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佐和山城

「織田弾正忠信長様、ご到着でございます。」

1568年(永禄11年)8月、六角 承禎(しょうてい)~義賢の法名~、義治 親子が居城とする観音寺城に使者を送り、義昭を奉ずる上洛軍の六角領通過の許可と協力を求める交渉拠点とするため、信長は長政麾下である磯野(いその)員昌(かずまさ)が城主を務める佐和山城(現在の滋賀県彦根市)に入った。

数万の軍勢を美濃の国境に残し、二百余りの馬廻りのみを連れての来訪は同盟を結んだとはいえ、裏切られ殺害される可能性もあり、長政を信用しているという何よりの証であった。

この年の8月から信長は官途名(受領名)を尾張守から亡父、信秀が使っていた弾正忠に変えていた。弾正忠というのは正しくは弾正台で律令制下の太政官制に基づき設置された監察、治安維持を担当する警察機構のことで、父 信秀が公家の山科 言継(ことつぐ)らと親しく、都では織田弾正忠という呼び名が通っていたことを意識してのことかもしれない。

いずれにせよ、この時点ではほとんどの武将と同じく自称に過ぎなかった。

長政は久政が信長に会ってみたいというので仕方なく連れてきていた。

「織田弾正忠信長でござる。」年長の久政に敬意を示し信長の方から名乗る。

「浅井下野守久政でござる。」

朝倉家に(よしみ)を感じている久政が信長を値踏みしているのは明らかだった。

接待役に任ぜられた直経の采配で酒宴が始まった。(ざる)とまで言われるほどの酒豪の長政に対し、酒が嫌いな信長は一口も飲まず、旬の魚や野菜を使って用意したご馳走にも時々箸をつける程度だった。会盟の儀ではあれほど雄弁であったのにこのような宴席では信長は寡黙だった。

『白夜...新九郞様と兄上は上手くやれてますか?』

直経に命じられ給仕をして料理を運んでいる白夜が心をリンクさせたままにしている市の思念が語りかけてく

る。

『弾正忠様があまりに無口なので浅井家の皆様は狼狽えています。』白夜は苦笑混じりの思念を返した。

『まあ...困ったものね。自信過剰で兄上は人と打ち解けることが苦手なのです。だけど、悪いと思ったら反省もするし、優しいところもあるんですよ。』兄想いの市が心配の余りにため息をついているのが見えるような気がした。

『お市様、こちらにお越し頂けませんか?御屋形様も喜右衛門様も弱り切っておいでなのです。』白夜が思念を送る。

『そんなこと言われても呼ばれてもいないのに女がのこのこ出て行くわけにはいかないでしょう?』

『それならば頼りない男の方から呼ばせましょう。』

白夜は信長の脳裡に市の面影の像を結ばせた。

「市は息災であるか?」

浅井家の家臣たちが自慢の舞いや歌でもてなしても仏頂面でまったく無口だった信長が初めて口を開いた。

「はい、明るく健やかで家臣達にも愛されております。明日にでもこちらに来るよう使いを出しましょう。」長政は思わず飛びついてしまった。

長政からの手紙を携えた使いの者が小谷に着いたのは翌日のまだ午前中であったが、白夜のおかげで事情を把握していた市は既に仕度を整えていたのである。

「予想よりもかなり早いご到着でございますな。」

昼前に佐和山城に到着した市を見て出迎えに出た宿老の赤井清綱はかなり驚いた様子だった。

「昨夜の御屋形様のご様子は如何でしたか?」敢えて兄のことを問う必要はない。

「特に支障はございません。しかしながら、織田様が余りに無口ゆえ御屋形様も喜右衛門も手を焼いておるようでございます。」

清綱の率直な返答に浅井家の困惑ぶりが窺えた。

市は酒宴が行われている主殿に向かった。すると、入り口の襖を引く役目を仰せつかったのか、白夜が控えており市を見るといたずらっ子のような笑顔を見せた。

「今、佐和山城の中でこの状況を楽しんでいるのは兄上と其方(そなた)だけですよ。」苦笑いの市は、襖の前に正座をすると頭を下げる前についと手を差し伸べて指先で白夜のオデコを(つつ)いた。

