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金ヶ崎の退き口(7章)

 信長が若狭武田 信景(のぶかげ)の家老であり、石山城(現.福井県大飯郡大飯町)主の武藤 友益(ともます)の討伐を口実に3万もの兵を動員させる少し前、越前の朝倉氏家中では大規模な粛清が行われていた。織田と結ぶべしと主張した36人の重臣が切腹を命じられたのである。


 白夜は市のいる本丸の『奥』と呼ばれる館を訪ねていた。(もちろんここは長政以外は勝手に入ることが許されない男子禁制の場所なのだが白夜は長政の許可を得ることもなく、日頃から勝手気ままに出入りしていた。)

「姫君は遊び疲れたようでございます。」

 白夜の腕の中にはつい先日、摑まり立ちから歩き始めたばかりの子どもが遊び疲れてすやすやと眠っていた。長政と市の間に生まれた第一子、茶々である。

 「茶々は本当に白夜が好きじゃな?」

 それは遊んでくれるからというだけではない、訪問はいつも突然なのに朝から茶々が上機嫌できゃっきゃと騒ぐと白夜がやって来るのである。

「まあ、今日は茶々様お気に入りの白夜殿がお訪ねになるようでございますね?」と侍女たちが市に聞いてくるほどだった。

「赤子はまだ本能で生きているようなものなので、勘が鋭いのでございましょう。」

 弟のように思っている白夜が愛娘の茶々と仲良しなのが嬉しい市であった。

 


 白夜は侍女が用意した布団の上に茶々をソッと降ろした。

「そう言えば白夜は馬にもえらく好かれているそうですね。茶々も馬と同じですか?」

 市は可笑しそうに笑った。白夜は微笑みで応え、居住まいを正して市に向かう。

「母の死に水を取って参りたいと思います。しばらく小谷を離れまする。」

 白夜は暫しの暇乞いをする。

「弥生殿の容態はそんなに悪いの?ああ…なんということでしょう、小谷にお連れして薬師にお診せすれば良かったのに…」

 実際、市は何度も白夜にそう勧めたのだが白夜は首を縦に振らなかったのである。戦国時代の日本を生きる白夜が知る由もなかったが弥生の病は癌であった。当時の医療技術では決して救うことは出来なかった(やまい)である。白夜は生まれ持った超常の力でそれを見抜いていたのだった。

「優しきお心遣い、有難く思っております。しかし、母の病は天が与えたもの。まだ三十路にもなりませんが寿命でございましょう。辛いことですが受け入れなくてはなりませぬ。」

 思わず市は畳の上を(いざ)り寄って白夜を抱き締めた。侍女は傍に控えていたが市の白夜に対するそのような振る舞いには最早慣れてしまって注意もしなくなっていた。

「なんと健気な…早く金糞山の里に帰って差し上げなさい。少しでも長く弥生殿と白夜がともに過ごせるよう妾も祈っております。」

 兄である信長が石高僅か三千石、動員兵力150人程度の武藤征伐に3万の兵を向けたことで、間もなく織田浅井同盟の象徴ともいえる市は苦しい立場に追い込まれるのだが市はもちろん、弥生のことで頭がいっぱいの白夜もそのことをまだ知らなかった。

「御屋形様は織田と朝倉、どちらにお味方すると仰せでしょうか?」

 正妻とは言え、評定に出ているわけでもない市がそのようなことを知るわけはないし、(まつりごと)の一大事を寝物語に長政が語って聞かせるわけはないのだが白夜は敢えて尋ねる。

「妾は何も知らされてはおらぬのです。白夜が色々と教えてくれる故、兄上が朝倉殿と事を構えようとなさっていることを知ったのです。しかし、新九郎様は兄上と仲違いすることはあり得ないと前々から言ってくださっております。」

 市はこみ上げる不安を抑え込むように胸元に手を押し当てていた。

 長政の生母、阿子御寮人は井ノ口越前守経元の娘であることから井ノ口殿、または小野殿と呼ばれていた。

 

 阿子は市を嫌っていた。政略結婚が当たり前の武家社会にあって息子長政と嫁の市が殊の外中睦まじいことが阿子の織田嫌いに拍車をかけていた。夫、久政が若い側妻(そばめ)に入れ込んでいて寄り付きもしないことに対する八つ当たりであった。

 そして、嫌うどころか久政とともに隠居生活を送る琵琶湖北部に浮かぶ竹生島から暗殺を命じ、市の食事に毒を盛ったのだ。

 ただその計略は白夜に寄って見抜かれ、毒を塗りつけられた焼き魚は市ではなく阿子の夕餉の膳に運ばれたのであった。

「何者じゃ?…出合え!曲者じゃ。」

 給仕役でもない見知らぬ子どもが食事を運んでくるのを見て阿子が誰何する。不思議なことに部屋にいる誰もが少年を不審に思っていないばかりか阿子の叫び声さえ聞こえていないようだった。

「阿子御寮人、本日は焼き魚でございます。」

 慇懃な振る舞いで白夜は箱膳を阿子の前に据える。阿子は立ち上がろうとするが足に力が入らない。

「この魚は今宵、市御寮人のために作られたお料理ですが、大変美味しそうでごさいましたのでこちらにお運びいたしました。」

 白夜が静かに微笑むのを見て阿子は青くなった。いくら叫んでも誰も動かないので、箱膳を摑んでひっくり返そうとするが畳に根が生えたように貼り付きビクともしない。

「お行儀が悪うございますよ。さあ、どうぞお召し上がりください。」

 にこやかに白夜が言うと阿子の意志とは関係なく、手が勝手に動き、箸を取り魚の身を摘まんだ。

「手…手が…」

 毒が塗られた焼き魚の身を摘まんだ箸先が口元に来る。阿子は青くなった。

「いや…いやじゃ、死にとうない…」

 箸の先から逃れようと阿子は必死に顔を背けた。

「これに懲りたら若い人の幸せを嫉むのはおやめなさい。」

 目の前の子どもが笑うと躰が自由になり、バランスを失って阿子は後ろにひっくり返った。

 突然倒れた主人に驚いた侍女たちが駆けつけ見たものは泡を吹いて白目を剥いた阿子であった。後に正気を取り戻した阿子がいくら問い質しても少年の姿を見た者はおらず、箱膳と焼き魚は影も形もなくなっていた。

 市も長政すらも知ることのなかったこの出来事のおかげで阿子が市の暗殺を命ずることはなくなったが、対立はより確実なものとなっていった。

 朝倉義景が親織田と目される三十六士を屠腹(とぶく)せしめたのは足利義昭の「信長討伐」の御内書を受けたことに端を発していた。そして、同じものが久政の元にも届いていた。浅井家当主であるにも拘わらず織田家縁者の長政ではなく反信長と言われている久政を選んだのだ。


 そんな時に白夜は金糞岳に帰って来ていた。

「お帰り白夜。もう会えないと思っていました。もっと傍においで…顔をよく見せておくれ。」

 病床から弥生が手を差し伸べる。

「お母様(おたあさま)、こんなに痩せて…長らく帰らず申し訳ございません。」

 白夜は両掌で弥生の手を包み、自らの額を押し当てた。

「何の…お前は片時も絶やさず母と心を繋いでおいてくれたではないか。少しは親離れしてくれないと母は心配で仕方ないぞ。」弥生は笑う。

「お母様(おたあさま)に受けた恩は我が生涯を費やしても購えぬほど大きいものでございます。片時も離れたくないのでございます。」

「何を申されるか、母になると決めていながらずっと長い年月其方(そなた)に懸想していた妾をこそ許してくだされ。」

 死を目前にして素直な気持ちを語る弥生を白夜は膝の上に抱き上げた。自分と結ばれることを密かに望んでいることは白夜はかなり幼いころから気付いていたし、白夜自身もそれを受け入れるつもりでいた。

