観音寺城
六角氏との交渉が決裂して一月後の9月7日(1968年)、織田信長は足利義昭に挨拶を済ませ、岐阜城と名前を改めたかつての稲葉山城を出陣した。
室町幕府、足利将軍家再興を目的とする上洛軍なのだが、もしものことがあっては一大事と義昭を言い含め参陣させなかったので事実上の大将は信長であった。
8日、織田軍は近江に入国し、佐和山城に入った。
先月の成菩提院での遠藤直経の行動は白夜が藤吉郎の目前で信長の愛馬を強引に借り受ける暴挙に及んだおかけでその不手際をもみ消すために藤吉郎が奔走することを余儀なくされることになっために長政の懸念は杞憂となった。
そして今、佐和山城の天守から信長の率いる大軍勢を見渡し驚愕を隠せなかった。先月、確かに信長は四万と言ったが、長政は半分も集まれば上々だと考えていたくらいで、さらにその半分の軍勢すら長政は率いたことがないのが現実だ。
信長麾下の兵は三万六千、徳川家康の名代、松平 信一が率いるのが一千、そして浅井の三千を含めれば公言通りの四万だった。
さらに、信長の兵の具足は煌びやかで、浅井の兵がみすぼらしく見えた。
また、織田軍には高価な『種子島』が数百丁揃っており、裕福さを物語っていた。
妙なのは織田軍の長柄槍で三間半(約6.3m)もあり、浅井軍の使うものより一間(1.8m)以上長かった。
(牽制するには良かろうがひとたび間合いに入り込まれれば重くて扱い辛いだけではないのか?)長政は首を傾げてしまうのだった。
佐和山城主殿に織田家、浅井家の主だった者が集められた。白夜は自身の存在を認識させないように知覚操作を施し、その中に紛れ込んでいた。
信長と長政は上座に並んで座り、浅井家側は浅井 井規、赤尾清綱、安養寺氏秀、佐和山城の城将 磯野 員昌、丁野若狭守といった。宿老や城将たち重臣が並ぶ。
対する織田家側は、林秀貞、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、滝川一益。更に、美濃三人衆と呼ばれる安藤 守就、稲葉 良通または一鉄、氏家 卜全、明智光秀、家康名代の松平信一。 そして、木下藤吉郎秀吉もいた。
藤吉郎は白夜に気づいているようで目が合うとニヤリとしたが追い出そうとはしなかった。
作戦会議に相応しく、主殿の中央には長政が用意した観音寺城とその支城の絵図が置かれている。
しかし、大将の信長が積極的な戦闘を望まない態度を示すので議論は遅々として進まず、今のところは兵馬を休め、和睦を進めるという方向に収まった。
しかも、この後に及んで和睦の条件は領内の通過と互いの人質の交換という六角側にも有利なものだった。
白夜は無駄な血は流さない信長の合理主義に感心したが、長政はかなり不満なようだった。
ともあれ、大軍勢を相手に六角側が抗戦に出る場合、取るべき戦略は籠城戦しかない。圧倒的な戦力差がある時、籠城戦は確かに有効だが、援軍の見込みがなければ最終的には敗北しかない。
そして、今回の観音寺城の戦いでは京の三好三人衆ぐらいだが、その援軍を許すほど甘い信長ではない。
和睦に応じねば信長は短期決戦で落城させるはずだと白夜は見込んでいた。
陣に戻った長政や宿老たちを前に喜右衛門の名代の立場で白夜は具申する。もちろんそれは白夜が違和感を感じさせないように意識操作をしているだけで認められるはずのないことだった。
「先月の成菩提院の件で織田家が夜襲に特化した兵を多く抱えていることが分かっております。大軍はむしろ目眩ましと考えるべきでございます。」
「ふん、所詮は子どもの戯言…喜右衛門殿も呆れたものでござるな。よいか、夜襲の如き策は寡勢が用いる手段、四万もの大軍を用意しておきながらそのような姑息な戦いを選ぶ武将がおるはずがなかろう。」長政ではなく、宿老のひとり安養寺氏秀が吐き捨てた。
武門に生きる者にとって大事なものは勝利よりも、場合によっては命よりも大事なものがあった。それは名誉である。
