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梅雨凪

【梅雨凪】




梅雨凪という言葉を聞いたことがある。

梅雨の時期には、海に波がなく、風も吹かない日があるという。


今日は一日、忙しい日だった。

家に帰り、風呂を済ませ、夕食を摂っていた僕に、妻が言った。


「久しぶりに釣り、行ってきたら?」


スマートフォンで潮見表を確認する。小潮。

天気予報は無風の曇り。

釣れない理由は山ほどある。

行かない理由も、山ほどある。


妻が僕に釣りを勧めたのは、たぶん、僕が悩んでいるように見えたからだろう。

昔のように。


思い切って、釣りに来た。

昔通ってた、あの砂浜。

僕を助けてくれた、あの砂浜。


今日は曇りだ。

低い雲が街の明かりを映して、空が明るい。

水面はやっぱり、鏡のようにその明るい雲を映している。


ピシュ、ピシュ──。

一定のリズムで竿を振っている音がする。綺麗な音だ。

釣り人が対岸で僕と同じようにスズキを狙って竿を振っているんだろう。

ああ、多分、姿も見えないあいつ。高い竿を使ってるな。上手いんだろうな。


今日は風もなく、対岸の音がよく聞こえる。

静かな、静かな博多湾。


霧笛が聞こえてきた。

沖は霧が出ているのかもしれない。


ルアーをセットする。

今日はたぶん、ルアーを交換することはないだろう。

水面を滑るように泳ぐ、細いルアー。

バッグに入っている20個の交換用ルアーたちは、今日はお休みだろう。


ピシュ──ぽちゃ。

ピシュ──ぽちゃ。

ピシュ──ぽちゃ。


対岸の彼のような、綺麗で鋭い音じゃない。

でも、僕の竿も今は高級品だ。


──キレがないねえ、音に。


 


ほんの4〜5年前。

僕は悩みごとがあると、ウェーダー(ゴム長)を着て、海に半身浸かりながらスズキ釣りをしていた。

その時間だけでも、悩みごとを忘れることができたから。


電気料金、何ヶ月分遅れてたっけ?

市県民税も、もう明日には区役所に行かなければ差押えされるかも。

差押えられたら、子どもにご飯を食べさせられない。

区役所の役人め、ほんと情けもクソもないよなあ。ああ。


そんな悩みは、ただ単調なリズムでルアーを投げ続けてたら、いつの間にか消えていく。

消えてはなくならない。ただ、忘れることができる。

忘れることは無意味なのか?

いや、一瞬でも忘れることで、僕は壊れずに生きてきた。


僕はなるべく沈むルアーは使わない。

昔、雑誌で読んだんだ。

スズキは上を見ながら泳いでいるから、まずは水面から探るべきだって。


でも、本当の理由は別にある。

この鏡のような水面の下に、何が沈んで隠れているかわからないからだ。

捨てられた自転車。

昔に沈んだ舟。

大きな岩──。

海の底なんて人間からは見えない。見えているのは、水面だけ。


鏡のような水面を割って、ガボッと大きなスズキを釣ったことはある。たしかにある。

でも、こんな夜はスズキは釣れない。経験で知っている。


──ああ、

そうだった。今日、僕は悩んでいた。


昔のような、切羽詰まった悩みじゃないけれど。

悩みがない状態が不安で、

水面下に沈む舟の残骸のような悩みを、探していた。


最近、もの忘れが多くなった実家の母親。

父も母も、もう若くない。

貧乏なときは、随分とお金をせびった。

親孝行、できるのかなあ。


ピシュ──ぽちゃ。

ピシュ──ぽちゃ。

ピシュ──ぽちゃ。


親の心配は、もう忘れてた。


──



──


ピシュ──ぽちゃ。


3秒待って、ゆっくり巻く。

巻きの速度は、1秒で一回転。

そういえば、最近リールを変えたな。

ハイスピードって書いてあったっけ。

もっとゆっくり巻かなきゃいけないのかも。

だから釣れないんだろうな。


もう、目的は果たした。

帰ろう。

妻に感謝を伝えたいけど、もう寝てるかな。


ピシュ──ぽちゃ。

3秒待って──


ん?


「ガボッ!」

鏡のような水面が、突然割れた。

「ジジジ……!」とリールのドラグが鳴り続ける。


ありゃ、止まんないな。

ヤバい

スズキ特有のエラ洗い。──あ、頭しか出てこない。

めっちゃでかい奴。

「ドバシャシャシャ……!」

静かな夜に、バカみたいに響く音。


なかなか寄ってこない。

でも、不思議と焦りはない。


釣れない予定で来たけど──

心のどこかで、準備してたのかもしれない。




フィッシュグリップでスズキのアゴを掴む。

多分これ、80cmくらいあるな。

ここ2〜3年釣ってないサイズだ。


でも、釣った魚の長さを測るのはもう10年前にやめた。

デカいってわかれば、それでいい。


水面下には、何が潜んでいるのか、僕には見えない。

大きな岩。

捨てられた自転車。

昔に沈んだ舟。


でも、そこに、

見たこともないような、大きな魚が潜んでいることも──

僕は、知っている。


だから、何回もルアーを投げ続ける。

何回も、何回でも。


──


【完】


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