 弥生の命の火が尽きようとしていることを白夜は感じていた。

「あら?弥生様、若に抱っこしてもらって…少し顔色も宜しいようでございますね。」

 弥生の世話係をしている里の女が部屋の中にそっと入ってきた。

「里の皆に触れておくれ。お母様(おたあさま)…弥生は今宵、皆と別れを告げることになると…」

 白夜が静かな口調で告げるのを弥生は何故か幸せな気持ちで聞いていた。

「ああ…そんな…でも、白夜様がそうおっしゃるなら…そうなのですね…」

 慌てて立ち上がりかけた女は何かに気付いてガクッと膝を突いた。

「しかし、里の男のほとんどは木下様に雇われて織田弾正忠様の軍に従って若狭、武藤征伐に出掛けております。」女が続ける。

「若狭…武田の家老?弾正忠様が直々に?」

白夜は胸騒ぎがした。

「はい、何でも3万の大軍勢だとか。」

「武藤友益殿といえば石山城、あの程度の山城に3万などとは多過ぎる…やはりその足で越前に攻め入るつもりか…」

 白夜は唇を噛んだ。

『お市様のところに帰っておあげなさい。』

 頭の中で弥生の声が響いた。膝に抱いた弥生が心配そうに見上げている。

「お市様が悲しむような選択を長政殿(おやかたさま)が為さるはずございません。吾はお母様(おたあさま)のお側にいたいのです。」この上ないほど優しく白夜が語りかける。

「妾はもうすぐ死ぬのですか?」

 弥生の表情は穏やかだった。

「今夜…お母様(おたあさま)の痛みは全て吾が引き受けておりますので感じておられぬと思いますが、胃から始まった悪い(しこ)りは肺の方まで広がり、まもなく破れます…出血した血で肺が満たされ、お母様(おたあさま)は今夜亡くなられます。」

「そうですか…そんなに酷いのに今もこんなに穏やかで健やかな気持ちでいられるとは…お多賀さまより授かった白夜(そなた)の力は本当に素晴らしいのですね。」

「この世で最も大切なお母様(おたあさま)の命すらお救い出来ぬ力なぞ…何が神の力でございましょう。」白夜は唇を噛む。

「何を罰当たりなことを…白夜(そなた)能力(ちから)は人の身では決して持ち得ぬもの、これまで数知れぬほどの奇跡、そして夢を見せてもらいました。人を殺めることを生業とするこの里に生まれた妾なんぞに白夜(そなた)を託してくださったお多賀さまに妾がどれほど感謝しているか…分からないのでございますか?」

 それだけしゃべると疲れてしまったようで白夜の胸に顔を(うず)めるように押し付けて目を瞑り、そのまま静かに寝息をたて始めた。

 病気のため、すっかりやつれてしまったがこんな山里の娘とは思えぬほどの気品と美しさは失われてはいない。白夜は汗で額に張りついた髪を払い、自分も目を閉じると意識を弥生にシンクロさせていった。

 その夜、弥生は白夜と出会った頃の夢を見た。そして、成長した白夜と恋をし、子を成した。


 若狭を抜いた信長は敦賀に進軍し手筒山城の城兵1370人を殲滅し、朝倉 景恒(かげつね)の金ヶ崎城に迫った。一日足らずで全滅した手筒山城を目の当たりにした金ヶ崎城はすっかり戦意喪失し開城か全滅かと城内は絶望に沈み込んでいた。朝倉義景は自ら兵を率いて一旦は救援に向かったが敵わぬとみて重臣の景鏡(かげあきら)を激励に向かわせ、自分は一乗谷に引き返し、三千ほどの兵を琵琶湖北部に浮かぶ竹生島に送り久政を解放したのである。

 いわゆるクーデターに寄って久政の実権を奪い、隠居させ竹生島に幽閉していた長政であったが、朝倉の兵に守られて三の丸に入城する久政を阻止することは出来たのに一族で争うことは出来ぬと結局許してしまったのだった。これにより久政は発言権を復活させたのである。

 市は言い知れぬ不安に震えていた。母の気持ちが分かるのか幼い茶々もむずがってなかなか寝付こうとしない。白夜が金糞岳に帰ってしまった夜から常に感じていた白夜の心とのつながりがぷっつり途絶えてしまったことも市の憂慮を深めていた。

 浅井家ではこれまで幾度となく軍議が開かれ織田に味方するか朝倉に味方するかと議論が繰り返されてきたが長政は愛する市の兄である信長と戦うことはないと言い切って議論は打ち切られていた。

 長政の決意の堅さ、そのことが家臣たちの不満を深めていったのである。そもそも浅井家は戦国大名とは言い切れぬところがあった。戦国大名というのは織田家のように領主が絶対権力者であるのだ。ところが、長政の甘さと若さも手伝って浅井家は国人領主連合のリーダーに過ぎない存在であった。

 だから、朝倉家のある越前と国境を接する領主たちは義景と敵対することを望むはずがないのである。そんな彼らが「信長討伐」の御内書を掲げて朝倉精鋭の兵とともに返り咲いた久政のもとに結集したのは当然であった。

 家臣たちの利害の対立の可能性を白夜は直経にそして、時には身分も(わきま)えず長政本人に朝倉家との同盟に執着する重臣を隠居させるように直訴し、従わないならば自分が粛清を手助けしても良いとまで申し出て長政の逆鱗に触れ、市が取り成すという騒ぎまで起こしていたが、凡庸で信長のような峻烈さを持たぬ長政は今日まで有効な手立てを打たず浅井家を統率の取れた戦国大名に成長させられなかったのである。


 長政が知った時、信長を挟み撃ちにする軍勢は出撃した後だった。

義兄上(あにうえ)の背後を討つなど、何故(なにゆえ)勝手にそのような下知をなさったのですか?」

 長政は激昂して掴み掛からんばかりだ。

「其方が命じたのではないのか?儂は隠居の身、そのような下知が出来るはずもなかろう?」平然と久政は言い放った。

 人払いをしたが襖の向こうには朝倉の兵が控えている。長政が自分を斬ろうとするなら飛び込んでくる手筈になっていた…久政は自分を失脚させた息子を恨んでいた。

(それがし)は朝倉殿と矛を交えるつもりはないのでござる。かと言って義兄上と争うことになれば茶々にとっては肉親相食むようなもの。浅井は中立を守ると家臣たちにも申し渡していたのでござる。」

 その時、「海赤雨の三将」と呼ばれる海北綱親(かいほうつなちか)、赤尾清定、雨森弥兵衛尉(あめのもりやひょうえのじょう)老臣をはじめとする浅井家の重臣たちが部屋に入ってきた。

