私、この婚約破棄が終わったら、推しと結婚するんだ
「クリストファー様~! 私、婚約を解消されちゃいました~!」
王都の貴族街にある巨大な公園の中。ベンチに座った私は、懐から取り出した手のひらサイズのぬいぐるみに話しかけていた。
『婚約解消? ヨランドさんのような素敵な方がどうして?』
私は裏声を使い、まるでぬいぐるみが喋り出したかのように振る舞う。
「私の婚約者……元婚約者のところに、私よりも身分の高い人からの縁談が舞い込んだんですって! 向こうの令嬢が彼に一目惚れしたとかで、あの人すっかり舞い上がっていて……。別れ話を持ち出された時に、『僕とお前みたいなブスじゃ不釣り合いだと前から思っていたんだ』って嫌味を言われたんですよ!」
『それはひどい。ヨランドさんはとてもお綺麗なのに、見る目がない人ですね』
「や、やだ、綺麗だなんて! ありがとうございます! 大好きです、クリストファー様! 結婚して下さい!」
「分かりました」
背後のベンチから声がして、私は心臓が止まりそうになった。恐る恐る振り向く。そこにいる人が誰か分かると、今度は口から奇声が飛び出てきた。
「ク、ク、ク……クリストファー様!?」
「はい、どうかしましたか」
ベンチに横になっていた青年がむくりと起き上がり、きょとんとした顔になる。うふふ、今日も麗しい……。
……って、うっとりしている場合じゃなかった!
「い、いつからそこに……」
「『クリストファー様~! 私、婚約を解消されちゃいました~!』の辺りですね」
最初から!? 嘘でしょ!? 何で本人が後ろにいたって気付かないのよ、私! よく考えたら、ここはクリストファー様のお気に入りのお昼寝スポットじゃない!
「ところで、式はいつにしますか?」
パニックになっていると、クリストファー様が平然と尋ねてくる。私は思わず「へ?」と間の抜けた声を出してしまった。
「式って何の式ですか?」
「私たちの婚姻を記念して行うセレモニーです。いわゆる結婚式ですよ」
クリストファー様が大真面目な顔で解説する。
「今からご両親に挨拶に行きましょう。手土産にお花か何か持って行った方がいいでしょうか? 一緒に選んで下さいます?」
えっ?
「指輪も用意しないといけませんね。後でデザイナーを呼んでおかなければ。婚礼衣装も注文して……」
ええっ?
「他にも色々と準備することが盛りだくさんですね。まあ、愛があれば乗り越えられるでしょう。幸せになりましょうね、ヨランドさん」
えええっ~!?
****
「汝、病める時も健やかなる時も……」
それから飛ぶように数ヶ月が過ぎ、気が付いた時には、私は花嫁衣装に袖を通して教会の祭壇の前に立っていた。
神父様からの問いかけに対し、隣に立つクリストファー様が「誓います」と宣言するのが聞こえる。そして、私も彼と同じ返事をした。
「では、誓いのキスを」
クリストファー様が私のベールを上げた。目を瞑り、そっと近寄ってくる。
クリストファー様……まつげ長い。
お肌も綺麗だわ。まるで陶器ね。茶色い髪が目元にかかっているのがとってもセクシー。あっ、こんなところにホクロが……!
……この方、美の化身かしら? 全身から輝くオーラが溢れてる。尊い……素敵すぎる……もう無理……。
「ヨランドさん!」
突然の大声にハッとなる。視界に入ってきたのは、薄暗い部屋の見慣れぬ天井だった。しかも、何故か私はベッドの上にいる。
「え、何? どこ、ここ……?」
さっきまで教会にいたはずよね!?
軽くパニックになっていると、近くから人の気配がした。……クリストファー様!
「大丈夫ですか? 『私、生まれ変わったらクリストファー様の髪を留めてるピンになるんだ……』と言いながらうなされてましたよ?」
「わ、私の秘めた願望がダダ漏れに……!? ええと……平気です……」
寝顔見られちゃった!? どうしよう! よだれとかついてないわよね!?
