デート(4)
魔獣が苛立った様子で何度も地面を蹴り、頭を上下に振り、雄叫びを上げながらライリー様へ突進する。
ライリー様はまた避けるでしょう。
しかし、壊れかけた屋台の片隅に動く人影を見つけてしまったわたしは青褪めた。
どうしてまだそこに……?!
ライリー様の後方、魔獣との戦いの余波で傾いてしまった屋台の陰に先ほど会った男の子が隠れている。
このままではまずい。
ライリー様が魔獣を避けたら屋台諸共あの男の子は突進されてしまう。
わたしは考える間もなく駆け出していた。
走り出したわたしに、男の子の存在に気付いたのか、ライリー様が一瞬気を取られてしまう。
それを逃さず魔獣が突進を始める。
咄嗟にといった様子でライリー様の体が魔獣を避けようと動き、中途半端にこちらを向いた。
黄金色の瞳と刹那の瞬間、視線が絡む。
その口が声なくわたしの名前を紡ぐ。
わたしは走りながらライリー様に微笑んだ。
そして屋台の陰にいた男の子へ駆け寄り、その勢いのまま魔獣へ背中を向けて抱き締める。
……これは賭けよ。
わたしよりも小さな体が硬直してる。
襲いくるかもしれない衝撃に目を瞑った。
その瞬間、バチィィインッッと大きく硬いものが弾かれる音がして、空気が震え、風が吹き抜けた。
ハッと目を開ければわたし達を淡い金色の膜が包み込み、それによって魔獣が弾かれた姿が視界に入る。
魔獣が一際大きく、グギャウッと悲鳴を上げた。
弾かれた巨体がそのまま脇の屋台へ突っ込む。
崩れた屋台からよろよろと這い出そうとする巨体にライリー様が大股で近付き、剣を振るう。
ザシュッ、斬り裂かれる音と共に巨体が震える。
ギャっと悲鳴が上がり、巨体が慌てた様子で顔を上げた。赤黒い瞳と目が合った気がした。
しかし魔獣はわたし達に牙を剥く暇もなく、その首に剣が突き立てられた。
巨体がビクビクと痙攣し、倒れ、動かなくなる。
剣を突き立てられた首から血溜まりが広がった。
剣を引き抜いたライリー様が振り向く。
「何故危険な真似をした!!!」
今までに聞いたこともないほどの怒号だった。
半年前にリチャードへ怒鳴りつけた時よりも大きく、唸り混じりのそれは、空気をビリビリと振動させる。
牙を剥き出しに怒るライリー様。
でも、その体が微かに震えているのが分かった。
「……ごめんなさい」
男の子を解放して、ライリー様に抱き着く。
すると存在を確かめるように強く抱き寄せられた。
横で、放り出された剣の落ちる音がする。
人の時よりも太くがっしりとした腕の中から、何とか自分の腕を出して、ライリー様を抱き締め返す。
……わたしは賭けに勝った。
ショーン殿下が反射の魔術を施してくれた魔道具が、足首にあるそれが微かに熱を帯びている。
視線を僅かに動かせば、傍らには巨体が倒れている。これの前にわたしは飛び出したのね。
あの反射の魔術と魔獣がぶつかった瞬間の、空気の振動と駆け抜けた風を思い出すと、今更になって恐怖が足元からじわじわと這い上がってくる。
震え始めた体でライリー様を強く抱き返す。
死ぬ気はなかった。
でも死ぬかもしれなかった。
もしもショーン殿下の施してくださった反射の魔術が、魔獣の力に負けて壊れてしまえば、わたしは男の子と共に死んでいたかもしれない。
ライリー様は魔獣と対峙していたから、尚のこと、その可能性を恐れたんだわ。
一瞬だけ重なった視線は怯えていた。
今も震える大きな体は、わたしが死ななかったことに安堵して、そして同時にわたしの軽率な行動に怒ってもいた。
「……君を失うかと思った……!」
掠れた囁き声も言葉尻が震えている。
「ごめんなさい。ショーン殿下のくださった魔道具があるから大丈夫だと思ったの」
震える腕が檻みたいにわたしを囲う。
「魔術は絶対じゃない。特に、魔獣には……っ」
でもその檻がわたしは嬉しかった。
英雄と名高い人がこんなにも怯えている。
わたしを失うことを恐れている。
申し訳ないと罪悪感を覚える半面、こんなにもこの人はわたしに心を傾けてくれているのだと喜ぶわたしは最低ね。
「そうだったのね。次は気を付けるわ」
「次なんかない。……君が魔獣と対峙するような事態など、二度と起こさせるものか……!」
やっとわたしの顔を見た。
その獅子の鼻先に口付ける。
バチバチと光が弾け、人の姿に戻ったライリー様の溶けるような金色の瞳からポタリと涙が伝い落ちた。
ああ、泣かないで。ライリー様。
抱き締めていた腕を解いて太い首へ回す。
涙の零れた目元へ口付けると少し塩気があった。
「もう、あんなことはしないでくれ」
懇願に近いそれにわたしは困った。