夜襲によって兵士の損耗を最少に勝利を得たとしてもそれで武将としての誇りを傷つけ、臣下が離れるようなことにつながるのなら元も子もないのである。
「賢いようじゃが、まだまだ子どもというわけじゃな。」長政は一蹴した。
いずれにせよ観音寺城を落とすには支城の攻略が必要となる。観音寺城には主なものでも13の支城があり、その連携によって本城の観音寺城を堅牢なるものにしていた。
翌日になっても和睦に応じない六角父子に信長はついに箕作城攻撃を下知した。
9月12日早朝、愛知川を渡河し、まず織田陣の東側にある和田山城を安藤 守就、稲葉良通(一鉄)、氏家卜全のいわゆる美濃三人衆が包囲し、城兵が救援に出撃できないようにした。
長政ら浅井家とこの3人は嘗ては敵として戦場で干戈を交えており、それが今はこうして同朋として戦場に立っている現実に長政は天下統一の一翼を担っていると実感するのだった。
和田山城足留めの包囲が完了すると柴田勝家、池田 恒興、坂井 政尚が観音寺城の備えとして進軍する。
最後に箕作城攻めにあたる佐久間信盛、滝川一益、丹羽長秀、浅井新八郎が愛知川を渡り、箕作城攻めが始まったのは夕刻であった。
標高325mの清水山から箕作山にかけて築かれた箕作城は急峻な天然の要害で攻めるに難く、守るに易い堅城で日没とともに退却を余儀なくされた。
「織田勢は数ばかりで烏合の衆と言わざるを得ませんな。」宿老、赤尾清綱が呆れている。
ところが、箕作城は夜の初めには落城していたのである。昼間の多勢に打ち勝った城兵に慰労の酒が振る舞われ、戦勝気分に沸いていた箕作城に藤吉郎が率いる夜襲専門の兵が襲い掛かったのである。
『白夜の申した通りであった…昼間の甘い攻めと敗戦は敵を油断させる罠であったということか。』
織田家からの遣いの者から箕作城に入城するようにという信長の伝言を聞きながら長政は複雑な気分だった。
「此度の落城、木下殿の手柄であるとか、なかなか有能な家臣のようでござるな。」
箕作城に入った長政は信長に祝いの挨拶をする。
「ほう、如何にも猿が箕作城を落としたのだが、何故、備前守殿がそれを知っておられるのだ?」信長が驚きを隠さずに聞き返した。
「実は家中で木下殿が夜襲を掛けるであろうと某に申した者がおったのでござる。」長政は信長の反応が見たくて正直に応えた。
「それは驚いた。もしやそれは猿めが家来にしたがっておる例の小者であるまいか?」
後半は信長のひとりごとであったが今度は長政が鼻白む。
「なんと!木下殿が白夜を召し抱えたいと?」
「安心されよ。きっぱり振られたそうじゃ。白夜と申すのか?まだ元服もしておらぬ子どもだと聞いたが?」
「実に賢しい小童でござる。ただ、市が気に入っておるようですので自由にさせておる次第でござる。」
領主の奥方のお気に入りだからといって、陪臣のしかも年端もいかぬ子どもが重臣たちの軍議に参加し、意見を述べるなどあり得ないことだが、長政はそれを不審に思っていなかった。
「ハハハ、そう言えば市の奴、佐和山でその者のことを申しておったわ…子でも欲しくなったかと気にも留めてなかったがさすが市じゃ。白夜とやらに儂も会ってみたいものだ。」信長にしては快活に笑った。
「それでは観音寺城攻めでは是非とも当家に先陣をお任せいただけるならば連れて参りましょう。」長政は応える。
「ふむ…考えておこう…ところで備前守殿、その白夜とやらにこの信長は観音寺城を如何に攻め落とす算段か問うてみてくださらぬか?」信長は白夜に興味が湧いたようだった。
長政は与えられた部屋に戻ると直ぐに白夜を呼びつけた。
「夜襲を言い当てたこと見事であった。ところで、今度は観音寺城だが其方ならどう攻める?」
突然の長政の問い掛けに白夜は間髪を入れず応える。
「最早、戦など無用でござります。和田山城は今夜には自ら落ちます。闇に紛れて城兵は逃げ出し、もぬけの殻になっておりますでしょう。箕作城に続いて和田山城が落ちたのを見れば、六角父子は早々に城を捨てるはずでございます。」
