香りとは
過去を覚えている。
そんなことを言って、一体どれだけの人が信じてくれるだろうか?
香華にはその、過去の記憶というものが存在していた。
とある島国でアロマテラピストとして働いていた日々のことだ。
毎日毎日、人々の体の悩みと向き合い治す日々。
いつか自分の店を持ちたいなんて思ったこともあったが、最後は車に轢かれかけた猫を救うために事故に遭い死んでしまった。
そんな記憶を持って生まれた香華は、 幻煌国の生きる宝石と呼ばれる姉の女官として、ここ後宮に入った。
「そこのあざ顔! 蘭妃様がお呼びよ。さっさときなさい!」
「……かしこまりました」
顔の左側。
頰や目の辺りにかけてあざのある香華は、あざ顔と呼ばれていた。
ここは花園。
美しい花だけを集めた場所で、あざのある香華はさぞや目立つことだろう。
そんな香華を呼びつけたのは妃の一人だ。
癇癪持ちの彼女に呼び寄せられたとなると、面倒なことになりそうである。
一体なにがあったのだろうかと、蘭妃の部屋へと向かい、扉を開けた瞬間。
香華の顔の横をなにかが勢いよく通り抜けた。
「――」
「どいつもこいつもうるさいのよ! 黙って!」
「ですが蘭妃様……!」
「うるさいうるさいうるさいうるさい!」
蘭妃はテーブルの上にある食器を手当たり次第、あちこち投げつけている。
どうやら香華の横を通ったのは茶器だったようで、顔に当たらずにすんだことにホッとした。
ちなみに茶器は粉々に砕け散り地面へと落ちている。
あれでいくら失ったことになるのだろうか?
「蘭妃様。あざ顔を連れてきました」
「あざ顔……? お前――っ!」
蘭妃は今度こそ香華の顔目掛けて花瓶を投げつけてくる。
それを一歩横にずれることで避けつつ、香華は眉間に皺を寄せた。
一体なにが起きたのだろうか?
「お前が作った香が臭くて、気持ち悪さが治らないのよ――!」
「――臭い?」
おや?
と香華は首を傾げた。
そんなはずはない。
蘭妃が好きな香りに調合したはずだ。
それなのに臭いとは……?
「蘭妃様はここ二日ほど吐き気に苦しんでおいでなのよ」
こっそりと教えてくれたのは香華を連れてきた蘭妃付きの女官だ。
蘭妃の暴れっぷりが相当堪えているのだろう。
なんとかしろと顔に書いてある。
「…………ふむ。臭い、ですか」
香華は隣にいる女官にこっそりと耳打ちした。
「香を持ってきていただいても?」
「……わかったわ」
その間にも蘭妃はギャーギャーと騒ぎ立て、髪を振り回している。
一年ほど前に皇帝の寵愛を受けた蘭妃。
しかし権力者の心というのはうつろいやすいものなのか。
瞬く間にその愛は他のものに移ってしまったらしい。
子を成すこともできず、今や忘れ去られた存在だ。
そんな彼女はここ半年ほど不眠症を患っていた。
それをよくしたのが香華の作った香だったのだが……。
「これを……」
「ありがとうございます」
手渡された香を確認する。
香華の作るお香はかなり特殊だ。
これはこの時代、この国には本来あるはずのないもので作っている。
香華の守護獣、香蝶の鱗粉によるものだ。
彼らは香華の望む香りを鱗粉にして再現してくれる。
そしてこの中にはその鱗粉が、さまざまな香りと共に入っているのだ。
香華は香炉の蓋を開けると、すんっと鼻を鳴らす。
二度三度と繰り返し、香炉の蓋を閉じた。
「……特別おかしなものは混ざっていないですね」
「それじゃあなんで……?」
女官の怪訝そうな顔に、香華もまた似たような表情を見せる。
実際香華はアロマテラピストであって、香りを作る調香師とは少し違う。
もちろん好みに合わせて作ることは可能だが、本業はオイルを使ったマッサージだ。
本来ならそれをしたいのだが、未だ信頼を得ていない香華では蘭妃の体に触れることすらできない。
だから気休めにでもと香りを作ったのだが、まさか臭いと言われるとは。
「…………臭い。……臭い」
香華は唇を折り曲げた人差し指と親指の腹でぷにぷにとつまむ。
今まで使っていた香と変わらない。
前回作った時も、全ての香りを蘭妃に選んでもらったのだから。
あれこれと好みがうるさい蘭妃に合わせて、毎回調合するのが大変……とそこまで考えて、香華は顔を上げた。
「――失礼ですが蘭妃様。月経はいつきましたか?」
「……急になによ」
「お答えいただけますと、解決の糸口になるかもしれません」
「…………」
よその、それもあざ顔の女に言うのは嫌なのか、蘭妃はしばし黙り込んだ。