頷いてあげたいけれど、きっと、また同じような場面に出遭ったらわたしはやっぱり走り出してしまうと思う。
曖昧に微笑むわたしの心を読んだようにライリー様が小さくわたしを呼ぶ。
「エディス」
怒気の滲むそれに苦笑して頷いた。
「……善処しますわ」
数秒、ライリー様が不機嫌そうに唸った。
あら、人の姿でも唸れるのね。
でも獅子の時とは違う。
怒りを吐き出してやり過ごしているのが分かった。
ごめんなさい、ライリー様。
わたしはあなたの婚約者なのよ。
英雄獅子ライリー=ウィンターズの婚約者が、魔獣に怯えて震えるばかりで何も出来なかったなんて言われたくない。
英雄の婚約者に相応しいと示したかったの。
胸を張ってあなたの隣に立ちたいから。
ゆっくりと緩んだ腕から解放される。
取り出したハンカチで濡れた頬を拭って差し上げると、バツが悪そうに少し視線を逸らされた。
「ごめんなさい!!」
男の子の大きな声に振り返れば、小さな頭が下げられていた。その体が震えている。
「お、俺があんなとこにいたから、姉ちゃんは俺を庇おうとして……っ。俺が悪いんだ!」
必死に紡がれる言葉に、ライリー様が男の子を見る。
「何であんなところにいたんだ」
やや厳しい口調に男の子はビクリと肩を一際大きく震わせたけれど、顔を上げずに言う。
「に、兄ちゃんと姉ちゃんが買ってくれたクッキーを持って行きたかったんだ。せっかく買ってくれたのに、クッキーがなくなったら、金をもらえなくなると思って……」
壊れた屋台の残骸を見れば、クッキーもそれに混じって落ちていた。
大半は袋が破けて地面に散らばっている。
孤児院の経営はそこを担う貴族によって変わる。
あまり関心がないと寄付金を出すだけというところもあるし、関心が強ければ子供達に教育を施すところもある。
いくら寄付金があっても、全て孤児院へ納められるわけではなく、教会にもいくらか納められる。その額は孤児院を管理する者の采配任せだ。
だから場合によっては寄付金の半分も孤児院へ渡らないことも少なくないと噂で聞いたことがある。
わたし達がクッキーを大量に買ったことで孤児院へそれなりの額が入るはずだった。
男の子はそれがダメにならないよう、少しでも多くのクッキーを持ち出そうとしたのね。
「その心意気は認めるが、もしも君に何かあったらシスターや孤児院の他の子供達が悲しむだろう。君の命は金には代えられないんだ」
叱るように、諭すように、ライリー様が言う。
下げられた頭からポタポタと雫が落ちる。
「顔を上げて」
男の子の肩に触れればパッと顔が上げられる。
その涙を拭こうとして、でもこれはさっきライリー様の涙を拭ったものだし、と一瞬戸惑ってしまった。
それに気付いたのかライリー様が苦笑しながら御自身のハンカチを取り出し、屈んで男の子の顔を拭う。
「もうこんな危ないことはするんじゃない。それは自分だけでなく、他の者まで危険にさらすことになる」
「……もうしない。約束する」
ぐすぐすと鼻をすすりながら男の子は頷いた。
それにライリー様が「子供の方が聞き分けがいいな」と呟いた。
それはわたしのことを言ってるのかしら。
まあ、事実だからそう言われても仕方がないのだけれど、ちょっと心外だわ。
「ねえ、孤児院に戻ればクッキーは作れる?」
「え? う、うん、作れるよ」
顔を拭われていた男の子が目を瞬かせた。
その子の乱れてしまった髪を整えるように、そっと頭を撫でる。
「ではまた作ってちょうだい。そうしたら、わたし達はまたそれを買うわ。そうでしょう、ライリー様?」
「ああ、そうだな。あの美味いクッキーが食べたい」
見上げてみればライリー様が目を細めて笑う。
まだどこかぎこちないものではあったが、それでも笑ってくれたことにホッとする。
わたし達の言葉に目を丸くした男の子はすぐにその意味を理解したのか、拳を握って強く頷いた。
「ああ、作るよ! いくらでも作る!」
それにライリー様と顔を見合わせる。
「楽しみに待っているわ」
「出来上がったら俺の屋敷に持って来てくれ。場所はシスターが知ってる」
「分かった! 帰ったらすぐにでもーー……」
そこまで男の子が言いかけたところで、女性の声がした。
全員で振り向けば戻りつつある人混みの中からシスター姿の女性が飛び出してきた。
シスターが勢いよく男の子を抱き寄せる。
「良かった、ああ、無事だったのね!」
男の子は一瞬目を丸くしたものの、次の瞬間には顔をくしゃりと歪めてシスターに抱き着いた。
声を上げて泣き出した男の子をシスターが掻き抱く。
顔を動かせば、ユナが握った拳の親指を立てて笑っており、その横にいたシーリスがそれに少し呆れた顔をした。