「何故そこまで断言できるのじゃ?」長政は澱みすら感じさせない白夜の口調に寒気すら感じていた。
「箕作城が籠城戦で奮戦している時、和田山城を初め何処の城よりも援兵ひとり寄越さなかったでは有りませぬか。四万もの大軍に恐れをなし、主家を守るか織田方に返り忠をするか、思案していたのでございます。そんなところで箕作城は夜襲を受け、たった一日で落ちてしまいました。結果は見えております。」
信長に先陣を願い出た自分が愚かに思えて、長政は歯ぎしりしてしまった。白夜がここまで戦況を見抜いているなら信長もまた然りであろう。
「弾正忠殿のこと白夜はどう思うか?」長政は主としてあるまじきことを尋ねてしまった。
「武将としては新しきお考えをお持ちかと…御屋形様には承服しかねる振る舞いがあると思いますが、大切な妹君のお市様を御屋形様に嫁がせたは浅井家に人質を差し出したも同じ、対して浅井家からは誰ひとり質に取られてはおりません。弾正忠様が浅井家を信用し、大切に思っていることお忘れなきようにお願いします。」
白夜は長政ら浅井勢が手柄を上げる機会を得られないことに不満を募らせているとが心配だった。
「儂の前で御台を名前で呼ぶな。それに儂は御台を質などとは思っておらん。見くびるな!」
長政はドスンと床を叩いたが白夜は顔色ひとつ変えなかった。
長政はしばらく白夜を睨み付けていたが、子ども相手に本気になっても仕方ないと思い直し、浮かせた腰を落ち着けて深呼吸する。
「織田家の木下殿とは懇意にしておるようだな。」長政は話題を変える。
長政は白夜が藤吉郎の間者ではないかと疑っていた。そうでなければこんな年端もいかぬ子どもが戦況を正確に判断できる道理がない。
「木下様とお会いしたのは佐和山城で声を掛けて頂いたのが初見で、あとは成菩提院で馬をお借りした時の二回だけでございます。」
長政が妙な疑いを抱いているのは分かっていたが白夜は申し開きする気にもならなかった。
そんなことより、藤吉郎の夜襲部隊に金糞山の隠れ里の民が雇われていることに驚いていた。
「なんじゃ?お主が木下様に我らを雇うように申し添えてくれたのではないのか?」病に伏している弥生に代わって里を束ねる男が言う。
藤吉郎は白夜を配下にする為に外堀を埋めるという選択をしたようだった。
「まあ良いわ。これほどの勝ち戦、しかも法外なお手当を頂いておる。武田信玄が上洛してくるようなことになれば別だが、それまでは木下様にはご贔屓にして頂こうぞ。」現金な台詞を吐きつつ金糞の里人たちはすっかり藤吉郎に取り込まれていた。
夜が明けてみれば白夜の言った通りになったばかりか、観音寺城の六角承禎、義治父子は城を脱出し南の甲賀に逃れてしまっていた。
ちなみに世に言う甲賀流忍者とは室町時代後期、足利幕府に反旗を翻した六角勢の地侍に端を発しており、特に薬の扱いに長け、現在でも滋賀県甲賀市には製薬会社が多く存在しており、彼らの末裔が興した企業である。
さて、六角父子が逃亡し主を失った支城将達は相次いで降伏を申し出た。その中には長子、満福丸の祖父に当たる平井 定武の姿もあった。
六角家に反旗を翻す際し、離縁し実家に送り返した定武の娘はその後義治の側室にされ、後に病死したと聞いている。
闊達で自分の意見をはっきりという市に比べて大人しく従順な娘であっただけに哀れだとは思うが戦国の世ではそれも致し方のないことと思うのだが、傍らに控えていた白夜が冷めた目で自分を見つめているのに気付き不愉快な気分になった。
反抗を続ける六角の残党狩りと承禎、義治の討伐を進める中で市の懐妊の知らせが届いた。
「薬師も産婆も凡そ三月との見立てでございます。」小谷からの使者が祝いの言葉とともに告げる。
数ヶ月前、白夜が喜右衛門の陪臣として長政のもとに連れてこられた時に懐妊を告げられていたので、喜びよりも、むしろ無事に育ってくれていることに安堵を覚えた。