慌てて口元を拭っていると、クリストファー様が「ヨランドさんは結婚式の最中に倒れてしまったんですよ」と説明してくれた。
「お医者様に診てもらいましたが、特に異常はないとのこと。きっと、晴れの舞台で緊張してしまったせいでしょうね」
「ええ、クリストファー様が尊すぎましたから……」
「ここは私の……私たちの家です。日も落ちていますし、朝までもう一眠りしてゆっくり休んで下さい」
クリストファー様……もしかして私が起きるまでずっと傍にいてくれたの?
心臓がキュンと弾んだ。部屋を出ていこうとするクリストファー様に、「待って下さい!」と声をかける。
「結婚式の日の夜っていうことはつまり……しょ、しょ、しょ……初夜ですよね!? だったら、クリストファー様もここで寝て下さい! わ、私、妻としての役目を今度こそしっかり果たしてみせますから!」
式の最中に気絶するなんてとんだ失態だ。それを挽回するならここしかない!
意気込む私だったけど、クリストファー様は「無理しないで下さい」と気遣わしげな表情になる。
「心配しなくても、あなたに失望などしていませんよ。結婚生活は始まったばかりなんですから、そう焦らなくても……」
「大丈夫です! 興奮しちゃって眠れませんし、クリストファー様との初めての夜は妄想の中で何回もシミュレートしてますから!」
女は度胸よ! 私は服の胸元のリボンを解こうとする。
だけど……ちょっと固いわ、この結び目。全然外れないじゃない! もう! クリストファー様が待ってるのに!
「……貸して下さい」
悪戦苦闘していると、クリストファー様が手を伸ばしてきた。シーツに膝をついた彼の重みでベッドが沈む。
「あなたの着替えを担当した方は余程不器用なんですね。一体どうしたらこうなるのやら……」
クリストファー様がブツブツ言いながらリボンの結び目に顔を寄せる。近い、近いわ! ああ……やっぱり至近距離で見るクリストファー様は格別ね……。たまらないわ……。
「ヨランドさん、鼻血が出ていますよ」
顔を上げたクリストファー様が冷静に教えてくれる。
「ふへ!?」
私が鼻の下をこすると、手の甲に赤いものがついた。クリストファー様が差し出してくれたハンカチで急いで汚れを拭く。
「す、すみません……。鼻から尊さが溢れてしまって……」
「お気になさらず。やっぱり、まだ初夜は早かったですね」
クリストファー様が私の背中を撫でてくれる。優しい……! ますます好きになっちゃう!
「まだ眠くないのなら、少しお話でもしませんか? お喋りだけなら、病弱なヨランドさんでも気を失ったり鼻血を出したりしませんよね?」
「別に病弱というわけでは……。ええ、大丈夫です」
私が頷くと、クリストファー様がベッドの縁に腰掛けた。
「どうしてヨランドさんは私にプロポーズしてくれたんですか?」
「あ、あれはプロポーズっていうか……」
私はモジモジした。
「私……いつもクリストファー様をかたどった小さいぬいぐるみを持ち歩いてるんです。それで、何か辛いことがある度にそれに話しかけるんです。そうすると心が晴れるんですよね」
「では……プロポーズは勘違いだった、と? 実は私のことはそこまで好きではない……?」
「そんなことありません! クリストファー様は私の憧れの人です! だから結婚なんて夢みたいっていうか……! でも、クリストファー様こそ良かったんですか? あんなにすぐに私を奥さんにするって決めちゃって……」
「実は最近、私の周りで結婚ラッシュが起きていまして」
クリストファー様が困ったような顔になる。
「だから、私もそろそろ式を挙げた方がいいのかなと思っていたのですが、教会へ行ったら『一人では無理です』と追い返されてしまったんです。不親切ですよね?」
クリストファー様、やっぱりちょっと変わってる。でも、そこがいい! 私はそんなあなたが大好きです!
