はこ
ヤンデレ好きな人には、楽しんでもらえるのではないかと思います。
『はこ』
雪子 21歳。
神崎 剛 高校三年生。
神崎 碧 高校一年生。タケシの妹。
壺のセールスマン 男性。20代
夏子 25歳。雪子の姉。
婦人警官 二人
刑事
幕内から声が聞こえてくる。幕は下りたまま。
剛 「おい見ろ! 人が倒れてる!」
碧 「うん…、倒れてるね」
足音。
剛 「大丈夫ですか。…大丈夫ですか! (バカでかい声)…大丈夫ですかあ! だめだ意識がない! 碧! AED持って来い!」
碧 「そんなものどこから…」
剛 「じゃあ、救急車を呼べ! 心臓マッサージやるぞ!」
碧 「…もしもし、消防ですか?」
剛 「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十…。二、二、三、四、五、六、七、八、九、十…。三、二、三、四、五、六、七、八、九、十…。四、二、三、四、五、六、七、八、九、十…」
開幕
一場 公園。
剛と碧板付き。剛は原則として下手側を向いていて、碧は原則として剛に背をむけている。二人が会話しているのを、物陰から雪子が写真を撮り続ける。剛、缶コーヒーの空き缶を手にしている。
碧 「アニキ…、言い訳は?」
剛 「しょうがないだろう。人が倒れたんだから…」
剛、空き缶をベンチの背もたれの上に置く。
碧 「だからって、なんであんたが救急車にまで付き添わなきゃいけないの! あのあとすぐに行ってれば時間に間に合ったじゃない! お人よしもいい加減にしなさいよ!」
剛 「いや、あの人の身内がそばにいたわけじゃないし」
雪子、空き缶を手にしようと何度も挑戦するが失敗する。
碧 「昨日の映画はねぇ、友だちのお父さんのコネで特別に日本未発表の作品の試写会に呼んでもらったんだよ!」
剛 「いや、わかってるって」
碧 「わかってない。まったくわかってない! あんたまさか、妹と恋愛映画を観るのがいやだとか、そんな気持ち悪いこと考えてるんじゃないでしょうね」
剛 「いや、そういうこだわりはないよ」
碧 「…あたしだってねえ、あんたとそんな映画なんか見たくなかったよ気持ち悪い!」
剛 「そうか…。それはともかく、埋め合わせをするから…」
碧 「埋められるわけないでしょ! あたしは明日カオリのお父さんに会わなきゃならないんだよ! 感想聞かれたらなんて言えばいいの!」
剛 「そっちはなんとかしてくれ!」
碧 「なんとかするって、どうすればいいの!」
剛 「いや、悪かった。すみません。ごめんなさい! 勘弁してくれえ!」
剛、上手に退場。
碧 「逃げられないよ。一緒に住んでるんだから!」
碧、剛を追いかける。雪子、剛が忘れて行った空き缶を取ろうとする。碧、立ち止まって下手を向く。雪子、隠れる。碧、ベンチまでもどる。
碧 「まったく、エチケットがなってないんだから…」
碧、剛が忘れた空き缶を両手で抱えて上手に退場する。雪子、物陰から出て上手をきつくにらみつける。スカートのポケットからスタンガンを取り出す。バチバチッという音。雪子、上手に走って退場。
暗転。
二場 雪子のマンション
雪子、剛板付き。
壁いちめんに剛の写真が所せましと貼られている。
壁に一か所だけ、白いハンカチが貼られている箇所がある。
天井からロープが斜めに張られていてその端が上手側のテーブルの脚に結ばれている。
ソファーに剛が寝かされている。雪子が寝ている剛の顔をじっと見ている。
剛 「うーん…」
雪子 「うふ。目が覚めた?」
剛 「うわぁぁっ!」
剛、跳ね起きる。
剛 「ここは…」
雪子 「わたしの部屋」
剛 「ああ。思い出したぞ。外を歩いていたらいきなり電気ショックみたいなものを感じて気絶したんだ。ありがとうございます。あなたが助けてくれたんですか?」
雪子 「そうよ」
剛 「すみません…」
剛、ポケットを探る。
剛 「あれ、スマフォがないや。どこかで落としたかな。今何時ごろですか?」
雪子 「朝の六時半」
剛 「うわあ。半日以上寝ていたことになる…。すいません、帰ります!」
雪子 「だめ」
剛 「もう大丈夫ですよ」
雪子 「帰っちゃだめ」
剛 「…なぜ?」
雪子 「わたしたちは、愛し合っているから」
しばらくの間。雪子がそっと壁を指さす。
剛 「うわぁぁぁっ!」
剛、ゆっくりと雪子の方を見る。
剛 「あなたはたしか、このあいだ道で倒れてた人じゃ…」
雪子 「雪子って呼んで」
剛 「えーと、あの…」
雪子 「雪子って呼んで!」
剛 「雪子さん?」
雪子 「呼び捨てにしろ!」
剛 「雪子…」
雪子 「(照れたようにうつむく)うん」
剛 「親が心配するから帰してもらえませんか?」
雪子 「敬語をつかうな」
剛 「あの…」
雪子 「つかうな!」
剛 「(やけくそ)親が心配してるから帰せ!」
雪子 「大丈夫。あなたは親元を離れてこの県に来て下宿している。外泊してもバレることはない」
剛 「よく知ってるな…」
雪子 「神崎剛くん。わたしはあなたのことならなんでも知っている。…うれしい?」
剛 「怖いよ!」
雪子、包丁を取り出す。
雪子 「う・れ・し・い?」
剛 「うれしいです…」
雪子 「『です』?」
剛 「うれしいぞ、こんちくしょう!」
雪子 「(にっこりと笑う)わたしもうれしい。恋人に喜んでもらえてうれしい」
剛 「あの、恋人って…」