長政は信長に知らせてやれば喜ぶであろうと使者も使わずに信長の部屋を訪ねた。
「これは備前守様、急なお越し、如何なさいましたか?」
信長の部屋には観音寺城攻めの功労者である藤吉郎がおり、無口な信長に代わってその藤吉郎が長政に声を掛けた。長政は藤吉郎如き下賤の輩に対等に口をきかれるのは我慢ならなかったが、信長の手前その感情を圧し殺し、その場にどっかりと座り込んで口を開いた。
「先ほど、小谷から使いが参って、御台が懐妊したとの知らせでござった。義兄上にも早くお伝えしたくて失礼と思ったが罷り越しました。」
「それはそれはなんとお目出度いことでございます。備前守様、祝着至極に存じます。」満面の笑みで喜んでくれたのは藤吉郎の方で肝心の信長からは、
「であるか…市には躰を愛うように伝えてくれ。」とひと言だけであった。
長政は少々拍子抜けの気分になりながらお腹の子は姫であることも伝えるべきであったかと考え、それは白夜からもたらされた情報 であったことを思い出し、白夜の不思議な力を胡散臭く思っているくせにどこかで信用している自分を疎ましく感じてしまうのだった。
勝利の知らせを開いた義昭は躍り上がって喜び、岐阜城を出て観音寺城のある繖山の中腹にある桑実寺に入った。
上機嫌の義昭を盛り立て、織田、浅井の連合軍は瀬田川の流れる勢多(現、滋賀県大津市)の地に到着した。
本来ならばここには百四十三間(約260m)の(せたのからはし)が掛かっているのだが、六角父子が観音寺城から敗走したことを知った三好勢によって破壊されていた。
瀬田唐橋といえば日本書紀にも記述がみられるほどの軍事、交通の要衝なのである。東国から京へ向かうには琵琶湖を舟で渡る方法が最短と思われがちだが、比叡下ろしと呼ばれる強風もよって押し戻されるため、予想以上に時間が掛かることになるので琵琶湖の南を迂回した方が大軍を動かすには好都合なのである。もちろんそれはこの地に橋が掛かっておればこそのことで、橋がなければ大いに足止めを食らうことになるのは昔も今も同じであった。
余談だが、室町時代後期に活躍した連歌師に宋長という人物がいて、
「武士の矢橋の舟は速くとも急がば回れ瀬田の長橋」と詠んでいる。
草津の矢橋から大津の石場まで行く舟のルートは最短距離で合理的だが、比叡下ろしに煽られて転覆事故も多く、瀬田唐橋を回っていく方が結果的に都入りが早かったよ。という内容で、これは例の「急がば回れ」の由来である。
瀬田唐橋の西岸は近江八景のひとつで瀬田の夕照と呼ばれ、歌川広重によって錦絵に描かれた土地で全軍が渡り終えるまで足止めを喰らっている間、白夜は病床の弥生の心にその絶景を映し出して見せてあげた。
『美しい…まるで妾が瀬田唐橋の袂に立っているようじゃ…』病床でやせ衰えた弥生の瞳から涙が一滴こぼれ落ちた。
信長が入京すると洛中は騒然となったが信長が兵士を厳しく取り締まったので直ぐに平静を取り戻していった。
朝廷の信長に対する評価は上がり、義昭が将軍に任じられても諸将の差配は信長に任されていた。
9月24日、室町幕府の復興を果たしたとして信長は帰国を決めた。義昭は不安がり、「武勇天下第一」と賞し、「桐紋」と「一引両紋」の使用を許し、「御父織田弾正忠殿」を宛名とする書状を発した。
ところが、帰国する浅井軍内部には不満が渦巻いていた。勝ち戦であったものの、数の力に物を言わせる為の数合わせにされただけでろくな手柄も立てられず恩賞もなく、持ち出しの物質を使っただけであったからだった。
長政が家臣たちの不満に対応仕切れなくなっていることに白夜は不安を感じていた。独裁的に思われる信長とて家臣を思い通りに使えたわけではない。究極を言えば裏切った家臣として松永久秀、荒木村重、明智光秀を上げれば分かりやすいだろうか。