人々は魔獣が倒されたのだと気付き、不安そうだった騒めきが喜びのものへと変わっていく。
騒めきの中で「もしかしてあの英雄?」「確か人に戻れるようになったってお触れが……」「じゃああそこにいるのは」と話す声も聞こえる。
ライリー様が人の姿を一時的にだが取り戻すことが出来たことは国王陛下のお言葉として国全体に広められ始めた。
だから王都の人々は皆知っているはずだ。
ユナが駆け寄ってくる。
「ああ、エディス様が御無事で良かったです」
怪我がないかあちこちを確認されて苦笑が漏れる。
「心配をかけてしまってごめんなさい。でも言った通り、殿下の魔道具のおかげで何ともないわ」
実はちょっと膝が痛い。男の子を庇った時にうっかりぶつけてしまったのかもしれないけど、大したことではないからいいわよね。
あまりに目立ってしまったので、今日はもうデートは難しいだろう。
騒ぎを聞きつけてようやくやって来た騎士達に倒した魔獣の後始末を任せ、ライリー様は護衛二人に捕らえられているリチャードの下へ歩いていく。
縄で後ろ手に縛られたリチャードが立たされてこちらを睨みつけている。
ライリー様はその前に立つと、無言でリチャードの頬を殴りつけた。
かなり痛そうな音がしてリチャードが地面へ倒れ込む。
「っ、な、何をする……っ?!」
いきなりのことにリチャードが目を白黒させる。
地面に座り込むリチャードをライリー様が冷たい眼差しで見下ろしていた。
その眼差しに気圧されたのかリチャードが口を噤む。
ライリー様が振り返り、申し訳なさそうにわたしを見た。
「すまない。これを王城まで連れて行かないとならなくなった」
それはデートが続けられなくなる謝罪だろう。
どちらにせよ、このまま続けるのは無理そうだったので、わたしは苦笑混じりに頷き返した。
「ええ、その方がいいでしょう。わたしもお屋敷に帰りますので、ライリー様はお仕事を優先なさってくださいませ」
疲れてしまったし今日はもう終わりね。
困ったように肩を下げるライリー様に近付き、背伸びをして頬に慰めのキスを贈る。
リチャードと視線は合わさない。
視線は強く感じるけれど無視する。
だってもうわたし達は無関係だもの、いちいち気にかける必要はないでしょう。
何故リチャードがこのようなことをしでかしたのかは分かっているけれど、それはわたしのせいではない。
ライリー様からも頬にキスをもらうとリチャードに背を向けて歩き出す。
背後でわたしの名前を呼ぶ声がしたけれど、振り向かずにユナと護衛のシーリスのところへ戻る。
「そういうことなので、お屋敷に帰りましょう」
これ以上ここにいると帰れなくなりそうだ。
英雄の活躍に街の人々が興奮し、騒ぎ始めているため、このまま残っていたら彼らが押し寄せて来るかもしれない。
……少し疲れたので早く帰りたい。
街の人々が魔獣の死骸に近付かないよう、騎士達が抑え込んでいるが、それも長時間は難しいでしょうね。
ユナとシーリスが頷いた。
「あちらに馬車を待たせております」
「ありがとう」
シーリスにお礼を述べて、示された方へ歩いていく。
人々に話しかけられたけれどユナとシーリスが上手く壁になってくれたおかげで何とか馬車まで辿り着くことが出来た。
急いで馬車に乗り込む。
外で御者の声がする。道に集まった人々に声をかけて、避けてもらっているようだ。
せっかくのデートだったのに残念ね。
しかもダメになった理由がリチャードだなんて不愉快だわ。半年も経ってどうして戻って来たのかしら。
今更王都に戻ったところで彼の居場所はない。
あの強い視線がまだ纏わりついているみたいで気分が悪くなりそうだった。
それに魔獣を初めて見たせいか気が昂ぶってしまっている気がする。
自分自身の手を見れば、僅かに震えており、それに気付いたのかユナが包むように手を握ってくれた。
「エディス様、もう大丈夫です」
ユナの言葉にわたしは頷いた。
「ええ、そうね、ライリー様が打ち倒してくださったのだもの」
でもリチャードのことが気がかりだった。
あの魔獣はリチャードの落とした石を元に生まれてきたように見えた。あの石は魔石だったのだろう。
でも魔石は魔獣を倒して手に入れるものではないの?
あんな風に魔石が魔獣になるなんて聞いたことがないわ。そうだとしたら魔石の扱いはもっと厳重になされるはずだ。
あれをどうやって手に入れたかは知らないけれど、わたし達を襲おうとしたことだけは明確に理解出来た。
あの騒ぎはわたし達にも関係ある。
何か他に出来ることはないかしら。




