そんなことあるわけない
予想通り叩かれた。
いや、ぶん殴られたと言った方がいいかもしれない。
『陛下に色目使ってるんじゃないわよ! このあざ顔の醜女が!』
左の頰を腫らし、床に倒れ込んだ香華に艶虎はそう言い放った。
苛立ちは収まらないらしい。
彼女は親指の爪を噛みながら、香華に向かって思いつく限りの罵詈雑言をぶつけた。
『お前なんてここを追い出されたらどこにも行き場なんてないんだから、私のために努力しなさいよ! それを陛下に気に入られようとするなんて……! 次はないからね!』
「次もなにも……。そもそも色目なんて使ってないのに」
真っ赤に腫れ上がった頰を撫でながら、香華は自分の部屋へと向かっていた。
こういう時は寝るに限る。
艶虎のそばにいようものなら、もっと機嫌を悪くさせてしまうからだ。
だからと部屋の扉を開ければ、中から勢いよくナニカが飛び出してきた。
「香華ー!」
「美琳 (メイリン)! 急に抱きついてこないでよ!」
香華に抱きついてきたのは美琳。
小さくてちょこまか動く、まるで小狐のような女の子だ。
目は吊り目で、髪は薄茶色。
そんな美琳は香華の顔を見ると、途端に顔を歪めた。
「ちょっと! 顔が腫れてる! また艶虎様に殴られたの!?」
「陛下にね。顔がいいって褒められたから……」
「香華が美人だなんてわかりきってることなのに! あの性悪女ー!」
「聞こえたらことよ。ほら、部屋に入りましょう」
艶虎の姉妹ということで、小さいけれど一部屋与えてもらうことができた。
そこで仲良くなった美琳と共に暮らしており、さっさと部屋に入ると扉を閉める。
「香華にはもっといい人がいるわ! 陛下よりも優しくて香華だけを見てくれるような……。もっと若くて美男子の!」
「結婚するつもりないから関係ないわ」
「皇太子殿下とかどう? 美男子って聞くわよ」
「……人の話聞いてる?」
「どうせなら若くてかっこいいほうがいいわよね!」
グッと力こぶをつくる美琳はきっと香華の話を聞いていないだろう。
はあ、と大きめなため息をつきつつ、くる途中で水につけてきた手拭いを頰に当てた。
気休めでも冷やせば少しは腫れが引くかもしれない。
そう思って頰に当てていると、美琳が慌てて変わってくれた。
「あたしがやるわ! 香華には助けてもらった恩があるんだから!」
「まだ言ってるの? もうじゅうぶんなのに」
「だぁめ。あなたは命の恩人なんだから!」
頰に優しく布が触れる。
艶虎の爪に引っ掻かれてもいたのか、水が染みた。
「艶虎様のお気に入りの茶器を割ったって難癖つけられて。危うく杖刑にされるところだったんだから」
杖刑。
文字通り杖で叩かれることだ。
それだけ聞くとなんてことないように思うかもしれないが、実際は死人が出ることもある。
もちろん執行人は死なないようにやらないと罰せられるわけだが、残念ながら死人は出ている。
この時代、しっかりとした消毒なんて女官ができるはずもない。
傷口が膿んで壊死したり、その菌が脳に回って亡くなったり。
そもそもあまりの痛みにそのまま亡くなる人もいる。
そんなことを平気でやってのけるのだ。
「それを香華が艶虎様に言ってくれて。あたしの代わりに叩かれちゃって、本当に申し訳なくて悔しくて……」
「まあ三十回くらいなら耐えられるわよ」
「あれから香華はあたしの恩人なのですよ」
「……友だちよ。あなたは大切な」
「友でもあり、恩人でもある! なんて最高な二人!」
なにやら嬉しそうな美琳に思わず笑ってしまう。
元気いっぱいの彼女には、いつだって笑顔を分けてもらっている。
この部屋で美琳と語らう。
それがこの後宮で唯一の心安らぐ時間である。
「――って! 話の続き! 皇太子殿下のことだけど」
「まだ続けるの?」
「当たり前じゃない! こんな楽しい話は他にないんだから」
美琳は小さな椅子に腰を下ろすと、隣をトントンと叩いた。
どうやら座れと言いたいようだ。
素直に隣へと腰を据えると、美琳は足をパタパタ動かしながら話し始めた。
「鋼鉄の皇太子って呼ばれてるの。知ってた?」
「ずっと気になってたんだけど鋼鉄ってなに? ……体鋼かなにかでできてるの? ロボット?」
「ロボ……? よくわからないけど、性欲がないって言われてるのよ。どんな美人でも寝室に入ろうものなら放り出されるんですって」
「ああ、不能なのね」
なんと不名誉なことだろうか。
見たこともない皇太子を哀れに思ってしまった。
不能であることを世間に知られるなんて、プライバシーもへったくれもない世界だ。
まあ皇太子ならば子孫の心配をされるのもおかしくはないが。
「だから十七になっても妃一人いないんですって!」
「……なら別の皇太子を立てればいいんじゃない? 皇子はたくさんいるんでしょう?」
「皇后陛下が許さないのよ。まあまだ若いし、なにより優秀らしいよ? だから許されてるみたい。皇帝もお盛んだし」
「ああ……」
皇帝があの様子なら、血筋が途絶えることはほぼないだろう。
それならば皇太子が急ぎ子を成す必要もない。
そんな考え方なのだろう。
「しかし不能か……」
不能に効くアロマがある。
それこそ皇帝が好む香りがそうだ。
花の中の花という意味を持つ、甘い香りを持つイランイラン。
インドでは新婚のベッドにその花びらを巻くという。
性的興奮を促す香りを、皇太子にプレゼントできたら憂いも解決するのだろうが……。
「まあ関係ないわね」
「なにが?」
「なんでもないわ。……よそは大変だなって思っただけ」
「本当にねー! あたしたちは明日のご飯のほうが心配よ」
確かにその通りだ。
雲の上のことなんて、下々の者には関係ない。
「さ、寝ましょ。明日も早いわ」
「そうね! さかさか寝ましょう! 美味しいご飯の夢見れないかなー?」
そう、関係ない。
皇子も皇帝も妃も全て。
あざ顔の醜女には関係のないこと。
――関係ないと、思っていたのに……。
突如呼び出された部屋には、この世のものとは思えない美しい男が一人いた。
透き通るような肌。
銀色に光る美しい髪。
赤い瞳。
柔和な笑みは、しかし有無を言わさぬ圧力がある。
そんな笑顔を向けられて、香華は口端をひくつかせた。
「僕の体の不調を治してくれ。――できなければ……わかっているね?」
(どうしてこうなるの――!?)




