嵐のような人
「おはようございます、殿下。昨夜はお休みになれましたでしょうか?」
「おはよう、香華。少しだけれど、ちゃんと眠れたよ。君のおかげだ」
「それはよかったです」
とはいえ少しだけか、と香華は下唇を摘む。
触ってみて思ったけれど、想像以上に白龍の体は凝っている。
あれほど指が入らないとなると、なんどか繰り返していくしかないだろう。
ゆえに、と香華は白龍を見る。
「もしよろしければ、夜に眠れるための準備をさせていただきたいのです」
「準備……? まあ、僕にできることならもちろんやるよ」
「では朝餉の前に散歩いたしましょう」
「………………散歩?」
こくり、と頷いてみせる。
「朝一で朝日を浴び、かつ動くことによって体が目覚めます。すると夜に眠りにつきやすくなるのです。――事実、殿下は書類仕事ばかりで体を動かしておりません。肉体を疲れさせるというのも、睡眠に導くための一つの手です」
「体を疲れさせる……ね。なるほど」
納得してくれたようだ。
白龍は立ち上がると女官に命じ、外に出るための準備を始める。
「三十分ほどを目安にしてみてください。それでは私はこれで――」
「どこに行くんだい? 一緒に行こう」
「――え? ですが……」
「ちゃんと散歩してるか見ておかないと。ほら、おいで」
差し出された手を見つめること数秒。
これは……手を握れということだろうか?
いやいやそんなまさか。
相手は皇太子だ。
そんなはずがないとためらっていると、白龍が少々強引に香華の手をとり歩き出した。
向かうのは宮廷にある庭だ。
幻煌国の宮廷には四つの庭がある。
春夏秋冬、季節によって咲く花を分けており、今日は春の庭に向かった。
淡い色の花々が出迎えてくれる庭へと、香華は白龍に連れられて足を踏み入れた。
「――すごいですね。……美しいです」
「気に入ったかい? なら少し見て回ろう」
見て回るのはいいが、できれば手を離して欲しい。
後ろからついてくる警護の人たちの視線が痛いのだ。
素直に恥ずかしいし……とどのタイミングで手を離すか考えていた時、不意に声がかけられた。
「おや、めずらしい。あなたがこんな時間に外に出るなんて……今日は雨かな?」
「……凰輝」
白龍が嫌そうな顔をしたその男性は、軽快な足取りで近づいてくる。
柘榴のように赤い髪と、金に光る瞳を持つ筋肉質な男性だ。
見知らぬ人が近寄ってきたことに、香華がちらりと護衛を確認するが、彼らが動く様子はない。
つまり凰輝と呼ばれた男性は、白龍に危害を加えることはないと信頼されているのだ。
それならばいいかと肩から力を抜けば、それに気づいたらしい白龍が困ったように笑う。
「これは大丈夫だよ。僕の……古くからの友人だ」
「――びっくりしたぁ……。女の子連れてるし、この時間に外出てることもだし……。天変地異の前触れ?」
「失礼だな。僕だって外くらい出る」
「知ってるけどここ最近は引きこもってたでしょ? 仕事忙しそうでしたし」
気やすい口調。
それは白龍もだ。
体に力が入っていないのがわかる。
「――!」
ハッとした香華は、慌てて白龍から手を離した。
こんなところを彼の友人に見られては、変な誤解をされてしまうかもしれない。
だからこそバレぬ間にと引き抜いたのだが、もちろんそれは凰輝にしっかりと見られていた。
「おんやぁ。もしかしてやっと春がきた感じですか?」
「春ならきてる」
「わかってて言ってるでしょう?」
にやりと笑った凰輝は、しかし白龍の返事にすぐにむすっと表情を変える。
ころころと顔が変わるわかりやすい人だなと、香華は凰輝を観察した。
「女のおの字もなかった人が女の子と手を繋いで庭園お散歩なんて……。俺からしたらとーっても気になるんですけど?」
「……はいはい。わかったよ」
白龍は呆れたように大きくため息をついた後、香華を手で示した。
「彼女は香華。僕の……主治医みたいなものだ」
「主治医? ――え!? 女の子なのにお医者さんなの!?」
「違うけど近いかもね。香華、よければ見せてあげてくれるかい?」
話の流れ的に、香華の能力を見せろと言っているのだろう。
それくらいならお安いご用だと、香蝶を羽ばたかせた。
「――蝶? ……お、いい匂い」
「この香りのおかげで、眠れる時間が増えたんだよ。彼女に言われて朝も散歩をしようと思ってね」
「香り? 香り……そういえばどこかでそんな話を聞いた気が……」
白龍の説明を聞いた凰輝は己の顎に手を当て数秒後、ぽんっと手を叩いた。
「あ! 君もしかして、後宮の調香師? めちゃくちゃ腕のいい調香師がいるって話題になってたんだよねー!」
なるほど納得だと頷く凰輝に、香華は手のひらを彼に向け首を振った。
「調香師? いいえ、アロマテラピストです」
「……あろ? ぴ?」
思わず否定してしまった。
こほんっと大きく咳払いをした香華は、慌てて手を下げる。
「失礼致しました。自我を出しすぎました……」
調香師と間違われることが多いため、思わず否定してしまった。
調香師とは香りを作り上げる人のことである。
その仕事は厳密にはアロマテラピストとは違う。
アロマテラピストは香油を使い、マッサージをすることがメインだからだ。
だが確かに、今香華がやっていることは調香師とあまり変わらない。
もっとマッサージを受けてくれる人が増えてくれたらいいのだが、残念ながら今の顧客は白龍だけだ。
「にしても、助言してくれる人がそばにいるならよかった。あまりにも不健康極まりないんですもん。俺が言っても聞いてくれないし」
「君みたいに動き回ってばかりじゃいられないんだよ」
「それが仕事ですから」
ぱちんっとウインクされた。
ずいぶん可愛らしい人だなと見ていると、あ、と凰輝が手を上げる。
「俺の自己紹介まだだった! 俺は凰輝。白龍様の幼なじみ兼護衛! 主治医ってことはこれからちょくちょく会うことになるかもな。よろしく!」
握手、と差し出された手に応じれば、ぶんぶんと上下に振られた。
「いやあ、優秀そうな子が白龍様についてくれてよかった! これからもこの不健康極まる男を健康体にしてやってね!」
「余計なお世話だよ……」
「心配してあげてるんですー! って、やべ! そろそろ行かないと。じゃ、香華ちゃん、またね!」
苦い顔をする白龍とポカンとする香華に手を振って、凰輝は一瞬にしてその場を後にした。
嵐のような人だ……と驚いていると、白龍は額を押さえる。
「すまない。馬鹿の相手をさせてしまったね」
「……いえ。愉快なかたでした」
「……いいやつではあるんだけど。――さ、散歩の続きをしようか」
そうだった。
本来の目的は体を動かすこと。
いくら日光を浴びているとはいえ、このままではただ立って世間話をしただけになる。
それでは夜眠るための準備にはなりえない。
「お供いたします。しっかり歩いて、体を疲れさせましょう」
「ありがとう。がんばってみるよ」