「ここ一時(いっとき)=2時間は誰も口を開いておりません。もはやお通夜でございますよ。」真顔になろうと努力しているようだが明らかに口角が上がっている。

「これ、そんなに面白がるのではありません。」小声で叱りながら市は自分の緊張がほぐれていることに気づいた。


主殿の中はまさに葬儀会場だった。宴席なのに主賓の信長が白湯しか飲まず押し黙っているせいで誰もしゃべることが出来なくなって、ただ黙々と食事だけが進んでいた。

下座に着いた市が信長を一瞥してから挨拶を始めた。

「お呼び頂き罷り越しました。兄上様にはお健やかなご様子で市は大変嬉しく思います。」

「うむ、市も健やかで何より。」信長がやっと口を開いた。

市は少しだけ長政の方に躰を向け、

「新九郞様、しばらく兄上と妾の兄妹ふたりだけで話しをしとうございます。お願いいたます。」市が両手をついて頭を下げる。

「もちろん、義兄上さえ良ければ部屋を用意しよう。」

そう応えて上座に並んで座る信長に目をやると無言で肯くのが見え、緊張で息が詰まりそうだった長政は安堵の余りに崩れ落ちそうになった。


「兄上、新九郞様をいじめないでください。本当に兄上を尊敬しておられるのでございますよ。」ふたりになると市は苦言を呈した。

「浅井は織田と対等な関係なのだ。もっと堂々とするように市が導いてやれ。」信長が失笑する。

「兄上は頭が良すぎて周りの者が馬鹿に見えて仕方ないのでしょう?」市は睨みつける。

「そんなことはないぞ。世の中には自分にないものを持っている者がいくらでもいると常に謙虚な気持ちは持っておる。...して、浅井はどうだ。」

信長は市に浅井家内の内情、つまりスパイ行為を望んでいた。

「新九郞様も大切にしてくださいますし、家臣の皆様も妾を慕ってくださいます。」信長の目論見を市ははぐらかした。

「朝倉とは相変わらずか?」信長は怪訝そうに聞き返す。

「御屋形様と直接お話しくださいませ。」市は長政のことを敢えて御屋形と呼んだ。尾張にいた頃は家臣達の前では信長のことをそう呼んでいたのだ。

「あやつをそう呼ぶのか?」信長が不愉快そうにする。

「当たり前でございます。妾は浅井家に嫁いだのでございますから。」市は毅然と言い放つ。

「左様であるか...」信長はほんの一瞬だけ寂しげな表情を浮かべた。

それを見た市は胸の奥にしまい込んだ郷愁が思わず溢れそうになって唇を噛んだ。

すると、心の中に別の温かな想いが注がれてくる...ずっと心を繋いだままにしている白夜が市の動揺を感じて心配してくれているのだった。

「新九郞様はもちろん、家中にも兄上の業績を高く評価している者がおります。そのように押し黙って相手を威圧して従えようとなさらずともきちんと話しあってください。」市は信長の目を真っ直ぐ見つめた。

「ふむ...承知した。相変わらず気が強い女子(おなご)じゃな。時に、猿の奴が浅井家中で気に入った男がおるから家来として召し抱えたいと言ってきおったが誰のことか市に分かるか?」

『猿』とは藤吉郎に信長が付けたあだ名であった。

「はい、分かっております。木下様がその者に声を掛けたことも知っております。しかしながら、その者は既に妾に忠節を誓ってくれております。木下殿には譲れません。」市が応える。

「なんと!市も目を付けておったのか、どのような奴であるか?」信長が膝を乗り出す。

「喜右衛門様...家老のひとりが召し抱えた小者でございます。まだ九歳の子どもでございますが...とても賢い子でございますよ。」賢いという表現では白夜のことは言い表せなかったがそう言う以外はなかった。

「九歳?なんだそれは...其方も子でも欲しくなっのか?もう良い年齢(とし)だ、さっさと自分の子を産め。」憎まれ口を叩いて信長は部屋を出て行った。

その背中を見つめ、市は白夜に女の赤子を授かったと告げられたことを言えなかった。


翌日、木下藤吉郎という男が信長の使いとして直経の許を訪れ、酒宴の前にふたりきりで話しがしたがっていると長政に密談の申し入れをしてきた。

「そうか、今日もあの静かな酒宴が続くのはかなわぬからな、承知致したと伝えよ。」

長政は市が信長に話しを通してくれたものと感謝した。


「義兄上は朝倉家に上洛軍に加わるようにしたためた公方様の新たな御内緒を届けたと聞いております。」

「良く知っておるな。だが越前に助力を期待しているわけではない。一向宗どもを抱えておるからな。国を空けることを怖れて自ら籠の鳥を手放したくらいだ、今さら動くこともないだろう。しかし、義理は通しておかねばなるまい?背中を撃つだけなら無能な輩でも出来ようからな。」