「愚か者!これを見よ!」

 久政は義昭の御内書を掲げた。

 将軍直々の筆で「信長討伐」の文字と義昭の花押がある。

「その公方様が若狭討伐の許しをなされたのですぞ。弾正忠様が越前に攻め入ることは自明のこと。公方様は織田にも朝倉にも、武田、上杉、毛利、そして当家にも甘い言葉を送り、勝ち馬に乗ることしか考えておられぬのではござらぬか。」

 そう口を挟んだのは後ろの方に控えた直経であった。

「黙れ下郎、推参なり。」久政が一喝する。

「喜右衛門、白夜(あやつ)を連れて来てはおらぬのか?」長政が口を開いた。

瞬間、久政と朝倉派の重臣に緊張が走る。白夜の不可思議な技の前では自分たちの命はない。いや、命を奪う必要すらなく無力化するであろう。

白夜(あれ)は母親が危篤とかで里に帰っておりまする。」

 直経が押し殺した声音で応えると重臣たちに安堵のため息が漏れた。

「其の方たちが申している小者のことじゃが、お市御寮人の元に勝手気ままに出入りしておると聞いたぞ?織田の間者ではないのか?」

 久政が詰問する。

「金糞岳の者でござる。金さえ出せば誰の味方でもする下賤の者でござるが、今はお市御寮人のために働いておる様子、これまでにも儂に小賢しき諌言を散々してまいったが、間者であればあのような振る舞いは()ぬはず、純粋に浅井家のことを思っていると儂は確信しておりまする。」

 長政はそう語って自分でも驚いていた。

(儂は白夜を信用しているのか?)

「なんと情けない、小童(こわっぱ)ひとりとおなごに(たぶら)かされおって…」久政が吐き捨てる。

 なんとも言えない嫌な空気が流れた。

「御屋形様、公方様の御内書は本願寺の顕如殿、そして、謙信公、信玄公にも届いておると聞き及びまする。織田殿にお味方すれば当家はいずれ滅ぼされましょう。」

 重苦しい空気の中、佐和山城主 磯野 員昌(かずまさ)だった。

「よくぞ申した。磯野の申す通りじゃ。もはや、織田に後はない。親九郎殿、決断致せ。」久政は敢えて諱を使った。

 かつては若い長政を担ぎ、久政を隠居させたように今度は久政を神輿にして浅井家の家臣たちは織田との手切れへと舵を切ったのであった。

 もし、長政が断固として信長との同盟を堅持していたならば家臣たちは彼を不要とし、織田の人質である市とともに命を落としていたかもしれなかった。


 

 弥生の命の灯火が尽きようとしていた。意識が混濁し、夢の世界を彷徨う弥生に白夜は必死に精神をシンクロさせていた。

 弥生はこれまでの人生を(さかのぼ)っていく。幼い頃、まだ白夜が居なかった時代にもそばに白夜がいた。なぜが幼なじみで将来を誓いあった。

 未来にも旅をした。夫婦(めおと)となり、子を育て長い長い時を共に過ごした。

 弥生は幸せだった。白夜の中に自分が溶けていく気がした。

 明け方、弥生が息を引き取った。癌に蝕まれ痩せ衰えた躰を抱き締め白夜は泣いた。

『白夜?なぜ泣いておるのじゃ?』

 弥生は驚き、幼子のように白夜を胸に抱く。

「お母様(おたあさま)が亡くなったのでございます。こんなに哀しいことがあって泣かないおられましょうか。」

 白夜は泣きじゃくる。

『何を言っておるのです?妾はこうして生きて…?いや…これは?確かに…妾は死んでいるのですか?』

 弥生は自分の腕の中にいるのが痩せ衰えて死んでいる自分自身であることに気付き狼狽えた。

「お母様(おたあさま)の心をすべて吾の魂の中に写し取りました。吾の目に映る光景をお母様(おたあさま)もご覧になっておられるのでございます。」

「なんと!それでは妾は白夜(そなた)の一部となって生きているということですか?」死んだと分かってもなぜか弥生の心は弾んだ。

「分かりませぬ。しかし、やはり違うような気がします。やはり本当のお母様(おたあさま)は亡くなったと吾は思います。吾の心の一部がお母様(おたあさま)の心を写し取りそっくりに真似ているに過ぎないと思います。」

 そうは分かっていても白夜には弥生の人格を消し去るなど出来るはずもなかった。

 白夜は弥生の生涯をそっくり自分のものとしていた。つまり、金糞の里始まって以来の戦闘能力を誇り、18という若さで里長となった弥生の全盛期のすべてを受け継ぎ、その代わり遠く離れた人の心の奥に入り込んだり、一度に大勢の人に幻覚を見せ、意識すら自由に操る力の大半を肩代わりのように失なってしまっていた。

 白夜は分かっていなかったが、人ひとりの一生涯を自らの魂に上書きする行為は、言わば自我の自殺にも等しく、若いとはいえ弥生の魂をリロードした時点で白夜の魂は塗りつぶされ、弥生そのものとして再起動してもおかしくないほどの危険な行為であった。


 父、久政を担ぐ重臣たちの私利私欲に操られた軍議の結果、信長を背後から挟み打ちにするという浅井家の180度の方針転換を市に伝えることが出来ないまま長政は戦支度を市に整えさせた。

 いつもならこんな時、闊達になり冗舌でさえある長政の様子を不審に感じた市が尋ねる。

「これからどちらに御出陣なさるのでございますか?」

「うっ…うむ、心配するな、木之本の辺りで一揆が起きての、それを鎮めて参るだけ、すぐに戻る…」

 歯切れの悪い長政は明らかに様子がおかしかった。市は激しい胸騒ぎがした。兄、信長が若狭討伐に大軍を率いて出陣したことを侍女からの情報で知っていた。城兵が200にも満たない城を落とすのにあまりにも多過ぎる軍勢である。

『ああ…白夜、応えておくれ、兄上様は越前攻めを始めてしまわれたのか?新九郎様は兄上様を討つつもりなのか?』

 市は心の中で白夜に向かって叫び続けた。しかし、いつもならまるで心の中に住んでいるかのように応えてくれ、白夜自身が見聞きし考えていることさえすべて共有させてくれる白夜からの返事は一切返ってこなかった。

 まるで、暗闇にひとりぼっちに置き去りにされたような気がして不安と寂しさで市の躰はガクガクと震えが止まらなかった。


「浅井備前守、織田殿裏切りましてござる。」里の伝令が飛び込んできた。

「くそっ…長政め、見てくればかりの虚仮威しめ、己の家臣もまとめられぬとは…だから粛清してやると申したのに…」白夜は歯嚙みする。

『白夜よ。急ぐのじゃ、お市様は信長の妹、浅井織田同盟の象徴でもあるのじゃ。家中の士気を上げる為血祭りにされぬとも限らぬ。』

 白夜の人格の一部となった弥生が語りかける。

『そのようなことにはなりますまい。お市様は多くの方々に慕われ愛されておられます。彼らが命に代えても守ってくれるはず、それにお母様(おたあさま)のお躰をこのままには出来ませぬ。』

『躰なぞ、死んでしまえばただの脱け殻、虫の餌でしかないのですよ。』弥生が優しく諭す。

『分かっております。なれどお母様(おたあさま)の躰は吾にとってかけがえのないものでございました。』

 そう応えて一晩添い寝をし、翌日里人とともに弥生を荼毘に付した。白夜は一昼夜かけて薪を継ぎ足し、白骨となった弥生を金糞岳の山頂まで運んでから墓を建て、頸骨をひとつだけ御守り袋に収め、懐に入れてから埋葬した。


