドガァァンッ!!
また雷が鳴った。
私はビクッと体を縮こまらせた。
すると。
背中越しに、太く逞しい腕が回され、私を背後から包み込んだ。
「ひゃっ……」
「……じっとしてろ。耳を塞いでやる」
彼の大きな手が、私の耳を優しく覆った。
背中に彼の広い胸板が密着する。
トクン、トクン、と彼の心臓の音が、私の背骨に響いてくるようだった。
「これなら、聞こえないだろう」
耳元で囁かれる低音ボイス。
雷の音なんて、もう聞こえなかった。
聞こえるのは、自分の激しい鼓動と、彼の優しい声だけ。
「……はい。全然、聞こえません」
「そうか。……おやすみ、リナリア」
「おやすみなさい、ジークフリート様」
彼の腕の中は、世界で一番安全で、温かい場所だった。
あんなに怖かった雷雨が、今は遠い世界の出来事のように感じる。
安心感に包まれて、私はいつの間にか深い眠りへと落ちていった。
――翌朝。
目を覚ますと、私たちは向かい合う形で、しっかりと抱き合って寝ていた。
あまりの恥ずかしさに二人して顔を真っ赤にして飛び起きたのは、言うまでもない。
嵐は去った。
けれど、本当の嵐――実家との直接対決は、刻一刻と近づいていた。