ましてや長政は家臣が理想とする勇猛な武将を演じることで当主の地位を保っていた。久政を隠居に追い込んだのは家臣たちの力で自分は担がれたに過ぎない。久政の場合と同じ理由で自分が浅井家当主に相応しくないと見做されれば、その座から引きずり下ろされるのは当然、長政はそう感じていた。
「まったく…御屋形様のご意志が弱いのは困る。家臣に阿るようでは浅井家はいずれ潰れてしまうやもしれぬ…」白夜はため息をつくしかなかった。
そう思うのには理由があった。白夜にはその不可思議な能力で人の記憶を辿ることが出来た。長政の記憶、その父、久政の記憶、彼らが生まれる前の遺伝子に刻まれた浅井家の成立に関わる記憶も全て辿っていた。
長政の祖父、浅井 亮政がまだ若い頃、浅井家は守護大名、京極氏に仕える国人領主のひとりに過ぎなかった。
それが頭角を現すことになる最初のきっかけは、京極氏の後継者争いによる内紛に乗じたものだった。勝ち組に乗じた亮政だったが、リーダー的存在で大きな発言力を得て、まるで執権のようになった高坂信光と不満分子が結束した反高坂に分かれて再び争うことになり、亮政が与した反高坂側が勝利し信光を退け、さらにその後、反高坂のリーダー浅見貞則が専横を極めるようになったとして浅見が担ぐ京極高広に対抗するため高坂信光とともに一度は追放した京極高清と手を結んで浅見を討ち北近江を掌握したのであった。
家臣の或いは配下とした者の指示を得られなければ滅ぼされる…その経験は浅井家の強迫観念になっていた。
「哀れなことだ。義を重んじ、常に勇猛な君主を演じるというか…」
それが白夜の長政に対する評価であった。それでも、諸事情が良い方向に動いている間は問題ない。しかし、歯車が狂い始めた時に長政にはそれを修正する力があるとは思えないのだった。
今回の上洛戦で信長に対する不満は高まっている。心配なのは信長が近い将来、朝倉家と対立する可能性が高いことだった。
浅井家と朝倉家の関係は亮政が北近江を掌握したことが発端になる。
守護大名京極氏に代わって戦国大名と成長した浅井亮政に警戒を強めたのは南近江を治め守護大名から戦国大名へと変革を成し遂げた六角高頼であった。
成り上がり同然の浅井家と六角氏の戦力差は歴然としており、亮政の奮戦も空しく浅井家は滅亡の危機に陥る。越前の朝倉、美濃の斉藤に救援要請の手紙を送るが斉藤家から戦況確認の返事が返ってくるばかりで、浅井を助けても何の得にもならないと動く気配もなかったし、朝倉家も同様であろうと亮政は死を覚悟した。
亮政は小谷城のすぐ南にある雲雀山の砦に入った。山といっても標高145メートルの丘陵である。雲雀山を守備する浅井勢は650名、攻める六角の軍勢は二千を超えていた。勝敗は火を見るより明らかであった。しかし、雲雀山を放棄すれば、残るは小谷城だけだが、小谷城は未だ未完成、持ちこたえても数日が限度だった。
その時、奇跡が起こった。朝倉 教景が一千の兵を率いて現れたのである。
六角高頼は倍の兵力を有していたが、朝倉は越前の覇者である。しかも、指揮を執るのは加賀の守護、富樫政親を攻め滅ぼした一向宗、三十万を撃退したという名将、朝倉教景らしいと報告を受けた高頼はここで朝倉と戦になるのは懸命ではないと判断した。
それは教景とて同じで朝倉にしてみればここで六角と戦っても何の得にもならない。端から戦闘に及ぶつもりはなかった。ただ越前と領地を接する北近江が小国の浅井である方が都合が良かったのである。そして、六角に対する防波堤になれば良いし、ここで恩を売っておけば、六角に対抗できる力を付けた後も朝倉に対して友好関係を保ち続けるであろうと考えたのである。
雲雀山を挟んで両軍は三日間対峙を続け、六角軍は雲雀山の南東1500メートルに位置する尊勝寺に陣を移した。
教景の仲立ちによって六角と浅井は和睦を結んだ。六角高頼は近江平定は譲れぬところだったはずだが、越前まで戦線を伸ばすほどの国力はない。ここは教景が越前に引き上げるまで、と和睦に応じたのである。