 白夜は閃光となって走った。弥生の才能を得たおかげか躰は風のように軽かった。

 小谷城に戻ったのは長政が三千の兵を率いて出陣してから既に半日の後だった。

「白夜でございます。ご無事でなにより、安心致しました。」

 城門を守る兵達にすら気付かれることなく入ってきた白夜はまるで最初から部屋の中にいたかのように突然、市に声をかけた。

「白夜っ…其方(そなた)何故、何故、早く応えてくれなかったのですか?何度も何度も呼びかけ致しましたのに…」

 駆け寄った市は白夜にヒシと抱きついた。

 12歳の少年と19歳の少女である。現代であっても破廉恥と言われる行為かもしれない。しかも、市は人妻で領主の奥方様である。侍女のときはもとより、本人の白夜でさえ、思わず「うわっ」と悲鳴を上げた。

「お‥織田様は若狭の武藤を降伏させた後、越前に入り手筒山城を一日で落とし、金ヶ崎城を開城させ、疋壇(ひきた)城もほぼ戦わずして陥落、たったの二日で敦賀を手中にされた‥と金糞岳からこの小谷までの道中、山伏に化けた甲賀の者から得た情報でございます。」

 白夜は乱暴にならないようにできるだけそっと市の縛めを解いた。

「やはり…そうでしたか…」

 市は崩れ落ちた。それは市が知りたかった情報であり、最も現実になって欲しくない事実だった。

「では、新九郎様は…やはり兄上様を討ち取りに参られたのでしょうね…」

「背後から攻め、朝倉と挟み打ちするつもりでございましょう。」

「兄上はもはや袋の鼠…いかな大軍といえども助かりますまい…」市はハラハラと涙をこぼした。

「某が浅井の軍を背後から突き崩しましょう。」

 なんでもないことのように…まるで子供が砂遊びで作った山を突き崩す如き軽い口調であったが白夜ならば本当にそれが可能だということを市は理解していた。

「なりませぬ…なりませぬ白夜、浅井家の人々を傷つけることは妾が許しません。」

 市は唇を噛み締め、白夜を見上げる。

「ならば御屋形様を追い越し、織田勢とともに朝倉の追撃を追い払って退却の手助けを致しましょう。」

「きっと兄上様のご性格ならば退かずに踏み留まって戦われるはず…」市は大きく(かぶり)を振った。

「誰もがそう考えているからこそ、そこが付け目、弾正忠殿が金ヶ崎に残って抗戦すると考えた御屋形様は西近江路から攻めて退路を断つつもりのようでござる。若狭街道はがら空き、そしてこの街道へと繋ぐ朽木谷を治める朽木元綱殿とわれら金糞岳の縁は浅からぬものがございます。無事に通すように話しをつけておきましょう。」そう応えたのは弥生の声だった。

「や、弥生殿?」

 市は狼狽えた様子で白夜から離れ、辺りを見回す。さしたる根拠はないのだが、弥生が見ている前ではベタベタと白夜に縋り付いていてはいけない気がしたのだ。

御母様(おたあさま)は身罷りました。」静かに白夜が応える。

「亡くなった?たった今、弥生殿の声…いや、いつもの頭の中に届く声ですが…」

 頭に直接語りかける、そんな声が生きている人のものであることすら不可思議なのに死者であるはずがない…というより、市は弥生の息吹きを感じていた。それは白夜を通じて金糞岳で病床にある弥生と語り合った時よりも肌を触れあうくらいの近さに思えたのだ。

「お市御寮人様。弥生は死んだのでございます。里人が葬儀をしてくれ、わが身が荼毘に付され灰となるところを見て参りました。それも白夜が未練がましくも我が魂をその身の中に写し取ったが為、浅ましくも死してなを生きている時と同じくこうして話しが出来、考えることすら出来るのでございます。」

「なんと!なんと!不思議な…しかし、弥生殿が亡くなってしまわれたとは…美しいお姿はこの目に焼き付いておりますが、一度お会いしたかった…」

 市はハラハラと涙を溢し声をあげて泣いた。

「会ったこともない下賤の女の為に、何故そんなに泣かれるのでございますか?」白夜が尋ねる。

「弥生殿は其方(そなた)にとってかけがえのない大切な人、そして妾にとっても数少ない真実の友でした…悲しくないわけがないでしょう?」市が泣き腫らした目で睨む。

 白夜は返す言葉が見つからず、その場に平伏し畳に額を擦り付けた。すると、市は白夜を抱え起こし、頭を胸に抱いた。

「死してなお愛する人の内で生き続けられるとは…今まで白夜の力には何度も驚かされましたが、今日ほど…いえ…白夜…弥生殿を失い、さぞ辛いであろうに妾を心配して駆け付けてくれたこと生涯忘れはせぬ。」

 それとなく逃げ出そうとしている白夜を市はきつく抱き締め、未だに結っていない散切りの髪に指を差し入れて撫でさすった。

「勿体ないことでございます。吾はお市様の臣でございます故、当たり前でござる。」

「妾に白夜を召し抱える器量はありませぬ。」市は呟く。

「金糞岳の里を六角から守るために浅井家に士官致しましたが、宿敵六角親子は観音寺城を追われました。ところが、今度は浅井家と織田家が矛を交えることになってしまいました。我が里人は織田家家臣、木下殿の配下になっております。朝倉家との旧縁にこだわり、宿敵六角とさえ再び手を結ぼうとされるご隠居(ひさまさ)様をはじめとする朝倉家の皆様方…武家の離合集散にお付き合いする気は毛頭ございませぬ。お市様が兄上様たる弾正忠様のご無事を願うは吾が里人の安寧を願うと同じ、全く吾がために織田勢をお助けして参ります。」

 それでも、長政…いや、浅井家の目的を挫くことに変わりない。喜右衛門は許してくれないだろう。浅井家を離れることより、喜右衛門の敵となることが悲しかった。

「頼みます、白夜。親九郎様にも兄上様にも無事でいて欲しいのです。」市は泣き腫らした顔で白夜を見つめた。


 白夜は小谷城に残っていた痩せ馬を引き出し鞍も鐙も手綱すら付けずに跨がり、闇夜を駆け抜けると浅井軍を追い越し、長政の裏切りに動揺する織田勢のただ中に飛び込んだ。

「おおっ?!白夜殿ではござらぬか?」

 突然現れた白夜を見て藤吉郎が飛び上がる。

「浅井軍は近江路を上ってきています。しかし、弾正忠様が退却なさるはずはないと思い込み、若狭街道には兵を割いておりません。こちらから京へ逃れください。」

 白夜の進言に藤吉郎は目を丸くした。

「お主は浅井家の家臣、その言が罠かもしれぬではないか。」

「某、長政殿にお仕えしたつもりは毛頭ございませぬ。お市様が兄上様をお助けしたいと涙を流されたので御助力に参っただけのこと。」

「精通すらしておらぬくせに、人妻の色香に迷ったか?」

 藤吉郎が下卑た笑い声を立てる。

「色香?そうか?そうなのかもしれん…吾はお市様が好きだ。」

 白夜は考え込む。

「どうも調子が狂うのぉ…まあお主は信用出来そうじゃ、しかし、若狭街道の朽木谷を治める朽木元綱は浅井の麾下ではないか?」

 藤吉郎が眉をひそめた。

「心配ございませぬ。朽木元綱とは旧知の仲。某が話しをつけましょう。」

 「これは驚きじゃ、落ちぶれたとはいえ、朽木氏は近江源氏佐々木氏より続く名家、どうしてお主の話しを聞く?」

「金糞岳は元綱殿に幾度か雇って頂きました。良い働きであったと約束以上の褒美も賜っております。」

「金糞ではなく、お主の恐ろしさを知っているというわけか!」

「元綱殿の元に向かった浅井の使者は思わぬ足留めを食らっているはず、知らぬのであれば織田方の通過を認め、便宜を図ったところで浅井からとやかく言われることはありませぬ。今すぐなら元綱殿にも好都合。」

