皇帝と皇后
「お前……今なんと……?」
「皇帝陛下。ご自身の立場をきちんとご理解ください」
皇后からの強い言葉に、皇帝は驚きのあまりしばし沈黙した。
しかしその間にも顔は真っ赤に染まり、握りしめた拳はブルブルと震えている。
怒号が飛ぶのは間違いなく、部屋にいた全てのものが身構えた。
「――お前如きが! この私を侮辱するのか!?」
「まさか。私は身の程を弁えております」
「そんなわけあるか! 私は皇帝だぞ!?」
「はい、陛下」
このやりとりで、勝負あったなと香華は確信した。
暖簾に腕押し、ではないが、皇后は顔色ひとつ変えていない。
それに比べて皇帝は顔を真っ赤にしている。
あのくしゃくしゃの表情を見ればわかるだろう。
どちらが優位に立っているかは。
「その私にそんな口を……! 貴様を今すぐ皇后の座から叩き落としてもいいのだぞ!?」
「そのようなこと、皇太子が許しません」
「私が言っているのだ! 皇帝であるこの私が!」
どうやら見誤っていたらしい。
いくら白龍の力で今の皇帝が即位できたとは言え、彼にも力があるはずだと。
だがそれは誤りだったようだ。
「皇帝としての責務をなに一つこなさず、自堕落に暮らすだけの者にどれほどのものが従いましょうか。……我が子ながら、あれの才能はただ龍を守護獣に持っただけではありません。人を導き従える力が、あの子にはあります」
「うるさいうるさいうるさいっ! 今すぐその首を刎ねてやる!」
「できますか? 龍の子を産んだこの私を――」
強い瞳。
まるであの時、香華の処刑を止めた時の白龍のようだ。
黄金に光ったあの目は、忘れることができない。
きっと真正面から皇后の目を見た皇帝も、今彼女に白龍を重ねているはずだ。
だから香華が見ても皇帝が怯んだのがわかった。
悔しそうに歯軋りをした皇帝は、皇后から視線を逸らす。
どうやら皇后の言う通り、彼女を打首になんてできないらしい。
それほどまでに強いのだ。
この国で守護獣というものは……。
「――っ! ……ん? お前は……」
皇后から視線を逸らした皇帝が、ちらりと視線を向けた先。
運悪くそこにいたのが香華だった。
皇帝は香華をその目に映すと、攻撃対象を変えたようだ。
「そこの娘! きさま、なぜここにいる!?」
「皇太子が私の体調を心配して寄越してくれたのです」
「体調だと? ……だがその娘は自身の主人のみならず、私にまで恥をかかせたのだぞ!?」
なるほど。
これほどの怒りよう、本当ならもっと早くに香華を罰したかったのだろう。
しかし白龍の元にいる時は手を出せなかったようだ。
それが今は皇后の元にいる。
それならばこれ幸いと、難癖をつけることにしたらしい。
本当に器が小さいなと、心の中で呆れていると、今度は皇后が力強く言い放った。
「陛下が真実を調べず、艶妃の言いなりになったせいではありませんか!」
「――あの者は主人を傷つけたのだぞ!?」
「香華は今、確かにここにいます。ですが手出しすることは許されません」
「お前にその権限はない!」
「香華。腕輪を陛下に見せなさい」
一体なんなのだろうか?
わけはわからないが、皇后からの命令だ。
従うより他にない。
香華は白龍から下賜された腕輪を、皇帝へと見せる。
「――それは……っ!」
「皇太子が、その娘にそれを直接渡したのです」
「皇太子が……? まさか……」
驚愕する皇帝に、皇后ははっきりと言い放った。
「そんな娘を害するなんて、ゆめゆめ思わぬようにしてください。……龍の怒りを受ければ、この国は半日もせず滅ぶでしょう」
皇后は立ち上がると、顎を引いた。
「まさか陛下。この国を滅ぼした皇帝として、名を残したいわけではございませんでしょう?」
「…………っ」
「どうぞ大人しくしていてください。そうしていれば、あと少しはその座にいられましょう」
言い返すことができないのか。
皇帝は怒りに体全体を震わせながら皇后を強く睨みつけた。
「――このままで済むと思うなよ! 必ずや痛い目に合わせてやる!」
皇帝はそれだけいうと、ドスドスと大きな足音を鳴らしながら出て行った。
なんという小物感だろうかと、香華が口をあんぐりさせていると、皇后が大きくため息をつく。
「まったく……。なぜああも子どもなのでしょう」
無表情を貫いていたとはいえ、怒りはあったのだろう。
皇后は淑威に支えられながら、ゆっくりと座り込んだ。
「陛下が今あるのは白龍のおかげ。それがわからぬほど愚かだとは……」
「皇后陛下。あの……」
かばってもらったのだから、礼を言うべきだ。
だからと口を開いた香華を、皇后が手で制した。
「あなたのせいではないのですから、礼や謝罪は不要です。……陛下がもう少し賢明であれば、いらぬ苦労もしなくて済むのでしょうね」
怒りを逃すためなのか、皇后は何度目かわからないため息をついた。
皇帝と白龍の間に立ち、気苦労が絶えないのだろう。
疲れ切った顔が白龍と重なり、香華は静かに目を伏せた。
できることなら癒してさしあげたい。
けれど今だ信頼を得ていない香華にはそれが難しい。
ならばと、香華は香蝶を顕現させた。
「皇后陛下。お好きな香りはどのようなものでしょうか?」
「好きな香り……? そうね……。爽やかなものがいいわ」
「ではマンダリンオレンジはいかがでしょうか?」
香蝶に香りをまとわせて飛ばせば、部屋の中はあっという間にマンダリンオレンジの香りで満たされる。
甘酸っぱい爽やかな香り。
その香りを嗅いだ皇后は、ホッと息をついた。
「美しくもいい香りの蝶ね。これがあなたの守護獣?」
「はい、陛下。脅威を持たぬ蝶ですので、ご安心ください」
「心配などしてないわ。……ああ、いい香り」
一応皇后の周りを飛ばすため、安全だと伝えたのだが気にしていないようだ。
その程度の信頼は得られたようで、少しだけうれしかった。
皇后はこわばっていた表情を緩めると、何度も深く深呼吸を繰り返す。
「……ありがとう、香華。あなたのおかげで落ち着いたわ」
「――もったいなきお言葉でございます」
深々と頭を下げた香華に、皇后は静かに微笑んだ。