信長がそこまで朝倉義景を愚弄する理由が長政にはその時はわからなかった。

それはともかく、越前朝倉は義昭の要請に応えることが出来なかった...寧ろ、応えなかった。その代わりを信長が果たすとなれば心中穏やかではないはずである。面目躍如のために敵となるか味方となるか旗幟を鮮明にせねば成らぬ時がくることは自明であった。

「ともかく、腰の重い朝倉を待ってはおれん。明日より六角の調略を開始する。」

密談のはずが結果的には信長の思い通りであった。


六角承禎と義治父子は既に三好三人衆と盟約を結び、彼等が擁立した第14代将軍 義栄(よしひで)を支持していた。

ただ、義栄は躰が弱く病気がちで未だ上洛すら果たしておらず、その為多くの大名たちはその権威を認めてはいなかったので義昭にもチャンスが残されていたのである。

「六角と浅井は仇敵の間柄、某が(くみ)しているとなると応じぬやもしれませぬ。」

野良田の戦いでは勝利し、独立を果たしたものの以降は長政と六角親子は一進一退の攻防を続けており、そのことが今回の交渉に水を差す可能性があった。

「立場は新九郞とて同じであろう?過去に囚われて滅びの道を選ぶようならそれまでの武将ということ。説得はしてみるが応じねば戦うしかあるまい。」信長は自信ありげに笑った。

「攻城戦となれば戦は長引きます。義兄上、兵はどれほど集められますか?」

説得をする前に(いくさ)の話しをするなど不誠実極まりないが、難攻不落と思える観音寺城にこれほどの自信を見せる信長の根拠を尋ねずにおれなかった。

「新九郞の兵を加えれば四万にはなるか。」事も無げに信長は応えた。

「四万!」長政は絶句した。

その半分でさえ長政は指揮をしたことがない。見たことさえない大軍である。

「朝倉家の加勢も見込んでおられるのでござるか?」やっとの思いで口から出した質問であった。

「義景は腰抜け故、数には入れておらん。」

信長がせせら笑うのを見て長政は不安になる。

「朝倉家には父、久政の代に世話になっております。市の輿入れの折にもお願い致しましたが、朝倉とは事を構えることなきよう切にお願い致します。」

嫡男、万福丸は人質として朝倉家に預けている。

「分かっておる。妹の市の命を預けての約束だからな、守らねばなるまい?」

長政の心情を読み取ったかのように信長は市が同盟のための人質である事を改めて口にした。

「義兄上、市は某に取ってもはや無くては成らぬ存在。人質だとは思っておりません。」長政は思わず反駁する。

「そうか!市は果報者じゃな。織田の家中にも市に惚れておる者がおってな、儂も恨まれておるのだ。だが、其奴らも新九郞のその言葉を聞けば少しは納得してくれるであろう。」信長は珍しく快活に笑った。

しかし、長政には信長の笑いがわざとらしく聞こえて仕方なかった。信長こそが市を愛していて、家臣の妻になって身近でその様子を見ることが耐えられなかったのではあるまいか。二十歳を過ぎるまで信長は市のもとに持ち込まれる縁談を全て撥ね付けてきたと聞いている。

「新九郞、浅井家は其方が率いておるのだ。隠居した父上の顔色ばかり窺っておっては舵取りを誤ってしまうぞ。煩い宿老どもも早めに隠居させておくのも主君の器量。船頭多くして船山に上ると昔からいうではないか。」

信長の言葉を聞いて長政は白夜の顔を思い出した。

宿老、直経のもとに転がり込んできた金糞山の傭兵集団の長の子どもらしいが年端もいかぬくせに怪しげな術を使い幾人もの武者を昏倒させたという。しかも、市に受けた一杯の茶の礼に家中にいる反織田の分子を粛清すると申し出たのだ。今、まさに信長が同じことを言っているのである。白夜は信長が送り込んだ間者ではないだろうか、長政は疑念を抱いた。いずれにせよ、長政に取って浅井家は家臣達が全て揃って浅井家なのである。意に添わぬからといって追放するなどは決して考えられなかった。それは長政の良さでもあり、弱さでもあった。


8月7日、義昭本人と曾て13代将軍義輝の奉公衆であり、永禄の変で義輝が殺害されてから後は義昭の為に奔走してきた和田 惟政(これまさ)、細川藤孝。それから、義昭に信長を推薦し、この上洛作戦のきっかけを作った明智光秀が同道した。また、織田家からは信長が弟の信勝と争った頃からの忠臣で信勝や柴田勝家との交渉を成功させた村井貞勝をはじめとする織田家の政務担当の精鋭を使者として選び観音寺城へ送った。