 白夜が既に万全の手を打っているとわかった藤吉郎は日焼けした顔を綻ばせた。

「我らが命運、白夜殿にお預け致そう。御屋形様にお目通りを願おうぞ、着いて参れ。」

 藤吉郎は大股で歩き出した。

「お待ちください。この案は藤吉郎様のお考えということにしてくださいませ。」

 藤吉郎の背中に白夜が呼びかける。

「なぜじゃ、うまく行けば士官はおろか、褒美も思うままじゃぞ。」

「某、まだ遠藤直経様の小姓でござる。」

「主を裏切って次の士官先に行くこと出来ぬか?殊勝な心がけじゃな。だがそうなると手柄は儂のものとなってしまうが良いのか?」

「預けておきます。藤吉郎様がご出世なさった時にお返しください。」

 白夜は笑顔で応えたが、信長と顔を会わせたくない理由は本当はもうひとつあった。織田と浅井の戦が始まれば、恐らく総力戦になるだろう。和睦になる可能性もゼロではないが、小谷城が全滅になる可能性も十分に考えられる。信長が妹の市をも容赦なく殺すようであれば、白夜は信長を暗殺するつもりであった。顔を知られていても暗殺は可能だが、やはり知られていない方がやりやすい。それに何より、会話を交わし、心を通じた相手を殺害することをあまりしたくないというのもあった。

 白夜は朽木元綱のもとを訪ねた。

「金糞岳の白夜ではないか。息災であったか?」

 突然現れた白夜に元綱は肝を冷やしたがみっともない姿を晒すまいと余裕のある振りをした。

 朽木峠を領有する朽木氏は鎌倉から続く家柄であり、近江国守護佐々木氏の末裔である。地頭と呼ばれた時代からこの地を仕切ってきた名門であった。しかし、戦国時代と呼ばれる時代になって下克上が当たり前になると、守護大名は勢力を失い、国人領主が食い潰しあい、生き残った者が戦国大名となって強大化していく中で金糞岳のような戦闘集団の力を借りてここまでどうにか生き残ってきたのであった。

 その中で元綱は白夜の神出鬼没さを味方であった時でさえ言い知れぬ不気味ささえ感じていたのだった。

 元綱は白夜に幾度か大名の暗殺を命じたことがあった。白夜の力を持ってすればいかなる武将の首も刈り取ることが可能と思えたからである。しかし、その度に白夜は「戦の趨勢を決めるは武将の役目、吾はただの傭兵に過ぎませぬ。」そう言って決して引き受けようとはしなかった。

 もちろん、白夜にとってそれは出来ないことではなかった。しかし、命を害するほど対象に近付けば、その心情の深きところにまで触れることになる白夜は武将と呼ばれるまでに生きてきた男たちの生涯を知ることになり、これを滅ぼすことが正しいのかわからなくなるのだ。どんなに卑怯で残酷と呼ばれる男でも矜恃があり、理想があった。

 多くの臣下を導く度量がある彼らを殺すことは白夜にはどうしても出来なかったというのが真相だった。

「よもや儂の命を奪いたいわけでもあるまい?」

「まさか、此度はお願いがござって罷り越してございます。」

 その言葉に元綱はしばらく返事が出来なかった。

「ほぉ…其方(そち)に貸しが作れる日が来ようとは…儂に頼み事とはのう。聞かせてみせよ。」元綱は膝を乗り出した。

「織田弾正忠殿がこちらの朽木峠を越えることをお許し頂きたい。」

 元綱の顔色がサッと変わった。浅井家からの使者は白夜が惑わせて足留めを食らわせているが、元綱自身が持つ情報網は浅井が織田に反旗を翻したことを摑んでいるようだった。

「其方は備前守に仕える身ではござらぬか?よもや織田の密偵であったということか?」

「いや、密偵では…まあ疑われても仕方のないことをしておりますが…ただ、お市様が泣いておられました故、お救い申し上げようかと。」

「愚かな…女子(おなご)の浅慮で浅井が滅ぼされてもよいのか?」

「朝倉では戦国の世は決して終わらせることは出来ませぬ。此度の織田の侵略でさえ、越前より追い払えば敢えて深追いはしないと某は考えます。我が領地さえ安寧ならば義景殿は他はどうでも良いのでござる。備前守様には織田との約条を守られよと幾度もお願いしてきました。必要ならば浅井家中の粛清すら厭わずお引き受けすると幾度も申し上げて参りました。それなのに、あの愚かな父親すら御することが出来ずにこんな戦を始めてしまったでござる。」

「確かに越前守は武将としての覇気がない御仁じゃが、当家は浅井家と(よし)みを通じておる。裏切るわけには参らぬ。」

 六角を破り、力を付けた長政に元綱は人質を差し出し従属を誓っていたのである。

「浅井から織田との手切れを知らせる使者は参りましたか?」

「いや、それはまだ…当家が放っておる細作が摑んだ情報(もの)。」

「ならば、知らぬ存ぜぬで押し通せば宜しいではございませんか。知らせさえなければ織田と浅井は同盟関係と信じているわけでござるから手助けしても裏切りにはなりますまい。」白夜がニンマリ笑う。

「朽木の富はこの豊かな森林、木材でござる。弾正忠殿は商人を優遇し、境の豪商を傘下に治めておられる。時流を読めず旧態にしがみつく朝倉に与する長政殿は井の中の蛙…しかし、白夜…其方は浅井が滅ぼされても良いと思っておるのか?」

「然り、元綱様のおっしゃる通りでござる。ここで弾正忠様を討ち漏らせば浅井も朝倉も数年と保たぬかもしれませぬ。しかし、お市様に間に入ってもらい、御父上 久政殿に責を負って頂ければ浅井に生き残る道はあると思います。冷酷と言われおられますが弾正忠様はあれで結構身内に甘いところがあります故。」白夜は薄く笑った。

「ふむ…左様ならば承知した。織田家の皆様が安全に朽木越えをなさり西近江を抜けられるようにお手伝い致しましょうと伝えられよ。」

 元綱は膝を打って応え、近習に向かって申しつける。

「浅井よりの使者が参っても、儂は病で伏せっておるとでも理由をつけて儂への目通り許すな。」

 こうして、後の世にいう『金ヶ崎退き口』が始まったのであった。朽木元綱を説得したのは松永久秀というのが定説であるが、真実は金糞岳の里と白夜の働きであった。


『藤吉郎様、殿(しんが)りを務めたいと申し出なされよ。』

 退却に難色を示す信長の様子を見て藤吉郎の心に白夜が語りかける。

『馬鹿を申すな。殿(しんが)りなぞ務めたら命がいくつあっても足りぬわい。』

 藤吉郎は意外に意気地のない返しをする。

『追っ手の朝倉勢の士気は低うございます。命懸けで討ち取ろうなどとする者などおりますまい、織田勢を国境より追い払えば追撃すらせぬでしょう。金糞の里人も沢山雇って頂いておりますし、微力ながら某も御助力致しましょう。』

