第12話 実家の噂と、不穏な手紙
ところ変わって、王都。
華やかな貴族街の一角にある、ベルベット伯爵邸。
かつては手入れされた庭と、磨き上げられた窓ガラスが自慢だったその屋敷は、今や見る影もなく荒れ果てていた。
「おい! 夕食はまだか!?」
ダイニングルームに、当主であるベルベット伯爵の怒鳴り声が響き渡った。
テーブルには、冷え切ったスープと、黒焦げになったパン、そして生焼けの魚が並べられている。
「あなた、怒鳴らないでくださいまし。料理長が辞めてしまったのですから、仕方ないじゃありませんか」
伯爵夫人がヒステリックに叫び返した。
彼女のドレスは皺だらけで、自慢の巻き髪もボサボサだ。
かつては社交界の華を気取っていたが、今はその面影もない。
「お母様ぁ、私のドレス、まだ洗濯が終わっていないの? これじゃあ明日の夜会に着ていけないじゃない!」
バンッ! と扉を開けて入ってきたのは、長女のエレノアだ。
派手な美貌を持っているが、今は眉間に深い皺を刻んでいる。
「お風呂のお湯もぬるいわよ! どうなってるの、この家は!」
「うるさいわね! 使用人たちが次々と逃げ出すんだから、手が回らないのよ!」
そう。
リナリアが家を出て行ってから半月。
ベルベット伯爵家は、緩やかな、しかし確実な「崩壊」の一途を辿っていた。
今まで、この屋敷の家事の九割はリナリアがこなしていた。
早朝からの水汲み、朝食作り、全室の掃除、洗濯、庭の手入れ、そして夕食の準備まで。
彼女は文句一つ言わず、無自覚に込めた生活魔法で効率よく、完璧に仕上げていたのだ。
リナリアがいなくなれば、当然、そのしわ寄せは残された者たちに来る。
安月給でこき使われていた他の使用人たちは、リナリアという防波堤を失った途端、過酷な労働環境に耐えかねて一斉に辞表を叩きつけた。
結果、残されたのは、生活能力皆無の伯爵一家だけ。
「くそっ、あいつ……!」
伯爵はワイングラスを床に叩きつけた。
「あいつがいなくなってから、何もかもがうまくいかん! それに、ガマ男爵への借金の返済期限も迫っているんだぞ!」
そう、彼らがリナリアを探している最大の理由は、金だった。
事業に失敗し、多額の借金を抱えたベルベット家は、リナリアを好色で知られるガマ男爵の後妻として売り飛ばし、その結納金で借金を帳消しにする計画を立てていたのだ。
「お父様、リナリアの居場所はわかったのですか?」
エレノアが爪を噛みながら尋ねた。
「興信所からの報告で、ようやく判明した。『王立婚姻斡旋ギルド』を通して、辺境の田舎貴族に嫁いだらしい」
「はぁ? 田舎貴族ぅ?」
エレノアは鼻で笑った。
「あの子らしいわね。どうせ、魔力のない貧乏人のところにでも転がり込んだんでしょうよ。お似合いだわ」
「笑い事ではないぞ。契約結婚とはいえ、正式に書類が受理されている。連れ戻すには骨が折れる」
伯爵は忌々しげに書類――リナリアの居場所が記された紙――を睨みつけた。
「だが、ガマ男爵は『リナリア嬢でないと金は出さん』と仰っている。何としても連れ戻さねばならん」
「だったら、手紙を書きましょうよ」
夫人が意地悪な笑みを浮かべた。
「『お母様が重病で、今すぐ戻らないと死に目にも会えない』とでも書いておけば、あの子のことだもの、泣いて戻ってくるに決まっていますわ」
「ふん、なるほどな。情に訴えかけるか」
「ついでに、『家の手伝いが滞っている分の損害賠償を請求する』と脅しておけば完璧よ。あの子、気弱だから」
彼らは微塵も疑っていなかった。
リナリアがまだ、自分たちの言うことに従う都合の良い人形であることを。
そして、彼女が嫁いだ先が、この国の英雄であるジークフリート公爵であることなど、夢にも思っていなかった。
「よし、すぐに手紙を書くぞ。……おい、ペンとインクはどこだ?」
「知りませんわよ、リナリアが管理していたんですから!」
「ええい、役立たずどもめ!」
怒号と責任の押し付け合いが響く中、一通の不穏な手紙がしたためられた。
宛先は、辺境の地。
差出人は、愛情のかけらもない家族。
幸せな新婚生活を送るリナリアのもとへ、黒い影が確実に忍び寄っていた。
◇◇◇
一方、辺境の屋敷。
私は、なんだか背筋がゾクリと寒くなるのを感じていた。
「……? 風邪かしら」
洗濯物を取り込みながら、首を傾げる。
「どうした、リナリア」
庭でポチと戯れていたジークフリート様が、心配そうにこちらを見た。
「いえ、なんでもありません。……ただ、ちょっと嫌な予感がして」
「予感?」
「はい。実家の父が怒鳴っている時のような……そんな嫌な気配が」
私が苦笑すると、ジークフリート様の目がすぅっと細められた。
金色の瞳に、鋭い光が宿る。
「……安心しろ。何が来ようと、俺が追い払う」
「ふふ、頼もしいですね。ポチも守ってくれる?」
「ワフッ!」
ポチが元気よく吠えた。
旦那様と、ポチがいる。
それだけで、私の不安はすぐに消え去った。
まさか、本当に実家からの使者がすぐそこまで来ているなんて、思いもしなかったから。