この時、光秀は義昭の家臣でありながら信長にも仕えるという立場になっていた。それは、越前朝倉の許にいた義昭の御内緒を携えて信長に謁見した際に

「上総介様、上洛出陣の前に一度公方様を岐阜にお迎えくださいませ。」という提案に信長が感心したからであった。

「越前の一乗谷から真っ直ぐ上洛する方が近いのに何故、岐阜に廻り道させるのだ。」信長が問う。

「公方様が御動座なされば将軍の臣下である上杉、武田、朝倉が美濃、尾張を織田様の留守中に侵略することが出来なくなります。」光秀は明解に応える。

「なるほど、さすれば北の浅井、東の徳川を守りとして残さず上洛の軍勢に加えられるということであるか!見事な策略である!」

信長は光秀を希代の知恵者であると褒め、臣下として望んだのだった。


観音寺城での交渉では織田家の使者である村井貞勝がこちら側の条件を示す。

「承禎殿が人質を差し出し、上洛軍に加わってくださるのならば摂津を差し上げましょう。」

更に義昭が付け加える。

「余が征夷大将軍の宣旨を受けし暁には幕府侍所、京都所司代に任命しよう。応じてもらえるならば直ぐに誓紙を送り、(あまね)く諸侯に宣言しよう。」

これは両刃の剣である三好方が擁する義栄が政権を獲得すれば逆賊になる。そして、長政が見込んでいたのと同じく信長が動員出来る戦力は二万、多くても三万に満たないであろうと見積もっていた六角親子は三好勢に()いていた方が得策と考えたので1日目の交渉は不振に終わった。

佐和山城に戻った貞勝は信長の前に平伏し、交渉が不首尾に終わったことを詫びる。

「奴らが応じぬであろうことは分かっておった。それより六角親子は何か要求をしてきおったか?」

義昭まで行かせておいてとんでもない言い草だと末席に潜り込んだ白夜は笑いを噛み締める。

「それでござりまするが、浅井様に所領の返還と家臣の返還、及び謝罪を要求しております。交渉はその後だとの一点張りでございます。」貞勝は長政に向かって申し訳なさそうに頭を下げる。

長政は六角を見限って浅井を望んだ国人を召し抱えていたのだ。

「公方様の上洛という大儀の為ならば某は応じても宜しゅうござる。」

白夜は長政の心情が分かった。六角家に膝を折るのは御免被りたいところだが、ここで信長に六角が滅ぼされて東の美濃が織田領、北の越前は朝倉領、その上南近江まで六角ではなく織田のものとなってしまえば西の武田領しか残らない。だが、義昭の臣下であると宣言する武田を攻めるのは出来ない。なれば浅井家はどこにも版図を広げることは出来ない、それは家臣の働きに対しての加増が出来ないということである。そんな状況に陥った大名家が辿(たど)る末路は決まっていた。不満を内向きにため込み内紛を始めるのだ。それはどこの大名家でもしばしば見られることだった。六角は憎い敵であるが浅井にとっては必要な敵でもあったのだ。

六角如(ごと)きとわが義弟、新九郞を天秤にかけることなど有り得ぬ。浅井家の領土と家臣は浅井の血と汗で切り取ったものである、交渉の取り引きに使うなどもってのほかだ。吉兵衛(貞勝の通称)そのような世迷い言に耳を貸す必要はない。情けをかけておるのはこちら側なのだ。これ以上の好条件はないのだ。時間がもったいないと思うなら、交渉のついでに観音寺城の見取り図でも作って参れ。」信長は不敵に笑った。

交渉の難航など少しも気にしておらず、寧ろ儀礼に過ぎぬと考えているようだった。

長政は信長の言葉に感激し、礼を述べていたが、心中にある複雑な思いを整理出来ずにいるのを白夜は哀れに感じるのだった。

時に好戦的とも発言を繰り返す信長だったが、言葉ほどには血を流すことを望んでいるわけではないのだが、長政を初め、義昭や家臣にまで威圧と恐怖を植え付けていた。

『弾正忠様はご自身で思い描く理想の信長像を少々演じ過ぎておられるようでございます。』小谷へと戻り、兄と夫の今後を案じている市に経過を知らせた後、白夜が付け加える。

『そうなのです。分かってくれるのは今となっては白夜、其方だけかもしれぬな..,兄上はただ真面目で正直で根は優しい男なのです。』市の寂しさが伝わる。

『弾正忠様は先を見通す力がお有りです。ただ、周囲が着いてこられなければ異端とみなされ、いずれ排除しようとする勢力が結集するでしょう。兄上を慕っているお市様としては心配でございましょう。』