『うむむ…白夜がそこまで申すなら、賭けてみようぞ。』

 脂汗を垂らしながらこぶしを握り締める藤吉郎の姿が目に浮かんだ。

「よくぞ申した、猿!其方の心意気に免じて京へ戻る。決して死ぬでないぞ。」

 藤吉郎が殿(しんが)りを志願したことがよほど気に入ったのか、あれほど渋っていた退却を受け入れ、白夜が連れて来た朽木氏の騎馬兵に案内されて森、佐々、前田、といった旗本と 三百騎ほどの手勢とともに金ヶ崎城を出発した。

「嵐のように御立ちなされましたな。流石でごさいますなぁ。」

 土煙を上げて彼方へ走り去っていく信長を地面へ額をこすりつけて見送る藤吉郎の肩を軽く叩いて白夜が話しかける。

「おぉっ!?白夜殿いつの間に?聞いたか?御屋形様が儂に死ぬなと言ってくださったぞ。」

 藤吉郎は感動で泣き笑いをしていた。

「祝着至極でございますね。藤吉郎様、それならば生き残って褒美もしっかり頂かねばなりませんな。」白夜は笑顔で応えた。

 退却をしながらの戦闘は士気を保つことが難しく、全滅する可能性が極めて高い。

「金糞岳の兵は戦上手が揃っておる。給金は約束の三倍出す。一番最後尾で朝倉勢を止めてくれ。」藤吉郎はすがるような目で白夜を見た。

「まるで里の者たちが人質に取られた気分でござる。それでは白夜の戦をご覧にいれましょう。なあに、追っ手の朝倉兵は織田を追い払えば満足という程度の命冥加な腰抜け揃い、少し脅せば深追いはしてこなくなるはずでござるよ。」


 柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛など有力武将たちが金ヶ崎城から次々と引き上げていくのを見送っていると門外で馬のいななきと人々の騒ぎ声が聞こえてきた。

「なんの騒ぎじゃ?」

緊張しているのか藤吉郎が苛立ちをぶつけるように怒鳴り門外へ走り出し、白夜もその後を追った。

 するとそこには成菩提院の一件の時借り受けた芦毛の馬が白夜の側に寄ろうとして手綱を押さえる人々を跳ね飛ばしていた。

「なんと!御屋形様の疾風様ではないか?御屋形様は疾風様を置いてゆかれたのか?」

疾風は信長のお気に入りの愛馬だった。藤吉郎はあんぐりと口を開けて暴れる馬を見上げている。

「は、疾風様が興奮してどうしても落ち着かぬ故、他の馬でご出発なされたのです。」

 跳ね飛ばされた男が起き上がり藤吉郎の前に土下座する。

 その疾風はようやく白夜の側に寄ると嬉しそうに鼻を鳴らし、首を擦り寄せて甘えた。

(白夜よ。どうやらこの馬は牝馬のようじゃな?)心の内側で弥生が揶揄(からか)った。

(お母様(おたあさま)やめてください。吾は牡馬ではございません。)白夜は苦笑した。

「どうやら疾風様は白夜殿に一目惚れしてしまったようじゃな。どれ、男として責任を取ってやらねばならぬのではないか?」藤吉郎は大笑いして白夜の背中を叩いた。

「おぬし、疾風というのか。世話をしてくれる人を困らせて悪い奴じゃな?元気が有り余っているなら吾と少し遊ぶか?」

 白夜は鞍もつけていない裸馬にひらりと跨がった。すると、たった今まで狂ったように暴れていた馬がぴたりと静かになった。人々は驚愕の呻きとともに馬上の子どもを見上げた。

「朝倉勢が現れました。およそ、四里(約10㎞)でございます。」物見櫓(やぐら)の上から見張り番が叫ぶ。

「ちょうど良い遊び相手じゃないか?行くぞ、疾風。」

 白夜が叫んだ瞬間、疾風は空気を揺らす勢いで駆けだして行った。見る間に遠ざかる白夜と疾風だったが、鞍も鐙すら付けていない手綱だけの裸馬、しかも白夜は腰に短剣を1本帯びているだけだった。人々はあんぐりと口を見送るばかりであった。

「白夜殿はひとりで何をするつもりなのじゃ?」

藤吉郎が漸く口を開き、金糞岳の里の傭兵部隊のリーダーに尋ねる。

「あれは若の挨拶みたいなものでございます。ああやって、敵中に飛び込んで暴れ回るというか…なぁ…」

その男は何故か言いよどみ、横にいる仲間を肘で突いた。

 土煙を上げた白夜と疾風は遙か彼方に駆けていく。

「…うっ?あ…まあ、その…暴れることは暴れるけど、向こうの将兵の鎧兜を壊して投げ飛ばして、槍を叩き折って…火薬に火を点けて…」

 そのとき、ズズ~ンと重い地響きが伝わって、遠くから大勢の男達の悲鳴や怒声が伝わってきた。

「まあ、敵の大将を殺そうと思えば十回でも二十回でも殺せるくらいに近づくのでござるが…殺さないのでございます。まあ、敵の戦意はごっそりと削がれますが…」

 何が起きているのがわからないが、敵陣の真ん中から大きな黒煙がモクモクと立ち上っていた。

 すると、その中から一騎駆けでこちらに向かってくる騎馬がある、白夜だった。そして、その後に数騎が猛追してくる。

「い、いかん、援護じゃ、援護するぞ、続けぇ~」

 藤吉郎が馬に飛び乗って駆けだしていくと焦って兵たちが後に続く。

 そのとき、白夜を追っていた朝倉の騎兵たちには藤吉郎を始め、数十騎の救援部隊が数百から千を越えそうな騎馬部隊が砂煙を上げて迫ってくるように見えていた。狼狽えた朝倉の武将は退却を命じる。全力で進軍していた部隊は大混乱となり、馬と人がぶつかり大怪我する者が続出した。

「藤吉郎様、お力添えありがとうございます。お陰で朝倉の足留めが出来ました。さあ、金ヶ崎城に戻って退却戦の準備を致しましょう。」

 疾風とともに藤吉郎たちの前に進んだ白夜が叫ぶ。

「これはどうしたというのだ?何故、朝倉勢はあのように崩れているのだ?」藤吉郎は馬上で信じられないというように混乱する朝倉勢を見つめている。

「追撃する朝倉兵は勝ち(いくさ)と思っております。勝ち戦で命を捨てて闘おうなど考える者はおりません。命が惜しければ僅かな敵も巨大に見えてしまうものでござる。」

 実際には信長の愛馬「疾風」は鞍も置かず、軽量の白夜を乗せただけということもあり、朝倉の弓兵の射程範囲を一瞬で駆け抜け、前衛の守備隊が突き出す槍を軽々と飛び超え、強靱な馬体で朝倉兵を弾き飛ばした。

