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5.能と幽玄

 ここで少しだけ、何故「能」的であると筆者が感じたのかについてを補足しておきたい。


 これは環境・状況・ファン以外にも披露する路上ライブのシステムによるところが大きいと思うのだが、二つ大きな要因があって、それが結果的に能の「欠け」、極限にまで無駄を削ぎ落とした美の状態に近い環境に、意図せずなっているからではないか……と筆者は勝手に受け取った。


 まず一つが、路上ライブの性質上、相手にするのはファン以外……というよりほぼ通りがかりの人や、ただそこにいただけの人となる。

 故に演者側から観客(と見なされる人々)への積極的な働きかけがほぼないに等しい(例えば、ここで声だして!とか手を振って!とかタオル回して!とかのメッセージ)。


 この観客に対するアプローチの少なさ。

 何ともそこが能っぽい。


 そしてもう一つが、夜の暗闇である。

 暗闇の物理的作用といえば、やはり五感の一つである視野が利かなくなる事が挙げられる。


 夜の街はどこも薄暗く、それは大通公園であっても例外ではない。

 むしろ日中木陰をつくっていた木々の枝葉が、夜には街灯を遮り樹陰をつくるので、より闇が濃くなるところもでてくる。

 

 とはいえ、真っ暗だとか暗すぎるという事もなく、薄ぼんやり暗い/薄ぼんやり明るいという範囲に納まっており、自分からも他人からも見えすぎないという程好い暗さの中で、人々は安心して過ごしている。


 見えるようで見えない、見えないようでいて見える。

 けれど面立ちなんかは、余程近づかなければよく見えない。


 この人々が等しく影となる(これは演者も同じである)この程好い暗さの齎す一番の効果は、匿名性が上がり、あまり他人の視線を意識せずに済む事なのかもしれない。

 そのため、これによってちょっとだけ自己解放が起こりやすい状態になっている可能性がある。


 ここに音楽が入ると、自意識や強すぎる自我や固定観念、境界線のようなものが薄れて溶けていき、一方で視覚からの情報が減り代わりに聴覚が上がるためか、意識が音やリズムに寄っていきやすくなり、人によっては音楽やその環境自体に没入しやすくなる……ように見える。


 この没入がとても能っぽい。


 能に対しても門外漢で全く詳しくないのだが、この没入感というのも能の大事な要素らしく、能が言葉(和歌)から観客の教養や慣れに応じて、個々人の連想を引き出し没入感へと浸らせてゆくのならば、インストゥルメンタル音楽の路上ライブは、音とリズム、それに暗闇によって没入へと向かわせていく。


 そういうところに何となく近さを感じた。

 あくまで能的であって、能そのものというわけではないのだが。



 そして幽玄。

 幽玄が何かというと、闇の中で好きずきに蠢く人々が、その中で無意識的に薄く繋がり、その繋がりの中の一部に対等な立場で路上ライブのバンドがある。

 彼らの奏でる音楽によって、またその音楽が聞こえるという事によって、この薄い繋がりは少しだけ濃さを持つのだ。


 更に楽曲が盛り上がる事によって、このゆるく薄い繋がりが一時的に一段階スケールアップするとでもいうような感覚。

 これを起こすのは演者だけではなく、観客側にもかなり求められる部分がある。

 故に水物。

 観客は通行人だったり、その時たまたま居合わせた人でしかないので、偶発性が高く再現性は低くなる。

 この人々の動きや様相が有機的で、そこに何とも言えない幽玄さを筆者は感じるのだ。

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