『ち、ちょっと!何を言っているのです?妾は兄上を慕ってなどおりません。妹として心配しているだけです。』市が抗議の思念を送る。

『はい、はい、分かりました。お市様のそういう可愛らしいところ某は大好きでございますよ。』白夜は思わず微笑んでしまう。

『子どものくせに大人に向かって可愛らしいとは生意気な..』そう言いつつ市は自分の気持ちを温かく受け止めてくれる者がいることが嬉しかった。


これまで、性急に事を進めるを信条としてきた信長が7日間という期間を家臣達も驚くほど粘り強く佐和山城に留まり、六角父子との交渉を行わせたが、結果的には物別れに終わってしまった。

「血は流さずにおきたかったが致し方あるまい、来月には観音寺城を攻める。新九郞も準備をしておけ。」

「承知でござる。」

信長と長政の関係はあくまでも同盟の対等な関係のはずだったが、もはや主従のそれに近くなってきているように白夜には見えていた。

時間を掛け、所詮は成功報酬の空手形だが、京都所司代という好条件を提示したにもかかわらず(いくさ)という選択肢を選んだのは六角側であるという認識は浅井家にも義昭の上洛を指示する大名たちにも強く印象付けられたことは信長にとって充分な収穫であったろうと白夜はその満足そうな顔を見ながら思った。

200騎余りの馬廻りのみを連れて美濃へ帰る信長を送って、長政自らがともに馬を並べて進んだ。

市の懐妊の可能性を長政が信長に伝えるか伝えまいか悩んでいる様子を護衛の軍に加わった白夜は、それがそんなに重要なことなのかと不思議な思いで見つめていた。

胸中にそんな葛藤を秘めていたせいもあり、話しが途絶えた長政は直経らに国境までの護衛を命じ小谷へと帰っていった。


信長は美濃まで半里と迫る柏原(現在の滋賀県米原市)の成菩提院(じょうぼだいいん)に宿泊することにした。

直経は白夜を風呂に誘った。

「弾正忠殿は冷酷非情な方と聞いておったが違ったようじゃな。七日間もの間、六角めの戯言(たわごと)に辛抱強く付き合ってやるなど実に寛大。しかも、浅井家が吾らの血と汗で勝ち取った領土と国人の返還などという理不尽な要求も今回の交渉とは別問題とまったく取り合われなかった。あのように言ってくださったおかげで御屋形様もずいぶん楽になったに違いあるまい。」のんびりとお湯に浸かり、直経は感慨深く語った。

「喜右衛門様がそう思ってくださるならばお市様もきっと安心なさるでしょう。」白夜はにこやかに応える。

「なんじゃ、その含みのある物言いは?」また小難しい理屈をこね回すのかと直経は顔を顰めるが、先を話せと目で促す。

「弾正忠様は端から六角が交渉に応じるとは考えておられなかったと思います。この七日間で己の無力を思い知ったのは公方様でございましょう。自ら出向き、京都所司代の職を約束したにもかかわらず袖にされたのです。頼みにした朝倉は動かない、武田も上杉も臣下として礼は尽くしてくれるものの上洛の為の兵は出してくれない。以前は匿ってくれさえした六角に至っては義栄を支持して領内を通過することすら認めない。もはや頼るのは弾正忠様しかおらぬということを心底思い知ったでしょう。」

その義昭は先に美濃の立政(りゅうしょう)寺の仮御所に戻っていた。

「公方様は今後、弾正忠殿の為さることには異を唱えないと?」直経が尋ねる。

「そうでございますね...お見受けしたところ、高貴なお生まれであることばかりを鼻に掛け、他人を頼りにされ自らは考えておられないご様子...上洛を果たして征夷大将軍になって、また擦り寄ってくる者があればいずれ弾正忠様が邪魔になってくるでしょうからそれまでとは思いますが...」白夜はそのとき信長はどう動くのだろうと思った。

「ううむ、つまり今は弾正忠殿が公方様を利用しているが結果的には公方様が弾正忠殿を利用したことになるというのか?」

「弾正忠様がそれを素直に受け入れるとは思いませんが、六角に対してこれだけの時間と待遇の条件を与えたのです。形だけではあっても公方様に恭順の意を示す武田も上杉も朝倉もこれから織田家が上洛という大事業を成し終えるまで美濃や尾張を侵略は出来ないわけでございますから、弾正忠様は安心して全軍を率いることが可能なわけです。それは武田備えである徳川にも朝倉に接する吾ら浅井家にも言えることでございます。来月、弾正忠様が観音寺城攻めに集める軍勢は...そうですね...勝ち馬に乗っておこぼれに預かろうと参陣する者もいるはずですから数多くの戦場を見てこられた喜右衛門様さえ見たこともないような大軍になりそうでございますよ。」