「じゃあ、私がいて良かったって思ってますか?」
「ええ。ぬいぐるみ相手とはいえ、求婚してくれてありがとうございます、ヨランドさん」
クリストファー様が感謝を示すように柔らかく抱きしめてくれた。
わ、私、今、クリストファー様の腕の中にいるの? すごい……。何だかクラクラしてくるわ。体が熱い……。意識も……遠退いて……。
****
「昨日はすみませんでした。お話の途中にまた気を失ってしまうなんて……。クリストファー様の尊さに当てられてしまって、つい……」
翌朝。私はクリストファー様の隣の席で朝食をとっていた。
「いえ。あれは私の責任です。あなたに迂闊に触れるとどうなるのか、すっかり忘れていました」
クリストファー様はゆで卵をフォークの先で転がしている。
謝罪に集中したい私だったけど、食事をしている彼の様子も観察したくて意識は逸れっぱなしだ。卵とクリストファー様、なんて素敵な組み合わせなのかしら。このまま彫刻作品にして美術館に飾っておくべきだわ。
「もしお嫌でなければ、昨日できなかったお話の続きをしませんか? ヨランドさんのこと、もっと知りたいんです」
「私を!? 光栄です!」
背筋をピンと伸ばす。
「私はヨランド。昨日からクリストファー様の妻になりました。趣味は妄想と推しの観察とお絵描きです」
「私はクリストファー。同じく、昨日からヨランドさんの夫になりました。趣味はお昼寝と日向ぼっこですね。ヨランドさんは絵を描かれるのですか。例えばどんなものを?」
「ほとんど人物画ですね。と言ってもそんなに本格的なものじゃなくて、スケッチブックに気ままにサラサラ~ってペンを滑らせるだけなんですけど」
「心の赴くままに筆を執るとは、芸術家らしいですね。ますます興味が湧いてきました。良ければ作品を見せていただいても?」
「いいですけど……。あんまり期待しないで下さいね?」
実家から持ってきたスケッチブックを何冊か使用人に取りに行ってもらい、クリストファー様に差し出した。
「これ……私の絵ですね。とてもお上手です」
スケッチブックを開いたクリストファー様が呟く。
「その絵、『考え事をしている推し』っていうタイトルです」
「こちらは王宮の廊下を歩いている私。こちらは眠そうな私。こちらは犬のケンカを眺めている私。……ひょっとして私の絵しかないんですか?」
「そのスケッチブックの中にあるのは、全部クリストファー様を影から見守っていた時に描いたものですからね。こっちは私とクリストファー様の絵ばかりですよ」
「ほう……。一緒に馬車に乗っている私とヨランドさんに、ヨランドさんに『あーん』してもらっている私……。おや、こちらのスケッチブックの中身は何ですか? 表紙に絵の具で意味深なハートマークが描かれていますが」
「そ、それはダメです! キスしてる私とクリストファー様とか、大人な絵がたくさん詰まっているので!」
私は慌ててスケッチブックをテーブルクロスの下に隠した。クリストファー様の顔は好奇心に輝いたけど無理強いするつもりはないらしく、目線を手元の健全な方のスケッチブックに戻す。
長い指がページをめくっていく。その動きがふと止まった。
「これは……」
私の足首にハンカチを巻いているクリストファー様の絵だった。
このスケッチブックに描かれているのは、全部私の妄想の光景だ。でも、唯一の例外がこれだった。かつて、私はクリストファー様にこんな風に親切にしてもらったことがあったんだ。
「二年前に開催された、ある貴族の屋敷での舞踏会のこと、覚えてます?」
私は躊躇いがちに切り出す。
「私、踊っている最中にうっかり足を捻ってしまって、控えの間で休むことにしたんです。そうしたら、そこにたまたまクリストファー様がやって来て……」
「水で濡らしたハンカチであなたの足首を冷やしました。それで、『舞踏会の参加者の中にお医者様もいたはずですから、探してきます』と申し出ましたね」
「覚えていたんですか!?」
私は目を見開いた。クリストファー様は当然のように「もちろんです」と言う。
「治療を受けたあなたを、馬車乗り場まで抱きかかえていったのも私でしたから。忘れませんよ、こんな出来事」
それに……と続ける。
「その日以来、影から視線を感じるようになったんです。どうやらあの時助けたご令嬢がこちらを見ているらしいと分かったのは、しばらくしてからのことでした」
「私……気付いたらクリストファー様のことが好きになっちゃってましたから」
私は照れながら認めた。
「本当はお近づきになりたかったんですけど……。あの舞踏会から少しして、ある人と婚約することが決まったんです。婚約者がいるのに、他の男性と必要以上に仲良くなるのはどうかと思って……。まあ、その人も今となっては『元婚約者』なんですけど」
「そうだったんですか……。こんなことなら、私から声をかければ良かったですね。それならヨランドさんも、『向こうがちょっかいをかけてきた』と言い訳ができたはずです」
「クリストファー様から誘って下さる? もったいないです!」
「そんなことないですよ。私もあなたのことが気になっていましたから。昨日、結婚しようと教会へ行ったら『一人では無理です』と追い返された話をしましたよね? その時に私が真っ先に思ったのは、『それなら次はヨランドさんを連れて行きたい』だったんです」
「私を……?」
「結果的に私の希望は叶いました。けれど贅沢を言わせてもらえるなら、そこに描いてあるようなこともヨランドさんとしてみたいですね」
クリストファー様は、私がテーブルクロスの下に隠したスケッチブックに視線をやる。
私の妄想が現実に!?