雪子 「だってあなたわたしを助けてくれたんだもんね。嫌いな女の子なんか助けないよね。だからあなたはわたしのことが好きだってことだもんね。わたしとあなたは相思相愛だもんね。ということは恋人だもんね。いや夫婦だもんね。いや一心同体だもんね。前世からつながってるもんね。魂からつながってるもんね。だから他の女の子を見る必要なんかないもんね。外に出たら見たくなくても他の女の子を見ることになっちゃうもんね。わかってるのよ。あなたがわたし以外の女の子なんか見たくないって思ってるのは。だけど外に出たり学校に行ったりしたらほかの女の子を見ずには生活できないもんね。他の女の子の声を聞いたり、話しかけたり、吐息を浴びたりしなきゃいけないもんね。あなたがそんなこと気持ち悪いと思ってることは知ってるのよ。だけどここにずっといればわたしだけ見ていられる。心配いらないわ。あなたの世話はぜんぶわたしがやってあげるから。安心してね」
剛 「ぜんぜん安心できないんだけど」
雪子 「えっ?」
剛 「なんでもありません! あの、あなたは…」
雪子 「『おまえ』って呼べ…」
剛 「だけど年上の人を『おまえ』とは…」
雪子 「まだ二十一よ」
剛 「二十一…」
雪子 「うん」
剛 「女の『子』…」
雪子、包丁を構えなおす。
剛 「ごめんなさい! 今のはおれが悪かったから許して!」
雪子 「許してあげる…。わたしは寛大だから…」
剛 「だったら帰してほしいんだけど」
雪子 「ダメ」
剛 「せめて妹には連絡させてくれ!」
雪子 「妹…。あなたと同じように県外から出てきて、今はあなたの部屋に同居している妹…」
剛 「本当によく知ってるな」
雪子 「だけどそこは彼女ひとりの部屋になるの。今日からここがあなたの部屋」
剛 「とにかく連絡させろ!」
雪子 「彼女に連絡する必要なんかない。あなたは妹を迷惑に思っている。部屋代を節約するためだけに自分の部屋に転がり込んできた妹が迷惑なんだ。あなたは昨日、公園で妹と話していた。妹はあなたをせいいっぱい罵倒していた。あんな短い間に二度もあなたのことを『気持ち悪い』と言った。あなたは妹が迷惑そうだった。あの妹があなたを心配したりするわけがない。わたしならあなたにやさしくしてあげられる。あなたにあんないやな思いをさせたりしない。あんな妹と住む必要はない。あなたはわたしと住めばいい」
剛 「いきなり一晩帰って来なかったら、心配しなくても怪しむだろ!」
雪子 「だいじょうぶ。わたしが連絡しておいた。メールを送っておいた。そっけない返事が返ってきた。心配もしていないし、怪しんでもいない」
剛 「…あのさ、それはともかく、腹が減ってきたんだけど」
雪子 「同居している妹が家事を全くしないため、あなたはそこそこ料理がうまい」
剛 「本当に何でも知ってるな」
雪子 「得意料理は出し巻き卵と茶碗蒸し」
剛 「おれが朝飯をつくるぞ!」
雪子 「わたしのぶんも?」
剛 「あたりまえだ」
雪子、しばらく考えている。
剛 「だから、包丁を貸せ!」
雪子 「ダメ。レンジの中にあなたの朝食が入っている。食べて」
剛 「おれが…」
雪子 「食べて!」
剛、レンジのふたを開けて皿を取り出す。
剛 「カレーねぇ…。ゆうべの残りなのか?」
雪子 「あなたに残り物を食べさせたりしない。早起きしてずっと煮込んでいた」
剛 「何も朝からカレーでなくても」
雪子 「あなたは育ちざかり。カツカレーの方がよかった?」
剛 「そんなことありません…」
雪子 「材料はニンジン、タマネギ、ジャガイモ、牛肉、市販のルー、…それに隠し味」
剛 「隠し味って何入れたんだ?」
雪子 「言ったら隠し味にならない」
剛 「言ってくれないと食べられないんだけど。怖くて」
雪子 「食べて!」
剛、テーブルのそばの椅子に座り、おそるおそるカレーを食べる。
剛 「…いや、普通においしい」
雪子 「よかった」
剛 「だけどなんだかときどき、鉄っぽい味がするんだが」
雪子 「鉄分は成長に大切。隠し味にほうれん草を入れてみた」
剛 「全然ほうれん草の形が見えないんだけど」
雪子 「ミキサーでジュース状にしてから入れた。だからこのカレーは全く怪しくない!」
剛 「カレーよりもおまえの方が怪しいと思う」
雪子が何か言おうとしたとき、上手からチャイムが鳴る。雪子、出ようとしない。さらに鳴る。雪子、出ようとしない。さらに鳴る。
剛 「出なくていいのか? 怪しまれるぜ」
雪子 「…テーブルの下に隠れろ。もしおかしな真似をしたら…」
剛 「…わかった」
剛、テーブルの下に隠れる。雪子、鍵を開けてドアを開ける(パントマイムで良い)。上手に一度退場して再登場。その後ろからセールスマン登場。
三場
雪子 「ええと、あなたは…」
セールスマン「わたしは世界中の人々の幸福を願っている者です」
雪子 「それは…、すばらしいことですね」
セールスマン「もちろんあなたの幸せも願っています」
雪子 「ありがとうございます…。ただ、今ちょっと取り込んでいるので…」
セールスマン、部屋を見渡す。
セールスマン「あなたはいま、幸せですか?」
雪子 「えっ」
セールスマン「あなたはいま、幸せですか?」
雪子 「はいっ!」
セールスマン「わたしにはその人の霊気が見えるんです…。あなたの霊気が今、ちょっとおちこんでいる」
雪子 「(不安そうに)そんな…」
セールスマン「わたしの前では自分をとりつくろうことはない。あなたは今、年下の男性に恋をしているのではないですか?」
雪子 「どうしてそれを…」
セールスマン「とても素敵な男性ですよね」
雪子 「はいっ!」
セールスマン「違っていたらお許しください。だけど彼は、あなたの気持ちに応えようとしないのではないですか?」
雪子、返事をしない。
セールスマン「あなたは女性として魅力的だ。ならばなぜ彼が応えようとしないのか? あなたの霊気が落ちているからです。人間は生まれながらにして宇宙からパワーをもらっている。しかしそのパワーは定期的に上下する。霊気が落ちるとは宇宙パワーが落ちている状態のことです。しかしこの壺は、宇宙パワーを吸収することができます」
セールスマン、アタッシュケースからちっぽけな壺を取り出す。