そんな真剣な話しをしながら広い湯船の中で泳ぎ始めた白夜を横目に直経は信長の智略の深さに怖れを感じ始めた。

「さらにでございます。南近江の六角の領土がすべて織田家のものとなれば東の美濃も織田領、北の越前は朝倉領、西の若狭は公方様とはご縁の深い武田領ですからもはや雪隠詰めで浅井家は版図を広げることもままならなくなりましょう。」

「何を申すか!此度の観音寺城攻めでは吾ら浅井が随一の手柄を立てるのだ。南近江が全て織田家の領地になど成るものか。」

不吉な予言に直経が鼻白む様子を見て白夜は気の毒になった。

「某の意見を申し上げますれば、そうなった場合にもっとも与し易いのは朝倉だと思われます。開戦前に某が一向宗徒の中に紛れ込んで朝倉軍を疲弊させておきます故、簡単に落とせましょう。茶人、公家の如き風流人の如き義景様に国人は不満を抱いております故、こちら側に寝返る者も多いはず、勝算はあります。」物騒な内容を口にしながら白夜はその年頃らしく、いたずらな男の子そのものの様子で脚でバチャバチャとお湯を波打たせた。

「そ、其の方は幼子の姿をしていながら中身は魔物かと思える時があるぞ...よいか、朝倉殿は吾らの盟友、滅多なことを口にするでない。」

直経はバシャバシャとお湯を跳ね上げている白夜の足首をむんずと掴んで止めさせた。

「だが...弾正忠殿の為されること其の方の目を通せば左様に映るか...」

直経は自分の考えより白夜の見解の方がより真実に近いと確信した。そして、信長の智略の巧みさに恐怖を覚えずにいられなかった。

「白夜よ。儂はこれより急ぎ小谷へ戻り、御屋形様に進言致す。其の方は織田家の方々が不審に思わぬように取り繕っておいてくれ。」

ザバァっと湯を波打たせて直経は立ち上がった。還暦を過ぎてなお隙の無い身のこなしと若者の如くに引き締まった躰は無駄の無い筋肉で武装され、刀創や矢傷はほとんどが躰の正面にあり、直経がこれまで決して敵に背中を見せて逃げなかった勇士であることを物語っていた。

大きな風呂に入れてもらい上機嫌で遊んでいた白夜は直経が起こした波でひっくり返えりながらも一瞬で直経が信長を討ち取る決意をしたことを読み取った。

「喜右衛門様、もしここで弾正忠様を討ち取ることが出来たとしてもその後はどうなされるのです?同盟した相手を暗殺などしたら、今後、浅井家にどこも味方などしてくれませぬぞ。」

その背中に向けて外には聞こえぬように呼びかけたが直経は風呂を出て行ってしまった。

白夜も追いかけて湯船を飛び出す。

濡れた躰を素早く拭き取り、着物を羽織っている直経に訴える。

「喜右衛門様っ、こんな夜更けに出かけたら夜討ちの算段に行くのかと疑われてしまいます。」

...実際にそうなのだからもはや疑いですらないのだが...。

「そこは...其の方の例の術で織田家のご家来衆の目を欺いておいてくれぬか?」直経は帯を締めながら言う。

「お断りします。某はお市様に御屋形様と弾正忠様、おふたりともにお守りするように命じられております。」

「これっ、御代様をお名前で呼ぶでない、不躾であるぞ。」直経が渋面(しかめつら)で白夜を睨む。

「そうお呼びするようにお市様に申し付けられております。」

「お優しい御代様がそう言われてもそれを真に受ける奴があるか!愚か者め。」直経が叱りつける。

「某、朝倉孫次郎殿ではございません。」カラカラと白夜は笑った。

「こっ...此奴...またそのような生意気な口を叩きおって...もうよい...とにかく後のことは任せた。儂を犬死にさせたいならそうすれば良い!其方(そち)を友と見込んだ儂が愚かだったというだけのこと。」