『待て、疾風。踏み殺してはいかん。』

 倒れた朝倉兵の頭を踏み潰そうとした疾風の心に白夜が呼び掛けた。

『何故だ?前の主人はこうするととても喜んでくれたのに?』疾風から戸惑いの波動が届く。

『怪我人を出した方がよいのだ。死人なら戦が終わって帰国するまで安置すればよいが、怪我人ならば手当てが必要。怪我の程度によっては越前に送り返さなくてはいけない。その為に進軍は遅れるし、人手が割かれるのだよ。』

 疾風にそんな複雑な人の思考が通じる筈はないのだが、疾風は敵中で跳ね回り、将兵をけり飛ばし、叩き伏せたが命を奪うようなことはしなかった。

 その間、白夜は疾風から飛び降り、生前の弥生そのままの雷光の如き動きで小太刀1本で次々と兵の腱を切り、戦闘能力を奪っていく、見た目には対した出血をしているわけでもないのに、情けない悲鳴を上げて地面に転がる同胞を見て、パニック状態に陥った軍勢は密集陣形であったことが災いして同士討ちとなってしまっていた。

 そうやって散々暴れ回った後、後詰めが迫ってきているのを認めた白夜は潮時と判断し、疾風を呼び寄せて退却してきたのである。

「木下殿、まもなく後詰めが仕寄って参ります。城に戻って態勢を整えましょう。」

 どうやったら、5千を超える朝倉勢をたったひとりでここまで恐慌状態に陥らせることが出来るのか聞きたいことは山ほどあったが、藤吉郎は金ヶ崎城までの退却を命じた。

「承知した。皆の者、城まで戻るぞ。」


 一刻(2時間くらい)ほどの後、到着した朝倉兵は累々と転がる負傷者に驚愕した。機動力のある馬や荷車は怪我人の搬送に奪われ、機動力と戦力削がれることは避けられなくなった。

 金ヶ崎城に籠もった藤吉郎軍を士気が下がった朝倉勢は攻め(あぐ)ね、信長が危機を脱する時間を十分に稼いだ。

 明智光秀と池田勝正も藤吉郎とは別動隊で殿(しんが)りを務めていたが木下軍の巧みな戦働きに驚嘆を隠せなかった。

「まさか、正面からぶつかって大軍を切り崩すとは…猿め、いつのまにあのような兵を得たのじゃ…」

 勝正はいずれ藤吉郎の臣下となって仕える日がくるのかもしれないと予感し、光秀はいずれ雌雄を決する時がくるだろうと考えた。

 信長は金ヶ崎城を立った後は、佐柿から熊川を通り、若狭街道を抜け、白夜が渡りをつけた朽木峠を越えて京へたどり着いた。

 朝倉勢は白夜や藤吉郎たちが国境を出ると、辟易とした様子で役目は果たしたとばかりに深追いしようとはしなかった。

 織田方は一千三百人が討ち死にしたが、追う側の朝倉もほぼ同数の死者を出していた。そして、その数倍の負傷者を朝倉が出していたことは記録には残っていない。

 死者の半数半数は藤吉郎の軍であったが、この撤退戦は金ヶ崎の退き口と呼ばれ、その働き見事なりと信長から感状を受けたことにより、藤吉郎は織田家で頭角を表すことになった。

「白夜よ。この度御屋形様が無事に京へお着きなされたこと全てお主の働きであった。長政殿ではお主を使いこなせまい?御屋形様に直接仕えてみる気はないか?儂が話しをつけてやるぞ。」藤吉郎は白夜が受けないと見抜きながらそんなことを言う。

「吾は侍なんぞになる気はないと前々から申しているではごさらぬか。」白夜は笑って辞退した。

「もったいない、お主ならば御屋形様の近習あるいは侍大将として取り立てられてもおかしくないのだぞ?」

「弾正忠様をお救い申し上げたのはお市様を哀しませたくないからでござる。それより、織田家と浅井家が再びよりを戻すように働いてもらえたら嬉しく思いまする。」

 それを聞いて藤吉郎は苦笑した。

「浅井を裏切っておきながら何を言うか。」

「浅井に仕えたつもりはござらん、喜右衛門様とお市様にお仕え申し上げたのでござるから裏切りなぞしておりませぬ。」白夜が憮然と応えると藤吉郎は笑みを浮かべた。

「ならば、お市御両人を救い出し織田家に連れ戻してはくれぬか?」

 藤吉郎はすがりつくような視線を白夜に向けた。

「それは無理でござる。お市様はあの小心の愚か者に惚れておられます故、浅井家を捨てることはありますまい。」

 やれやれとでも言うように白夜は首を振った。

「何故じゃ…何故、お市御寮人は備前守に固執なさるのじゃ?」

 藤吉郎が地団駄を踏む様子を見て白夜が呟いた。

「藤吉郎様、それはたぶん顔でございますよ。」もちろん、その笑いを含んだつぶやきは藤吉郎には聞こえなかった。


 長政たち浅井勢は結局、信長と遭遇することは出来なかった。朽木元綱の導きで朽木峠を越えたと知った時は裏切りとも思えたが、浅井家から送った織田家からの離反を伝える使者があろうことか六角家が召し抱える甲賀衆によって捕らえられていた為だったと判明し、実はそれが白夜の工作であったことを知らない長政たちは運命を呪うしかなかった。


 小谷城に戻り、信長が無事に京へたどり着いたことを伝えると市は駆け寄って白夜を抱き締めた。

「兄様をお救い申し上げて本当に良かったのでしょうか?」

 今更とも思える不安を口にする市をその腕の中から白夜は優しい眼差しで見上げる。

「わかりませぬ…ただ、弾正忠様のような方がおられぬ限り、この乱世に終わりは来ないと吾は感じております。越前の朝倉はもちろん、戦国最強と呼ばれている甲斐の武田も軍神と称される越後の虎、上杉もその役目は果たせまいと思っております。」

 白夜が兄、信長を高く評価していることを知って市は心が弾んでしまう。

「何故、そう思うのです?」

 市は腕の中から()り気無く逃れようとする白夜をいっそうきつく抱き締めてやる。

「信玄公も謙信公も戦上手には違いありませんが、自領にこだわり過ぎでございます。躑躅ヶ崎館も春日山城も雪深く、冬になれば閉ざされます。天下を戴くより先に天命が尽きてしまいましょう。」

「そうでしょうか?おふたりとも兄上よりも人望も厚く、実力もあると世間で言われております。それでも天下を統べることは適わぬと白夜は思うのですか?」

 よほど驚いたのか油断して力を抜いた市から逃れた白夜が数歩離れて片膝を突いて臣下の礼を取る。

「左様でございます。単純に命を奪うだけなら吾は信玄公でも謙信公でもそれに弾正忠様の命でも頂戴することができます。生まれ持ったこの力を使えば人ひとりの命を奪うなど容易きこと。しかし、世を導くのはそのような力ではございません。人を導き、世を治め、天下に安寧をもたらすことができる人は滅多にいないのでございます。」

 そう言ってから白夜はさらに付け加えた。

「生意気なことを言って申し訳ございません。」

「今の兄上様は他人を踏みつけにして従えることが好きなだけ、白夜のようにそして新九郎様のように人と意見を交わし、話し合って進むべき未来を決めることをなさるようになれば人々を…世の中を幸せにしてくださる方だと妾も思うのです。」市も跪き再び白夜の頭を胸に抱いた。