しかしここで口を閉ざしていても解決しないとわかったのだろう。
渋々といった様子で口を開いた。
「……今よ。今きているわ」
「――やはりそうですか」
香華は香を持って蘭妃のそばまで行けば、彼女は勢いよく顔を背けた。
まるでこの香りを嗅ぎたくないと言いたげに。
望み通りすぐに香を遠ざけると、部屋の窓という窓を開けさせた。
「失礼致しました。これは私の不手際です」
「お前……やはりなにか入れたのね!?」
「はい。蘭妃様が入れてもよいと言われたクラリセージを使いました」
「クラ……? 前回私が入れてくれって言ったやつじゃないの?」
覚えていたのかと少し驚いた。
そういったことに興味はないと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。
香華は香蝶を一匹出すと、蘭妃の周りを飛ばせた。
キラキラと輝く鱗粉が辺りに舞うと、蘭妃は慌てて鼻を塞いだ。
「臭い!」
「この香りがクラリセージです」
「嘘よ! 前回は臭いなんて感じなかったわ!」
そこが香りの難しく、そして面白いところなのだ。
「――人は、体調によって香りの感じ方が変わります」
「……体調?」
「特に女性は月経中、鼻が敏感になるのです。月経前と月経中では、好ましいと思う香りが変わるんです」
「…………そうなの?」
こくり、と頷いた香華はすぐに香蝶を消した。
「蘭妃様は月経前、クラリセージがいいとおっしゃりました。こちらは不安を和らげ幸福感を与えてくれる効果があります。ですが月経中は普段よりも鼻が効くため、臭いと感じたのでしょう」
「たかが月経で、こんなに変わるの……?」
「香とは、それほど人の体に与える影響が大きいのです」
それに、と香華は続ける。
「クラリセージは月経前の不調を緩和する効果がありますが、月経中は逆に出血量を増やしてしまうことがあります。蘭妃様の吐き気は貧血によるものかと」
「貧血……? そういえば確かに……」
思い当たる節があるのか、蘭妃はこくりと頷く。
どうやら推測はあっていたようだ。
香華はもう一度香蝶を作り出すと、蘭妃の周りを飛ばせた。
また臭いのかと身構えた蘭妃だったが、今度は好きな香りだったのかホッと肩から力を抜く。
「いい香り……」
「蘭妃様は甘い香りがお好きですから、月経中の体調がすぐれない時などは、シンプルに好みの香りを嗅ぐのがよろしいかと思います」
普段はブレンドして渡しているのだが、体調不良の時はどの香りが嫌だと感じるかわからない。
なのでそういう時はシンプルな香りの方がいいだろう。
「普段から使っているベンゾインの香りです。バニラに似た甘い香りがいたします。効果としては心を穏やかにしてくれると共に、血液循環を促し体を温めてくれます。しばらくはこちらを。月経後に以前のものに戻してください」
「……臭いと感じない?」
「体調次第のところはあります。なのでもし不愉快なようなら、以前のものに戻しますのでおっしゃってください」
「……そう。ならいいわ。今日はもうこのまま寝るから」
追い出されそうになる前にと、香華は慌てて一歩前に出た。
「もし可能なら、眠る前に足をお湯で温めてみてください」
「足を……?」
「そのお湯に鱗粉を入れてみてください。もっと香りが立ちますし、足を温めると安眠効果があります」
本当はマッサージを施したいが、妃の体にお付きでもない女が触れるのは嫌がられるだろう。
本当なら足だけじゃない。
頭や首、肩、背中……。
ありとあらゆる場所をマッサージし、リラックスしてもらい、あわよくば寝て欲しい。
気を張っている客がマッサージを受けて眠りに落ちる瞬間。
あの瞬間が最高なのだ。
自分のマッサージ技術が間違っていなかったなによりの証拠だと思っている。
ああ、またあの感覚を感じたい。
とはいえ、流石に今それは無理なので助言だけに止めれば、蘭妃はしばし沈黙したのちに頷いた。
「……わかったわ。今回はあなたの言うとおりにしてあげる」
「ありがとうございます」
用事は済んだらしい。
頭を下げながら部屋を出て、扉が閉まってから頭を上げた。
「……どの時代も変わらないのね」
体調によって香りの感じ方が変わること。
忘れていたわけではないが、もっとちゃんと考えなくては。
これは自分の落ち度である。
「気をつけましょう」
香華はくるりと踵を返すと、自らの住まいへと戻るため足を進めた。