豪快に言い捨てるともはや一刻の猶予も無いとばかりに足早に出て行ってしまった。

「やれやれ、短絡的な主様だなぁ...」

友と言われて白夜は満更でもなかった。

『大丈夫なのですか?』

市との間に繋いだ心のバイパスで状況を伝える。

『白夜、お前ならば止められます。お市様を悲しませてはなりません。』弥生の思念が語りかける。

『しかし、弾正忠様を危険とみなしたのは間違った判断ではないかもしれません。』弥生に白夜が意見する。

『まあ酷い!白夜は新九郞様と兄上に殺し合いをさせたいの?』市が悲しそうにする。

『まさか、お市様を悲しませるようなことは致しません。それに某自身も弾正忠様の働きはもっと見たいと思っております。』

白夜がそうメッセージすると、市は少しだけ安心したようだった。

『白夜?兄上は他の戦国大名の方々と、どう違うというなのですか?』市が尋ねる。

『傭兵を生業とする某が言うことではありませぬが、いつまでも群雄割拠の戦国の世では民草は戦火に巻き込まれる苦しみから逃れられません。少なくとも六角、朝倉には天下人となろうという野心は欠片もありません。』

『兄上は天下人になるつもりだと?』

『わかりません...それさえも通過点に過ぎないのでは...と思います。』

『兄上は言葉が少なくて、もっとも信頼を置くべき重臣でさえ力で抑え付けて従わせています。新九郞様ともいつかは袂を分かつ日が来るのであろうか?』再び、市の心が揺れる。

『そうならぬように、お市様と某でおふたりに働きかけましょう。』

『頼りにしておりますよ、白夜...喜右衛門殿を早くお止めしないと...白夜や、急いでおくれ。』

『いいえ、喜右衛門様を思い止まらせることが出来るのは御屋形様のみでございます。某はそのお手伝いをさせてもらいます。それよりも先にこちらの方々に手を打っておかねばならぬようでございます。どうやら喜右衛門様の行動は気付かれてしまったようでございます。』

厩舎までやって来ると喜右衛門の馬は既にいなくなっていた。

「やあ、これは白夜殿ではごさらぬか。実は先ほど、其方のところの宿老殿が血相を変えて飛び出して行かれたと連絡があったのでござるが、もしや小谷の方で一大事でも?」

物陰から声を掛けてきたのはいつぞやの藤吉郎であった。

「さすがは木下様です。気づかれてしまいましたね。実は吾が主、喜右衛門様は弾正忠様をお討ち出来るのは今宵をおいてなし、と御屋形様に進言申し上げに参らせられました。」

「な...なんと、それは一大事!」藤吉郎は踵を返した。

「何を慌てたふりを為さっておられる?この周囲に伏兵を置いておられるではないですか。西の森に500、東にも同じく500。国境には騎馬兵300も含めて5000でございますね。」白夜はまるで軽口を叩く如くに藤吉郎の手の内を暴いた。

「ふむ...おみごとでござる。やはり、白夜殿に謀事(はかりごと)は通用せぬようじゃな。」藤吉郎はゆっくりと振り返った。

「木下様のような軍師にお褒め頂くとは恐悦至極。それにしても浅井の腹を探る為に夏の夜の藪に兵を潜ませるとはご家来衆にずいぶんと酷な務めをさせておられる。」白夜は薄く笑う。

「いやいや、ご心配にはお呼びませぬ。あの闇こそがあの者たちの戦場(いくさば)昼の明るい時間にしっかりという休む特技もあるのですぞ。」

「なるほど...夜襲を専門にする兵団でございますか...」

なるほど、伝わってくる息吹が侍とは少し違うようであった。

「して...宿老殿を無駄死にさせぬ為に白夜殿はどうするおつもりなのかな?」

藤吉郎はいつでも喜右衛門を捕らえることが出来るのであろう表情には余裕があった。

「それは心配無用でございます。御屋形様がきちんと諫めてくださいます。そんなことより、お市様がご懐妊なされました。」白夜は突然話題を変える。

「か...か、か懐妊!?」藤吉郎から余裕が消え、顔を真っ赤にして狼狽える。

「な...なんとそれは(まこと)でござるか?いやいや、おめでとうございまする。」言葉とは裏腹にその顔は不愉快そうに歪んでいた。

「医者や産婆はまだわからぬと申しておりますが、某には赤子の声が聞こえております。女子(おなご)でございますよ。御屋形様とお市様とような美男美女の間に生まれる姫でございますから、どんなに美しい姫様にお育ちになられますか楽しみでございますね。」