どうしよう……。そんなの、すごく嬉しいに決まってる! だけど、クリストファー様と接近したら私……。
「ヨランドさん」
クリストファー様が腰を浮かせる。
こ、今度は何!? キス!? 抱擁!? ええい、覚悟を決めなさい、私! 気をしっかり持つのよ! 今回こそは絶対に気絶しない! 最後まで正気でいるんだから!
「……あれ?」
武者震いしていたけれど、クリストファー様がそれ以上近づいてくる気配はなかった。代わりに、テーブルに乗せていた手のひらが温かいものに包まれる感触がする。
「まずはこれくらいから始めてみましょう」
クリストファー様に手を握られていた。優しく、でもしっかりと。
意識が遠くなっていく様子はない。クリストファー様を見て、私はかすかに笑う。
「やっぱりクリストファー様はすごいですね。私の求めていたものが分かるなんて」
「あなたへの愛がそうさせるんですよ」
私とクリストファー様は指を絡め合う。ぶつかった視線は、いつまでも離れていくことはなかった。
****
「それじゃあ、今度はそこの木に寄りかかって下さい! アンニュイな表情でお願いしますね!」
スケッチブックを片手に、私はクリストファー様に指示する。クリストファー様が「アンニュイですか……」と悩ましそうにした。
「難しかったら、『お腹空いたな~』って顔でもいいですよ」
「それなら何とかなりそうです」
クリストファー様が顔をうつむけ、伏し目がちになる。
最高だわ! こんなに綺麗な憂い顔を作れるなんて! 心の中では「今日のおやつは何でしょう」って考えてるとはとても思えない!
「やっぱりクリストファー様は尊いですね」
傍らに置いておいたクリストファー様のぬいぐるみに話しかける。私は裏声で、『ありがとうございます』と返事した。
昼下がりの貴族街の公園は、大勢の人で賑わっていた。その中に、私は見知った顔を見つける。
「あたくしより前を歩くんじゃないわよ、このグズ!」
美貌の令嬢に罵倒されて小さくなっていたのは、忘れもしない私の元婚約者だった。
「まったく。何なの、その服は? みすぼらしいったらありゃしない。これだから小貴族は……。あんたって本当に顔だけね。気も利かないし、いいところなんか何にもないんだから。こんなのと婚約したいと思ったなんて、あたくし、どうかしていたわ」
「で、でも……」
「口答えするんじゃないわよ! 教育がなってないわね。これじゃあうちの召使いの方がよっぽど……」
「ヨランドさん?」
クリストファー様に声をかけられ我に返る。「どうかしましたか?」と聞かれ、「いいえ」と首を振った。
「そろそろ休憩しましょうか。ちょうどキリのいいところまで描けましたので」
私は絵の進捗を見せようと、クリストファー様にスケッチブックを渡す。その拍子にお互いの指が触れた。
「いい出来です」
クリストファー様が私の手を取り、甲に口付けた。
一瞬、目眩のようなものに襲われる。けれどそれはすぐに治まり、私は夫に微笑んでみせた。
「段々と耐性がついてきましたね」
「これなら、唇にキスしてもらえる日もすぐそこです」
私は確信に満ちた未来予知をする。妄想も悪くないけど、それが現実になっていくのもまた喜ばしいものだと思いながら。