セールスマン「これはお釈迦様のお骨を収めた壺のレプリカです。むろん本物は手に入りませんが、これを持っているだけであなたの運気がぐっと上がります。普段なら八万円ですが、あなたの恋に免じて半額の四万三百二十円でお譲りできます」
雪子 「ちょっと高いんじゃ…」
セールスマン「では、消費税分も削って四万円でお譲りします!」
雪子 「本当にこれがあればあの人は…」
セールスマン「もちろんです! さらにオプションとして…」
セールスマン、アタッシュケースからパンフレットを取り出す。
セールスマン「これらの付属品を取り付ければ、彼が応えてくれるだけではなく、それ以上のことも…」
雪子 「それ以上のこと…」
雪子、パンフレットをのぞきこむ。
剛、テーブルから出てくるとセールスマンに向かってドスドス歩く。腕をつかんでセールスマンを上手に連れて行く。雪子、あっけにとられている。
剛 「出てけ、霊感商法。悪質セールス。二度とここへ来るんじゃねえ!」
セールスマン「(剛に)あなたはいま不幸じゃないですか? あなたのお小遣いでも、幸運のネックレスくらいなら…」
剛、ドアを開けてセールスマンを連れて上手に一度退場する。
剛 「世間知らずのお嬢さんをダマそうとするな! おとといきやがれ!」
剛、舞台にもどってくる。(セールスマンを部屋の外に追い出したということ)
剛 「(雪子に)おまえなあ! あんなのを部屋に入れちゃ駄目じゃないか!」
雪子 「あの人は、あなたのことがわかっていた…」
剛 「そんなこと、この部屋に入って写真の大群を見ればだれでもわかるわ!」
雪子、壁の写真を見る。
雪子 「そうね…。私はだれの話でも最後まで聞く習性があるの」
剛 「おれと同じだな。…って、そういう問題じゃない」
雪子 「…ごめんなさい。ありがとう」
雪子、上手に行く。ドアに鍵をかける音。
しばらくの間。
剛 「…なにをやってるんだ、おれはぁぁっ!」
四場
雪子 「あなたはまたわたしを守ってくれた」
剛 「まあ…、なりゆきだな」
雪子 「あなたとわたしとは、運命がある!」
剛 「なりゆきを言い換えただけだな」
雪子 「人はなかなかだれかの『無条件の味方』にはなりえない。だれかがその人の敵になれば、自分もその人の敵にならざるを得ないから。だけどあなたとわたしは特別。あなたはわたしを守る運命にある。わたしはあなたに守られる運命にある」
剛 「おまえは、神崎碧か」
雪子 「あなたの妹の名前ね。勉強はあなたの方ができるのに、あなたより運動ができることを鼻にかけている。あんな子よりも、わたしのほうがあなたにずっとやさしく…」
剛 「そうでないんだったら、違うな」
しばらくの間。
雪子、ポケットから剛のスマフォを取り出してメールを打ち始める。
剛 「何してるんだ…」
雪子 「あなたの名前で、妹を公園に呼び出す」
剛 「何のために!」
雪子 「話し合いよ」
剛 「その間に、おれが逃げるぞ」
雪子 「ドアの外にバリケードを作っておくわ」
剛、雪子に飛びかかろうとする。
雪子 「(包丁をかまえて)動かないで!」
剛、ビクッとする。雪子、テーブルのロープをほどく。
雪子 「わたしがこのロープを離したら…、落ちてくるわよ」
剛、天井を見る。
剛 「…ダンベル?」
雪子 「あんなものが当たったら、大けがするわよ。もっともケガをして動けなくなってくれた方が、わたしはうれしいけれど」
剛 「チェーンで結んであるだけだ。せめて金具で固定しろよ!」
雪子、メールを打ち終わるとロープをテーブルの脚にくくりつける。
雪子 「じゃあ、留守番を頼んだわよ」
剛 「話し合いだろう? 包丁を置いていけ」
雪子 「そのハンカチの下を見てみなさい」
雪子、上手に退場。
剛、ハンカチをめくる。その下からナイフを突き立てられた碧の写真。
剛 「うわあっ!」
剛、上手を見る。
剛 「おっ、おい!」
上手から、雪子が後ずさりしながら登場。雪子が部屋から出て行くのを妨害するかのように夏子登場。
五場
夏子、上手から中央に向かってずんずん歩く。雪子、あとずさりする。夏子に隠すように包丁をテーブルに置く。剛、キョロキョロしているが、とりあえずテーブルの下に隠れる。
雪子 「夏子姉さん、わたしはこれから出かけるんだけど…」
夏子 「出かけたいんだったらハンコを押しなさい」
雪子 「そんな…、この部屋はお母さんが私に遺してくれたものよ」
夏子 「あんた、お母さんに何をしてあげたの? お母さんが休んだときに何をしてたの?」
雪子 「あのころ私は、体調が悪くて…」
夏子 「フン。うつ病? うつ状態? PTSD? そんなもの病気でもなんでもないじゃないの!」
雪子 「お母さんがいなくなっちゃうかと思うと怖くて…」
夏子 「そう思ってたのはあんただけじゃない! わたしだって怖かったわよ! だけど怖がってばかりもいられない。体を悪くしたお母さんが目の前にいるんだから! 結局退院したお母さんを私の家でひきとった! わたしだって仕事があったのに、辞めざるを得なかった! 収入は減るし、旦那にも迷惑をかけた! 前にも言ったけれど、吸入器を家に入れて痰までわたしが取ったのよ! それに毎日毎日オムツを換えて…」
雪子 「もちろん、感謝しています」
夏子 「だったら形であらわしなさいよ!」
雪子 「姉さんには家がちゃんとあるでしょう…」
夏子 「ふざけないで! あの家はね、わたしと旦那が必死に働きながら建てたものなんだよ! ローンがあと三十年も残ってる! あんたみたいに短大出てからフラフラしていて『家がほしい』とかいう甘ったれとわたしたちは違うんだ!」
雪子 「それでも、この部屋はお母さんが名指しでわたしに…」
夏子 「お母さんはね、そんなあんたを心配してわざと名指ししたみたいだけれどわたしは納得できないわ! お母さんに何もしなかったあんたがマンションの部屋をもらえて私には何もないなんて許せない!」