「お市様のお気持ち良くわかります…しかし、下克上を是とする乱れ、荒みきった世ではそのような生温い考えでは時代を変えることなど適いませぬ。強引過ぎる指導力、むしろ独善的に世を切り拓く方でないと最終的に平和に導くことは出来ないのかもしれないと思うのです。すごく矛盾したことを言っていると思われるかもしれませんが、金糞岳の里をまとめるだけでも苦労している吾はそう思うのでございます。」

 自分の言葉(セリフ)を聞いて物思いにふける市の腕の中から白夜はそっと抜け出す。

「はぁくぅやぁ兄様~」お昼寝から目覚めたばかりの茶々が起き上がりトテトテと歩いてくる。

「これはこれは茶々様、あんよが上手でございます。」

 白夜が目を丸くして驚いてみせ両手を広げると茶々は得意満面は笑顔で白夜の腕の中に飛び込んだ。

「お見事でございます。お茶々様、白夜を兄などと呼ばれては困ります。」

 毎日丁寧に梳いてもらっている幼子の細く真っ直ぐな黒髪はキラキラと美しく輝いていた。

「良いではありませんか?白夜(そなた)のことをこんなに慕っているのです。妹と思って守ってあげてください。」

 甘えて白夜に顔を擦り付ける茶々を市は目を細めて見つめていた。

「本当のお兄様は満福丸様とおっしゃって今は越前にいらっしゃるのでございますよ。」

 白夜はしがみつく茶々の背中を優しく撫でる。

『お市様、白夜に満福丸様を救い出させましょう。』

 突然、市の頭の中で弥生の声が響いた。

「え?これは弥生殿!?」

 耳許で話し掛けられたような感覚に市は驚いて周囲を見回した。白夜の不思議な力はどういう仕組みで心に言葉や風景を届けるのかはわからないが、相手が遠く離れている時と近くにいる時は微妙な違いがあるのだ。その違いに最初の内は気が付かなかったが、白夜が小谷にやって来て2年あまり、こうやって不思議な交流を重ねる内にわかってきたのだった。

「いや…これは心に届く声…しかし、こんなに身近に感じるのは初めて?弥生殿、そこにいらっしゃるならお入りください。」

 弥生が襖の向こうに控えているような気がして市は声を掛けた。

『突然お声掛け致しまして申し訳ありませぬ。弥生はただ今御前に控えております。』

 意味がわからず市は相変わらず甘えている茶々と戯れる白夜を見つめた。

「お母様(おたあさま)は身罷りました。今、お市様に話し掛けているのは吾が写し取ったお母様(おたあさま)の記憶でござる。」

「なんと…やはり亡くなられてしまわれたのか…しかし、この心に届いてくる声は生きている時そのまま…」

 市は戸惑いが大きく、母を亡くした白夜へのお悔やみの言葉さえ出てこなかった。

「息を引き取る寸前におたあ…母上の記憶(こころ)を写し取りました。」白夜が応える。

「ずっと弥生殿のことをお母様(おたあさま)とお呼びしていたのでしょう?白夜が弥生殿のことはお母様(おたあさま)と呼ぶのを妾はとても快く感じていますからわざわざ言い直さないでくださいね…」

 市は優しく微笑みかけてみせ、それから改めて沈痛な表情で白夜を見つめた。

「弥生殿がお亡くなりになったというのは本当なのですか?心を写し取ったというのは…白夜(そなた)の中で弥生殿は生きておられるのでということでございますか?」

 市は白夜の中にいる弥生を見つけ出そうと胸の辺りを見つめていた。

「いいえ、お母様(おたあさま)は確かにこの世を去られてしまわれました。吾の未練がお母様(おたあさま)の記憶を写し取ったに過ぎません。」

「でも…心に届く声は弥生殿が生きておられた時と全く同じ…お会いしたことは一度もありませんが、温かく優しい弥生殿の心が今でも妾の中に流れ込んでくるのですよ?」

 市は白夜の瞳から溢れた涙が頬を伝い、しがみつく茶々の額に滴るのを見た。すると、気がついたのか茶々が顔を上げた。

「イタイの~?」

 茶々が小さな手のひらで白夜の涙を拭ってやろうとしている。

「ありがとうございます、お茶々様は優しい方ですね。」

 白夜が笑顔を見せると茶々も笑顔になって抱きつき仔犬のように顔をペロペロと舐めた。ふたりの様子に市は胸がキュッと締め付けられ、自分の娘ごと白夜をきつく抱き締めていた。

白夜(そなた)の気持ちはありがたく思う。ですが新九郎様は兄上と袂を分かつ決意をなされたのです。万福丸を越前から連れ戻したところでそれは変わりませぬ。」市は淋しげに微笑んだ。

「それは御屋形様が家臣の多数を占める朝倉派に押し切られたが故、そもそも織田方との手切れはご隠居の策略に嵌まったようなもの。」白夜は思わずこぶしを握り締めていた。

「それでも、浅井家の方々のほとんどは兄上を憎んでおりまする。」

 それは京都で信長が将軍義昭のために二条城の築城させていた。浅井家の受け持ち工区は二条御所の東で禁裏御所側の堀を掘っていた。隣接する工区は織田家臣の佐久間信盛で掘削で湧き出した水の処分を巡って家臣同士が喧嘩になり、死人まで出てしまったのだ。

 長政が信長の待つ妙覚寺に赴くと佐久間信盛をはじめ、柴田勝家、森可成は地面に正座させられており、信長の隣に座った長政は彼らを見下ろすこととなった。さらに信長は家臣たちの前で両手を突いて長政に己の家臣の非礼を詫びたのだ。長政が信長にとって特別であることを家臣たちに示そうとしたのである。しかも、こういうことには厳しい信長が誰ひとり、切腹などの責任を求めなかったのである。しかし、身内を亡くした浅井家の人々は納得しなかった。

「弾正忠殿は御屋形様に手を突いて詫びられたのでございますよ。」白夜は唇を噛む。

「それでも…それでも…駄目なのです。」市は呟いた。

「ならば…吾が浅井家でお市様の(あだ)となる者どもをひとり残らず殺しましょう。」

 自分に向けられているわけでもないのに、白夜から溢れ出す背筋が凍るような殺気に市は歯がカチカチと鳴りそうになり、思わず唇を噛み締めた。

白夜(そなた)のような幼き者がそんな怖ろしきことを口にしてはなりません。もしそうやって、織田家とともにあることを願う人々だけを残したとしたら、新九郎様は妾が白夜に命じたと気付くはずです。そしてきっと死ぬまでお許しにはならないでしょう。そうなるくらいなら新九郎様が兄上を屈伏させるか、或いは浅井とともに妾も滅びる道を選びましょう。」

 白夜は市の深い悲しみと己の無力を思い知った。


 信長が京に戻ったのは四月三十日だった。朽木元綱が信長を逃がしたことを知った長政は怒った。

「裏切りでござる。斬りましょう。」

 藤堂源助が憤る。源助は磯野員昌配下で息子に槍の名手と呼ばれる与吉という息子がいた、後の藤堂高虎である。

 元綱に織田家との手切れが伝わっていなかったことが明らかになると責めを問うことは出来なかった。すべて白夜が仕組んだことであった。

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