姉
「やぁっと帰ってきたのねぇ。……おかえり」
「……ただいま戻りました。――お姉様」
皇帝の妃の一人、秀 艶虎は香華の実の姉だ。
幻煌国の生きる宝石と呼ばれる美貌の持ち主は、皇帝の寵愛を得ている。
黒々とした長い髪と真っ白な肌。
豊満な肉体を持つ彼女に、皇帝も夢中らしい。
「全くどこに行っていたのやら……。他の女が有利になるようなことしてないでしょうね?」
「もちろんです」
「ならいいけれど……」
着飾った姿で出迎えた姉に、なるほどと納得した。
彼女が香華の行方を気にするなんて、普段なら絶対にあり得ない。
「今から陛下がお越しになるのよ」
艶虎の部屋は、いつだって豪華絢爛だ。
置かれている装飾品から酒器の一つに至るまで、全てが美しくまた高価だ。
そんな部屋の中でも特に目立つのは、中央に座っている艶虎である。
彼女は胸元が大きく開いた衣装をまとい、長い髪をかきあげた。
「――だから早く、その無能な力を使いなさい」
「……かしこまりました」
香華の存在理由など、それくらいだ。
姉が皇帝に気に入られ、その寵愛を独り占めし、子を成すための手伝い。
それをするために、ここにいるのだ。
「香蝶。――イランイランの香りを」
香華の周りから蝶が現れ、部屋の中を飛び回る。
鱗粉が蝋の光に当てられてキラキラと光り出せば、部屋の中にイランイランの香りが充満していく。
それに眉間を寄せたのは、命じたはずの艶虎であった。
「私この匂いきらいだわ。どうして陛下はこんな香りを好むのかしら?」
「イランイランは好き嫌いが別れやすいものではありますから。ですが緊張感をときほぐしてくれますし、なにより官能的な高揚感を与えてくれます。――ぴったりかと」
「そうなの? ……本当、人によって感じ方違うのねぇ」
艶虎は鼻をつまみながらも立ち上がると、女官たちに目配せした。
「ほら、陛下がお越しになるまであと少しよ。早く準備なさい」
「はい!」
女官たちが慌ただしく動き出し、あっという間に部屋の中が煌びやかになっていく。
小鉢のようなものに数多の食事が用意され、高い酒まで出される。
準備が終わったころに外から声をかけられ、中に皇帝が入ってきた。
女官たちは壁際で頭を下げて、皇帝に擦り寄る艶虎を眺める。
「陛下ぁ。寂しかったですわぁ」
「私もだ。昨日会ったばかりなのに、また会いたくなってしまった」
「嬉しいですわぁ」
現皇帝は現在三十二歳。
艶虎が十八歳であることを考えても、なかなかの年齢差だと思う。
だがこの時代ではこれが普通なのだ。
子が生きて成長することは、当たり前ではない。
大人になる前に亡くなってしまうことが多いのだ。
だからこそ、血筋を残さねばならないものは数を求める。
とはいえ現皇帝にはもう、皇子七人、皇女四人がいる。
さらに皇太子は今年十七歳。
体が弱い等は聞かないので、もうじゅうぶんな気もする。
というか十五で皇帝は子を成したのかと思うと、時代というものを恐ろしく感じた。
三十二歳でもういい歳だと言われるのだ。
恐ろしいものがある。
「それにしてもここはいつもいい香りがする。……とても落ち着く」
「陛下のためだけの香りですから」
「……妹だったか? 顔を見たい」
「ええ。……かまいませんわ。――香華」
「ここに」
一歩前に出て顔を上げる。
途端に艶虎の顔がニヤリと笑う。
皇帝の目がほかの女に行くことを嫌う艶虎は、自分の女官であっても容赦はしない。
普段なら自分以外の女に興味を示すのか、と拗ねて見せるものだが今回は違う。
なぜなら相手は香華。
あざ顔の女を、皇帝が身染めるはずがないとわかっているのだ。
だからこそ、前に出た香華を嘲笑った。
「私の妹ではありますが、見ての通りあざ顔の醜い女です。陛下のお目に触れるのもどうかと思いますわ」
香華はもちろん、頭を下げたまま動くことはしない。
ここで下手なことをして、艶虎の機嫌を損ねたくないのだ。
飯抜きかもしくは体罰か。
どちらもごめんだと口を閉ざし続ける。
「ふむ……確かにひどいあざだ」
「守護獣も蝶なんて弱々しいもので。私のように強いものだったら、せめて嫁のもらい手もあったのに」
そう言う艶虎の後ろからは、大きな虎が現れた。
あれが艶虎の守護獣だ。
守護獣は力が強ければ強いほどよいとされるこの世界で、艶虎の虎は最上位に入るだろう。
だからこそ彼女は、こうして後宮入りしたのだ。
もちろんその美貌もあるが。
「だからこうして、私が世話をしてあげているのです」
「なるほど。そなたは本当に優しいな」
「全て陛下のお心のおかげですわ」
皇帝の胸に寄りかかる艶虎。
その様子を見ながらも、香華はバレぬようため息をついた。
まあ香華が蔑まれて、それで艶虎の評価が上がるならいいかと無理やり納得する。
どうせ自分がここにいる理由はそれだけなのだから。
両親からも言われた。
お前は姉のために生きろと。
だからどうか皇帝の寵愛が永遠に姉に向きますように。
そんなことを心の中で願っていた時だ。
皇帝の目が、香華を捉えた。
「だがさすがそなたの妹だ。そのあざがあってもなおこの美しさか……」
「――」
なんてことを言ってくれるのだ。
皇帝の言葉に、艶虎の瞳が大きく見開かれた。
同じくらい香華の瞳も見開かれる。
(――最悪だ!)
最悪すぎる。
よりにもよって艶虎の前でそんなこと言わなくていいのに。
とにかく今は艶虎の機嫌をとらなくてはと、香華は深々と頭を下げた。
「幻煌の生きる宝石と呼ばれるお姉様には到底敵いません」
「……そうか、そうだな。私の宝石はそなただけだ」
「……まあ、陛下。嬉しいですわ」
そういって抱きしめ合う二人。
このまま寝台へと向かうはずなので、女官たちは空気を読み部屋を後にする。
もちろん香華もそれにならい、外に出ようとするのだが視線が痛い。
艶虎からの鋭すぎる視線が、この体を射抜いてくる。
(ああ、嫌だ……)
お願いだから、香華のことを誰も見ないでほしい。
透明人間のように扱ってほしい。
だってそうじゃないと、つらすぎるから……。
(これはまた叩かれるな……)
部屋を出ながら覚悟を決めた。
痛いのは一瞬だ。
だから大丈夫。
このあざを負ったときほどの痛みも喪失感も、きっとありはしないのだから……。