雪子 「この部屋がなくなったらわたしは住むところが…」
夏子 「自分で働いて買いなさい! げんにわたしはそうしているんだから!」
夏子、勝手に箪笥の引き出しを開けて雪子の実印を取り出す。雪子を椅子に座らせ、紙を取り出してテーブルの上に置く。
夏子 「これ…、説明しなくてもわかるわよね。遺産放棄の書類。さっさと名前を書いて実印押しなさい!」
雪子、書類の前で呆然としている。
夏子 「早く!」
雪子、のろのろとペンに手を伸ばす。その時、剛がテーブルの下から出てくる。
剛 「そういうのはよくないんじゃないかなぁ…」
雪子、驚く。
夏子 「な、なによ、あんた…。そんなところで何してたの?」
剛、上手側。座っている雪子のそばに立つ。
剛 「ことの経緯はどうであれ、お母さんが譲ったんだったらもうこの部屋は雪子のものだろう。それを無理に取り上げたら恐喝だよ」
夏子 「何も知らないくせに勝手なこと言うんじゃないよ!」
剛 「何も知らない方が、客観的な意見を言うことができることもある。それに、この部屋を雪子に譲るっていうのが元の持ち主の意志だっていうことは知ってるぞ。故人の遺志に従うべきだっていうのは、そんなに変な考えじゃないだろ」
夏子 「何よ、『雪子』って。呼び捨てにしてえらそうに。きみ、格好を見ると高校生みたいね。こんなに朝早く女の部屋で何してるの? 学校に報告されたくなかったら、すぐに出て行きなさい!」
剛、何も言わずに夏子をじっと見ている。雪子、置いてあった包丁を取り、客席に見えるように背中に隠す。
夏子 「何やってるの? さっさと出ていきなさいよ!」
剛 「断る」
夏子 「何言ってるの? 君にそんな権利が…」
剛 「この部屋は雪子のものだ。あなたにおれを、この部屋から追い出す権利は無い」
夏子 「(雪子に)雪子! この子に出ていくように言いなさい!」
雪子、何も言わない。
夏子 「(剛に)わかった。君はこの部屋に忍び込んだんだ。だから隠れてたのね。さっき、雪子はわたしが来ているのにもかかわらず、この部屋から逃げようとしたのもそのせいでしょう。君が雪子を威して居座ってるってわけね!」
剛 「違うな。おれはこの部屋の主である雪子から招き入れられたんだ」
夏子 「はあっ? どこにそんな証拠が…」
剛、壁じゅうに貼られた写真を指さす。夏子、写真と剛の顔を見比べる。
夏子 「きゃぁぁぁぁっ!」
夏子、上手に逃げる。退場。
六場
雪子 「ねえ…、なんであたしの肩を持ったの? 姉さんの言うことにも一理ある。というより、たいがいの人は姉さんの話を聞くと、そっちに味方するのに」
剛 「なんていうか…、情がうつったのかな。これだけ関わっちゃったら知らないフリはできないっていうか…」
雪子 「…ありがとう」
雪子立ち上がって、ドアの鍵をかける。
剛 「もしかしておれ、自分のクビをしめてるんじゃ…」
雪子 「あなたはやっぱり前世からの恋人なのね。あの男とは違うわ…」
剛 「あの男って…」
雪子 「気になる? そう。やっぱり気になるのね。わたしも短大生のころに彼氏がいたんだ…」
剛 「へえ。どっちから告白したんだ?」
雪子 「わたしたちに言葉なんか必要なかった」
剛 「この場合は必要だと思うんだけど…」
雪子 「女子短大に通っていたわたしには男子の同級生がいなかったけれど、ある日学食に他の大学の男子が来たの。一目でこの人はわたしの彼氏になると思った。食後の彼のあとをつけて下宿を確認したわ。郵便受けに入っている手紙を見たら名前がわかった。それから毎日、彼の下宿のそばで帰りを待つようになったの。…あら、妬いちゃった?」
剛、何も言わない。
雪子 「冗談よ…」
剛 「冗談抜きで怖いよ!」
雪子 「それから彼の好物を調べて、彼が学食に来るたびにお弁当を作って持っていくようになったの」
剛 「営業妨害だな…」
雪子 「だけど彼は遠慮して、わたしの作ったお弁当を食べようとしなかった。学食の360円の定食を食べてもわたしのお弁当は食べない」
剛 「弁当って、何入れたんだ」
雪子 「カレー!」
剛 「それも、原因だろうな…」
雪子 「そのうち彼が学食に来なくなった。病気になったの? ケガでもしているの? わたしは心配で心配で…。いつもは見つからないように距離を取っていたけれど、その日だけは窓のすぐ外に立った。もちろんカーテンが閉まっていて中は見えないけれど、いつかは開くと思ってずっと立っていた。そのうち雪が降り出したわ。頭のうえが雪でびしょぬれになって…、朝になって彼がカーテンを開けた。彼はちょっと悩んだ顔をしていたけれど元気そうだったわ。わたしはうれしくて思い切り笑ったわ。…だけどそのあと、わたしが彼にどんな仕打ちをされたかわかる?」
剛 「警察を呼ばれた」
雪子 「なぜそう思うの?」
剛 「普通はそうするんじゃないか?」
雪子 「あなたも警察を呼びたいの?」
剛 「(ちょっとの間)そんなことはないぞ」
雪子 「今の間はなに?」
剛 「それで何をされたんだ?」
雪子 「彼はわたしに一言の断りもなく下宿を引き払って、遠くへ行ってしまった」
剛 「…そうか」
雪子 「こんなわたしをかわいそうだと思う?」
剛 「全然」
雪子、包丁を構える。
剛 「『かわいそう』だなんて上から下への気持ちだよ。年上の女性に持っていい感情じゃない。おれは大人の女に同情するほど傲慢じゃないよ」
雪子 「もう一回『年上の女性』とか、『大人の女』とか言ったら刺すわよ!」
剛 「落ち着け!」
雪子 「わたしはあなたの上に立ちたいなんて思わない! この世でひとりだけでも、わたしをかわいそうだと思ってほしい!」
剛 「おまえのことをかわいそうだとは思わないが、かわいいと思うよ」