そのような駆け引き、子どもですら容易に思い当たりそうなのに亮政は心底感激し、『越前の朝倉家への忘恩、これを許さず』という家訓を遺した。
朝倉に織田と変わらぬ気概があるならば朝倉と組むのも悪くないと思う。しかし、浅井家に仕える以前に越前を訪問し、一乗谷城下を見物し、朝倉義景の人となりを観察してきていた。一乗谷は京の都にも劣らぬほど文化的で、義景の平時に於ける統治能力は優れているものの、一向宗との争いは家臣に任せっぱなしの義景はおおよそ戦国武将の気概は欠片もないと見ていた。
白夜は武将たちが常日頃から義を重んじるなどと口にしながら同盟と裏切りを節操なく繰り返していることを軽蔑していた。亮政との和睦に応じた六角高頼も朝倉教景が帰国して、講和より僅か二十日後に北近江に攻め入った。亮政は美濃から越前へと逃れている。
一年後、亮政は小谷城への復帰を果たすものの、六角に亮政は負け続けてきた。
家督を譲られた息子久政は六角の軍門に降ることで北近江の浅井領を守る道を選んだ。それで朝倉への心酔は衰えたはずだった…しかし、信長への反発心が朝倉信仰とも言うべき亮政が遺した妄執を復活させていた。
京に於いて義昭を前に論功行賞を行った時、信長が京極高吉を伴っていたことに長政が動揺していたことを白夜は苦々しく思い出す。
嘗ての主家である京極高佳の子、高吉に長政の姉は嫁いでいる。妻の兄である信長と姉の夫の高吉、主家筋に当たる京極家、頭を押さえ込まれた感じがする浅井家の家臣団は疑心暗鬼に陥っていった。
白夜にしてみれば金糞岳の里を脅かした六角氏が滅んだ今となっては浅井に留まる理由はなかった。しかし、優しい市の行く末が気掛かりだった。自分を友と呼んでくれた直経のことも見捨ておけなかった。
信長は停滞を是とする朝倉を敵視していた。そして、天下統一の障害は朝倉、上杉、そして武田だと考えているはず…長政が同盟関係にある朝倉の防波堤になり、徳川が武田と北条に対する壁となってくれる…そう信長は考えている…と白夜は思っている。だからこそ、大切な妹の『市』を嫁にくれてやったのだ。 『嫁』というのは戦国の世にあっては人質も同然である。信長は浅井家にひとりの人質も要求せずに自分の方だけ人質を差し出しているわけである。実力差から言えばあべこべだと白夜は思う…長政はどうしてこの誠意に気づかないんだろう?
「東の『徳川』西の『浅井』が両軸となって天下統一を果たす。弾正忠様はこのように考えておられるはずです。決して浅井家を軽視などしておりません。」白夜は直経に力説する。
「わかった、わかった。其の方の御台様贔屓はよくわかっておる。」直経は苦笑いする。
「わかっておりません。義景殿は悪い人ではありませんが、成すべきことを成す御仁ではないとお見受けします。今の荒廃した日本で恵まれた地位と力を与えられながらあの体たらくではもはや罪人でございます。」白夜は語気を強める。
「こらっ、儂だけとはいえ言い過ぎじゃ!しかし、白夜の申すことも一理ある。わかった、御屋形様には儂から伝えておく故、心配せずに母上を見舞って参れ。」
白夜は観音寺城攻めで期せずして再開した金糞岳の里人から弥生の病状がいよいよ悪化していると聞かされていた。それが直経の耳に入り、里へ帰って顔を見せてこいと命じられたのである。もちろん、末期ガンの激痛を不可思議の能力によって肩代わりしている白夜には弥生の余命が幾ばくもないことはわかっていたが…
しかし、白夜が浅井家を離れた後、長政の父、久政の元に信長の増長を憎み敵視するようになった足利義昭の「信長討つべし!」との御内書が届いたのであった。そして、信長の上洛要請を無視し続け、事実上の宣戦布告をした朝倉義景は信長の義弟である長政を無視して隠居である久政に救援依頼の手紙を送っていた。若狭の武田攻めを口実に三万の大軍勢を率いる信長の本当の標的が朝倉であることは誰の目にも明白であった。