雪子 「…かわいい」
剛 「だってそうじゃないか。ちょっと重いけれど、健気で一途で…、素直にかわいいと思う」
雪子 「かわいい…。わたしがかわいい…」
剛 「そうだ」
雪子 「なら…、もっとわたしを見て」
剛 「見てるけど」
雪子 「よそ見をするな!」
剛 「してないぞ」
雪子 「だってわたしはこの部屋の天井よりもかわいい。床よりかわいい。ソファーよりかわいい。壁よりかわいい。テーブルよりかわいい。遺産放棄の書類よりかわいい。ボールペンよりかわいい。箪笥の中のスタンガンよりかわいい!」
剛 「あるのか!」
雪子 「実印よりかわいい。椅子よりかわいい。印鑑証明書よりかわいい!」
剛 「それは間違いない」
包丁を握りしめる。
雪子 「そして、あなたの妹よりかわいい!」
剛 「話がもどった! いちばんもどってほしくないところにもどった!」
雪子 「それじゃあ、お留守番をお願いね」
雪子、包丁を持ったまま上手へ。
剛 「待て。碧を傷つけたら許さないぞ。おまえを一生許さない」
雪子、振り返る。
雪子 「そんなことはない! あなたはわたしをかわいいと言ってくれた。あなたは私の恋人なんだ。前世からつながってるんだ。あなたは私のやることをすべて許してくれる。お母さんがいなくなったあと、あなたがこの世で唯一の、わたしの『無条件の味方』なんだ!」
剛 「おまえのそういうところが甘ったれてるっていうんだ。なんでおれが、妹を傷つけた奴を許さなきゃならないんだ!」
雪子 「あなたは私を三回助けてくれた。一回目は道で倒れていたとき。二回目は霊感商法に騙されそうになったとき…」
剛 「おまえもかわいいだけじゃなくて、守られるより守る女になれ」
雪子 「…三回目は姉さんに家を取り上げられようとしたとき!」
雪子言いながら、包丁を置いて剛に向かって駆けよる。
剛、腕を伸ばして思い切り雪子を突き飛ばす。
雪子、突き飛ばされて尻もちをつく。
雪子 「そんな…」
剛、腕をのばしたまま。吐く息が荒い。雪子を見据える。
雪子、うつむいていたが視線を上げていく。天井を見て驚く。
雪子 「(呆然として)四回目だ…」
ダンベルが、剛のすぐ上手側の足元に落ちてくる。ダンベルが床に叩きつけられる。大きな音。
雪子 「チェーンがほどけて…」
剛 「(腕を下ろして)おいっ、ケガは…」
雪子、立ち上がって包丁を取る。
雪子 「ぜったいにあなたを逃がさない!」
剛 「何をやってるんだ。おれはぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
剛、床を転げながらのたうちまわる。
雪子は包丁を構えたまま、そんな剛を見据えている。
暗転。
七場 野外。
碧板付き。立ったままスマフォをにらんでいる。
碧 「ううん。やっぱりおかしいなあ…」
下手から、夏子登場。怒ったように歩いている。
夏子 「なんだったのよ、あれは…。わけわかんない」
夏子を追いかけるように下手からセールスマン登場。
セールスマン「(夏子に)あなたいま、自分を不幸だと思っていませんか?」
夏子 「はいっ?」
セールスマン「たとえば身近な人の家の壁に、知らない男の写真が大量に貼ってあったとか…」
夏子 「…まさか私があの部屋から出てきたところから尾けてきたの? あなた、ストーカー?」
碧、ビクッとする。
碧 「ストーカー。まさかね…」
セールスマン「いいえ。私はひとの霊力を見ることができるんですよ。もしかしたらその部屋の主は若い女であるにもかかわらず、早朝から若い男がいたなんてことがあったんじゃないですか?」
碧、セールスマンと夏子の会話を聞いている。
夏子 「警察を呼ぶわよ!」
セールスマン「待ってください。わたしはあなたが幸せになるための手伝いをしてるんです。その男はまだ高校生くらいじゃなかったですか? あなたのお知り合いがその男の魔手から逃れるためには、この幸運の壺を…」
セールスマン、アタッシュケースから壺を取り出す。
碧 「(夏子に)あの…、その高校生って常盤学園の制服を着ていませんでしたか?」
夏子 「(急に話しかけられて驚きながらも)ええ。着てたわよ」
セールスマン「(碧に)その高校生を探してるんですか? 見つからないのは霊気がよくないからです。不幸を幸福に変えるためには宇宙パワーを…」
碧 「あんたに話しかけられたのがいちばんの不幸だ!」
セールスマン「あなたが壺を買えば、私が話しかけることもなくなります。あなたも幸せ、壺が売れて私も幸せ。これこそがウィンウィンといえるでしょう」
夏子 「どうしようかしら。女の家に忍び込んで自分の写真を壁に貼らせるなんて…。警察に話したらおおごとになるし妹も巻き込むことになるから、学校に言って処分してもらえばいいかしらね…」
碧 「壁一面に写真が貼ってあったって…。その女の人がストーカーで、高校生を自分の部屋に監禁しているって考えた方が普通じゃないですか?!」
夏子 「…まさか! あの子がそんなことを…。だけどあの子、背中に何か隠してたみたいだったけど…。あれは刃物…。包丁?」
碧 「その部屋はどこにあるんですか!」
夏子 「あなた、高校生みたいだけど今日は平日よ。学校はどうしたの?」
セールスマン「壺じゃなくても、この幸運のブレスレットを買えば、きっとその部屋がみつかる…」
碧、片足を前に出してドンと踏み鳴らす。
碧 「(大声で)さっさと言えぇぇぇっ!!」
セールスマンと夏子、一歩あとずさる。
セールスマン・夏子「はい…」
暗転。
八場 雪子のマンション
剛と雪子板付き。剛は下手側。雪子は上手側。剛は床に転がったまま。
剛 「そうだ! 寝てる場合じゃないんだ」
剛、起き上がる。
剛 「(雪子へ)スマフォをちょっと貸してくれ」
雪子 「通報するつもりでしょう」
剛 「おおごとにするつもりはないよ」
雪子 「ダメ。さっき『警察を呼びたいの』と聞いたとき、三秒も考えてから答えた」
剛 「前世からの恋人じゃなかったのか?」
雪子 「前世からの恋人なのに、そうでないように言った。あなたは信頼できない」
剛 「妹が心配するから連絡させてくれ」
雪子 「あなたの名前でメールしたのに、妹から返信がない。あの女は心配などしていない」
剛 「返信してこないってことは、おまえが待ち合わせ場所に行っても、あいつはいないんじゃないか?」
雪子 「…たしかに」
雪子のポケットの中の、剛のスマフォの着信音がいきなり鳴り出す。
剛 「だれからだ」
雪子、ポケットからスマフォを出す。
雪子 「あなたの妹」
剛 「出させてくれ」
雪子 「出なくてもあの女は心配なんかしないわ」
剛 「出なければ怪しまれるぞ」
雪子 「あなたを信頼できない。わたしにわからないように、妹に通報しろと促すかもしれない」
着信音がずっと続いている。
剛 「スマフォをスピーカーモードにする。それでいいだろう?」
着信音が続く。
剛 「頼むよ…」
雪子、スマフォをソファーの上に放る。剛、慎重にスマフォを取る。耳に当てる。
剛 「もしもし」
碧(電話) 「(怒鳴る)今、どこにいるの!」
剛、思わず耳をスマフォから離して、手で押さえる。
剛 「しまった。スピーカーにしてたんだ…」
雪子 「(スマフォに)どこでもいい。あなたは兄からのメールに返信しなかった。心配などしていない。あなたが知る必要はない」
碧(電話)「(雪子に)あんた、アニキのスマフォを見たの! 信じられない! 人間としておかしいんじゃないの!」
剛 「(スマフォに)おまえも勝手に見るじゃねえかよ」
碧(電話)「何言ってんの! あんたのものはあたしのもの。あんたのものはすべてあたしのもの。あんたのおかずはあたしのおかず。あんたのがもらったチョコレートはあたしのおやつ。あんたのスマフォはあたしのスマフォ…」
剛 「ジャイアニズムだなあ…」
碧(電話)「だからあんたの敵は…、それがどこのだれであろうとあたしの敵!」
しばらくの間。
剛 「この人はおれの敵じゃあないぞ…」
雪子 「(剛に)あなたはわたしのもの。もしも奪われたならば、死体にしてでも取り返す。そしてわたしは、髪の毛一本にいたるまであなたのもの!」
剛 「おまえら実は、同じタイプの人間だろ…」
雪子 「そんなことはない。あなたの妹は、わたしに比べて素直さが足りない」
剛 「おまえは素直すぎるのが問題だけどな…」
夏子(電話)「雪子! お願いだから剛さんを解放して! 解放してくれたら、その家をあんたにあげるから…」
剛 「それは、ムリでしょうねえ…」
夏子(電話)「なぜ!」
剛 「この家はもともと、雪子のものですから」
夏子(電話)「わかったわ。この話はもう絶対にしない。その部屋は最初からあなたのもの。…雪子、ハワイで迷子になったときのことを覚えてる? あのときあなた、とってもやさしかったんだよ! 言葉がわからない土地で小学生が二人だけになって…、ものすごく心細かった! だけどあなたは『お姉ちゃん、大丈夫だよ』『見つけてもらえるに決まってるよ』って…。あなたがいてくれてどんなに心強かったか! お母さんがいなくなった。わたしは、あなたがどんなに孤独なのかわからなかった! ここまで追いつめられていたなんて! わたしには旦那がいる。だけどあなたにはだれもいない! わたしは一緒にすんでいる旦那に気をつかうあまり、あなたをほったらかすようになった。あんなひどいことを言って…。わたしがあなたに甘えていた! これからは、わたしが味方になる! 犯罪者になっても、世界中が敵になっても、わたしだけはあなたの味方だ!」
雪子 「世界なんか知るか! 地球の裏側で何が起きていてもわたしにはどうでもいい! わたしの世界はずっと狭い! お母さんが死んでから、『世界』はずっとわたしを受け入れなかった! だけど今は違う! わたしにとって世界とは、彼とわたしとそれ以外!」
夏子 「これだけのことをしちゃったのよ! わたしがあなたを受け入れるから、剛さんだけはあきらめてちょうだい!」
雪子 「(叫ぶ)無理!」
上手の幕内から、刑事の声。
刑事 「犯人に告ぐ。我々は警察の者だ。ここを開けなさい!」
雪子 「(剛に)通報させたの…」
碧(電話)「あたしが自分で通報したの!」
剛 「(スマフォに)そうか、ありがとう」
雪子 「『ありがとう』なんだ…。おおごとにしたくないって言ってたのに!」
剛 「心配してくれてありがとうっていう意味だよ」
碧(電話)「勘違いするんじゃない! だれがあんたの心配なんかするか!」
雪子 「この女はいまはっきりと言った。あなたの心配などしていない」
剛 「そうじゃないことは、おまえももうわかってるはずだぜ」
碧(電話)「メールの文章が変だったから、わざと返信しなかった。アニキがそれを見たら、絶対に電話してくるだろう。だってこのあたしが、アニキからのメールを十秒以上放置するわけがないもの!」
雪子 「怖いわねえ、あなたの妹。…ヤンデレ?」
剛 「おまえが言うな」
碧(電話)「だけどいつまでたっても電話が来ない! これはきっと、アニキになにかあったに違いないと思った!」
雪子 「ああいう女をそばにおいておくと苦労するわよ」
剛 「だから、おまえが言うな!」
刑事(幕内から)「犯人へ! 人質を解放して出てきなさい!」
雪子 「人質なんかじゃない! 恋人だ!」
剛 「恋人でもないなあ…」
雪子 「えっ!」
碧(電話)「『えっ』て…」
剛 「まだ告白されてないし…」
刑事(幕内から)「すでに部屋の鍵は開いている! ドアチェーンを外しなさい!」
雪子 「告白したら、受けてくれるの?」
剛 「正直言って、これだけかわいい人に言い寄られたら、悪い気分ではないよ」
雪子 「だったら…」
刑事(幕内から)「犯人に告ぐ! 君のお姉さんは泣いているぞ!」
雪子 「ウソだ! あの人がわたしのために泣くはずがない!」
碧(幕内)「ちょっと刑事さん! さっさとアニキを助けなさいよ!」
夏子(幕内)「(碧に)待って! わたしが妹を説得するから!」
碧(幕内)「無理だよ! あんた妹に信頼されてないじゃん!」
夏子(幕内)「違うのよ! あの子は意地になってるだけなの!」
碧(幕内)「あんたが意地にさせたんでしょ!」
夏子(幕内)「だからこそ、わたしがあの子を説得しなきゃいけないの!」
碧(幕内)「それよりすぐに、アニキを助けた方がいいって!」
セールスマン(幕内)「わたしは、壺を買うのがいちばんいいと思います」
夏子 (幕内)「(セールスマンに)なんであんたまで来るのよ!」
セールスマン(幕内)「すべての人の幸福を願っているからです」
刑事(幕内から)「これより、チェーンを電動カッターで切断する! 強行救出に入る!」
上手から、電動カッターの音(セリフの邪魔にならない程度の音)。
セールスマン(幕内)「婦警さん、幸運の壺を買いませんか。きっと無事に人質を救出できて、犯人を逮捕できますよ」
婦警の一人(幕内)「公務執行妨害で逮捕しますよ」
剛 「(雪子に)おまえ、女子校育ちだったな。男のメンツがわかってない。人を守るということは尊厳を守ることでもある。女に気絶させられて監禁されるなんて、耐えられるわけがないだろ!」
雪子 「わたしは女のメンツなんて最初から捨てている」
剛 「そういう大事なものは捨てたらダメだろ」
雪子 「あなたの妹は、女のメンツが捨てられない。だから素直になれない」
碧(電話)「あんたの素直さは迷惑なんだよ!」
電動カッターの音、続く。
雪子 「あの音がやんだとき、警官が突入してくる。私は非力だ。あっという間に包丁を奪われて押さえつけられてしまうだろう。あなたに二度と会えなくなる。それならばいっそ…」
剛 「だったら、取引しようじゃねえか」
雪子 「取引?」
剛 「おまえは、おれの家族、特に妹に、一切危害を加えない」
雪子 「あなたは?」
剛 「おまえが拘置所なり刑務所なりから出てくるまで、おれはだれともつきあわない」
雪子 「それで…」
剛 「おまえが出てきたあと、まだ気持ちがあるんだったら、告白すればいいさ」
雪子 「…受けてくれるの?」
剛 「それは、今のおれが答えられることじゃないな」
雪子 「…やっぱり」
雪子、うつむきがちだった顔を上げる。
雪子 「ダメえ!」
※この「やっぱり」と「ダメえ!」は別の文である。雪子は剛の持ちかけた取引に対して「やっぱりだめ」と言いかけたが、「やっぱり」で止まってしまった。後の「ダメえ!」は何かに対する拒否ではなく、剛の危機に対する悲鳴である。
雪子、包丁を持ったまま剛に向かって突進する。剛、思わずあとずさる。雪子、体当たりをして剛を突き飛ばす。剛、尻もちをつく。雪子、勢い余って四つん這いになる。
天井からチェーンが、さっきまで剛が立っていたところに落ちてくる。大きな音を立てて床に叩き付けられる。
雪子 「…ケガはない?」
剛 「守って、くれたのか…」
そのとき上手から婦警二人が突入。カッターの音はやまない。包丁を奪い、雪子を取り押さえる。カッターの音がやむ。雪子を上手まで引きずっていき、手錠をかける。
碧、上手から走って登場。剛のそばまで行き、上手を向いて雪子に対して立ちふさがる。
剛、尻もちをついたまま。
刑事、上手から登場。雪子のそばに立つ。
夏子、上手から登場。剛のそばに駆け寄って頭を下げる。
夏子 「剛さん、妹が迷惑をかけてごめんなさい!」
セールスマン、上手から登場。
雪子 「(剛に)わたしをだましたんだ…。警察はチェーンが切れた後もわたしを油断させるためにカッターの音をさせていた! そっちから見えていたんだ…。だから『かわいい』とか『言い寄られて悪い気分じゃない』とか、『取引しよう』とか言って時間を稼いだんだ!」
夏子 「あなた、まだそんなこと言ってるの…」
セールスマン「(しゃがんで雪子に)だから壺を買っておけばよかったんですよ。今からでも遅くないです。ぜひ幸運の壺で宇宙パワーを! 壺を買って、執行猶予を勝ち取ろう!」
婦警 「(セールスマンに)いい加減にしなさい! 本当に逮捕するわよ!」
剛、立ち上がる。上手に歩いていく。
剛 「(セールスマンに)あなた、アクセサリーも扱ってましたね」
セールスマン「はい」
剛 「品物がここにありますか?」
セールスマン「もちろん」
セールスマン、立ち上がって舞台の中央まで行く。顔の前でアタッシュケースを開く。セールスマンと剛、交渉を始める。アタッシュケースの陰になって、二人の表情は客席からはっきり見えない。
碧 「(剛に)ただのオモチャだよ、そんなもの」
セールスマン「そんなことはありません。これらは幸福を呼ぶ…」
剛 「(碧の方を見ずに)使いようによる」
雪子 「(剛に)モノで済むっていう考えをやめてほしいんだけど」
碧 「(雪子に)あんたはだまってなさい!」
雪子、碧をにらむ。碧、剛の後ろに隠れる。夏子、おろおろしている。
婦警 「(刑事に)警部補、そろそろ…」
刑事 「少し待ってやれ」
剛、まだ交渉している。碧、自分の写真にナイフが突き立てられているのを見つけてヒいたりいている。
剛 「(碧を見ないまま)碧、今日はありがとうな」
剛、ポケットから財布を出してセールスマンに金を払う。セールスマン、うれしそうに受け取る。
碧 「だから勘違いするんじゃないよ! あんたがケガでもしたらママが大騒ぎするでしょ! 下手をしたら実家に帰れとか言われるかもしれない! そうしたらあたしまで帰らなきゃならないでしょ! それがいやだっただけなんだからね! うぬぼれないでちょうだい! あんたのためにやったんじゃないんだよ!」
剛 「それでもおれはおまえに感謝している。ありがとう」
剛、アタッシュケースからブレスレットをひとつ取ると振り返り、言いながら碧に渡す。
碧 「(驚く)あたしに…」
剛 「もちろん」
碧、雪子を見る。雪子がにらんでいるのを見て、目をそらす。
剛 「おれはこれから、この人にいやな話をしなくちゃならない。おまえには聞かせたくない。外してくれるか」
婦警 「警部補、容疑者を連れて行きましょう。聞かなくてもわかるような話をわざわざ聞かせる必要はないです! 我々にはその権限と、義務があります!」
刑事 「いや、彼の話を聞かせよう」
婦警 「しかし!」
刑事 「きちんと物事を終わらせるのは大事なことだよ」
剛 「(碧に)たのむ。しばらく外にいてくれるだけでいい。話が終わったらいっしょに帰ろう」
碧 「わかった…」
碧、ブレスレットをはめて上手に歩いていく。
刑事 「(婦警に)宮下、一応ついていてやれ」
婦警(刑事に語りかけていない方の婦警)「はい」
宮下と呼ばれた婦警、碧のそばまで行き、彼女を伴って上手に歩く。碧、雪子の前を通るが、雪子の視線に気づいて右手でブレスレットを隠す。婦警の一人と碧、上手に退場。
剛、雪子に近づく。
雪子 「あの子の腕にはブレスレット、わたしには手錠。お似合いだよね…」
剛、雪子のそばにしゃがむ。婦警、警戒して二人を見ている。雪子、顔をそらし、剛から手錠を隠そうと体をねじる。
剛 「ならおまえには、もうひとつ手錠をはめてやろう」
剛、ポケットから指輪を取りだして雪子の左手の薬指に強引にねじ込む。
剛、立ち上がる。雪子、自分の左手を見て驚く。
雪子 「ええええっ!」
雪子、左手を凝視して叫ぶ。
雪子 「わたしの左手の薬指に、指輪がはまっている!」
剛 「説明するな! 恥ずかしいだろ…」
雪子、この後もずっと左手を見たまま。
夏子 「(剛に)君…、自分が今何をしたかわかってるの!」
剛 「だから、手錠をはめたんですよ」
刑事 「(剛に)こんなことなら待つんじゃなかった! おい若造、人生の先輩として言わせてもらうけどな! 手錠にかかったのはおまえの方だぞ!」
夏子 「いまわたし、ガシャンていう音が聞こえたわよ!」
剛 「まあ、やっちゃったことはしょうがないです」
夏子 「だけど、いつ指輪なんか用意したの?」
セールスマン「(ものすごく自慢げに)毎度あり!」
刑事、婦警、夏子、セールスマンを見る。
セールスマン「(まわりを睥睨して)だから言ったじゃないですか! 我が社の商品を身につければ、だれでも幸福になれるって!」
夏子 「使い方の問題でしょ!」
刑事 「子どもにあんな危険なブツを渡しやがって…」
セールスマン「あなたなにか、指輪にトラウマでもあるんですか?」
刑事 「やかましい!」
セールスマン「(聞いてない)さぁて、今日のノルマは終わり! ネットカフェでもいこうかな~」
セールスマン、楽しそうに上手へ退場。
夏子 「(剛に)だけど、『いやな話』をするんじゃなかったの?」
剛 「碧にとってはそうでしょう」
夏子 「そうね…。(碧が去った上手に頭を下げる)ごめんなさい…」
雪子 「(突然)受け取れないよ…」
夏子 「何言ってるの! わたしたち(・・・・・)にとってこれほどいい話はないわよ!」
雪子 「指輪一個で、あなたの人生を縛るだなんて、わたしにはできない!」
雪子、指輪を外そうとする。手錠をかけられているためにできない。
雪子 「(婦警に)外してください…」
婦警 「(厳しく)何言ってるの! 手錠はずせるわけないでしょ!」
雪子 「いや、指輪のほうを…」
婦警 「(今度は笑って)そっちもダメ」
剛 「ようするにおれはふられたのか?」
雪子 「そんなわけない! だけどこれでは…」
剛 「おまえがそう言うんだったら、それはただのオモチャだと思ってくれてもいい。取引を覚えているか?」
雪子 「えっ」
剛 「さっき言った取引だよ。受けるか? おまえはおれの家族に危害を加えない。おれはおまえが出てくるまでだれともつき合わない!」
雪子 「受ける…」
刑事 「(婦警に)もういいだろう。行こう」
婦警 「はい」
婦警、雪子を立たせて上手に連れて行く。
剛 「(雪子の背中に)待ってる、ぜ!」
刑事、婦警、雪子、上手に退場。夏子、剛に丁寧に一礼してから退場。
碧、上手から入場。
碧 「(剛に)いま犯人が、うれしそうに連行されてたのに、あたしの顔を見たらビクッとして手を隠したんだけど。手錠は丸見えなのにね…」
剛 「あいつの左手の薬指に指輪をはめてやったんだ」
碧 「はあ? あんた、何を考えてるの!」
剛 「どうやらおれは、ふられたらしい」
碧 「あいつ、何考えてるの!」
剛 「だけどこれだけは言える。雪子がおまえに危害を加えることだけは絶対にない」
碧 「あんたがそう言うなら信じるよ」
剛 「そのかわりおれは、どんな女子ともつきあえないことになった」
碧 「そっちは心配しなくても大丈夫だよ」
剛 「どういう意味だ」
碧 「あたしがいるし。だけどあんた、あいつが外に出てきたら、またつきまとわれたりするんじゃないの?」
剛 「おれがまた、ふられなければな」
碧 「(真剣に)ふられればいいのに」
剛 「ひどいな…」
剛と碧、笑いあう。
剛 「家に帰ろう」
碧 「学校は?」
剛 「今日はさすがに無理だよ…」
碧 「そうね。あたしも休む」
碧、手を出す。
剛 「え」
碧 「あの人を見ていて、自分ももう少し素直になろうと決めたんだ…」
剛、雪子の手を取る。
剛 「行こう」
碧 「うん…」
剛と碧、上手に向かって歩く。
閉幕。
『はこ』 了