白夜の言葉を聞いて藤吉郎は思わず相好を崩した。

「姫様とは...それは(まこと)でござるか?」だらしない表情のまま藤吉郎は同じセリフを繰り返す。

「されど、備前守が今宵討ち死にともなれば、お市様はきっと後を追われるでしょう。何しろ、戦国の世には珍しいほど睦まじきおふたりでございますから。」白夜は悩んでいるように頭を抱えてみせる。

藤吉郎は長政が許せなかった。冷淡に振る舞っているが信長は長政を信用していた。

美濃国境近くまでやって来ておきながら敢えて柏原に宿を取ったのは藤吉郎の計略だった。それは隙を見せて長政に背かせ、所領と密かに長年、懸想(けそう)し続けてきた市を織田家に取り戻すチャンスを作るつもりだった。

長政の如きプライドの塊のような猪侍にあの美しい市が嫁いでしまうと知った時のショックは今でも忘れない。いつかは長政を殺し、必ずや取り戻してみせる。藤吉郎は心に誓っていた。

言葉巧みにこの柏原の地で一晩の宿を取るように信長を誘導した。

しかし、白夜は姫が生まれるという、その言葉は信用出来た。白夜が赤子の心に少しだけ触れさせてくれたのだ。

『下郎、推参なり!』

清らかな赤子の心は触れようとした藤吉郎の心を容赦なく撥ね付けた。

美しく成長した姿が見えるようだった。高貴で気位が高く、藤吉郎など近づくことすら許さない。うっとりするほど藤吉郎の好みだった。

「分かり申した。ここは白夜殿に全てお任せ致す。」藤吉郎は幼子にしか見えない白夜に頭を下げた。

「この中で一番脚の速い馬はどれです?」(うまや)の中を見渡して白夜が尋ねる。

「そりゃあもちろん、あれじゃ。」なぜ白夜がそんな質問をしたのか疑問に思いながら藤吉郎は一頭の葦毛の馬を指差した。

すると、白夜はその馬の傍に歩み寄り、いきなり(らち)を開けた。

何故か、馬は嬉しそうに白夜に身を寄せていくではないか。

そして、白夜はひらりとその鞍はもちろん、手綱さえ付けていない馬に跨がった。

「な、なな、何をしておる?それは御屋形様の馬。」藤吉郎が狼狽える。

しかも、白夜を引き摺り下ろそうと手を伸ばした藤吉郎を跳ね飛ばしたのは馬自身だった。

「木下様!お怪我ありませんか?こらこら、乱暴にしてはいけないよ。」白夜が馬体を優しく叩く。

「鞍も鐙も轡も手綱さえ無しに馬をどうやって操るのじゃ...?」

尻餅を突いたままで藤吉郎は見上げてわめく。

「某はそのようなもの無くても大丈夫でございます。」

(たてがみ)に白夜が軽く掴まると馬はひと声嘶(いなな)き、稲妻の如くに駆けだしていった。

「なんと...なんと怖ろしき子じゃ。馬すら意のままか...しかも、あの鬼葦毛は御屋形様しか乗せぬ気位の高い馬じゃというのに...」と呟いた藤吉郎は立ち上がって、尻に着いた飼い葉を払った。

耳を澄ましてみても、すでにもう蹄の音すら聞こえぬほどに白夜を乗せた馬は遥か遠くに走り去っていた。

「しかし、これは参ったわい。馬を貸したこと御屋形様に知られてしまったら儂の首と胴体が離れてしまうではないか。白夜殿が首尾良く事を収めてくれるのを待つしかないのう。」藤吉郎は苦笑いした。


その頃、喜右衛門は小谷城に戻り、汗と砂埃に(まみ)れた姿のままで長政の前に飛び出した。

「ややっ!?喜右衛門ではないか?今戻ったのか?ご苦労であった。義兄上は無事に送り届けたであろうな。」

父親のような年齢の宿老に労いの言葉を掛けながら、取り乱した様子の喜右衛門に長政は怪訝な顔をする。

長政の傍らには直経が兄、信長を討つという進言をする為にやって来る事を知っている市が寄り添うように座っていた。

「弾正忠殿は本日、柏原の成菩提院にお泊まりになられておられます。供の兵は近くの家に宿を借り、弾正忠殿ご自身は数名の宿直(とのい)とともに休んでおられます。」直経が一気に告げる。

「柏原?美濃はすぐそこではないか?何故(なにゆえ)美濃に入らなかったのであろうか?しかも僅かな宿直(とのい)のみとは無用心な...何か不都合なことでもあったのものか?」

そう口にした長政は振り返って市の顔を見た。

「きっと兄上はこの北近江が気に入ったのでございましょう。」微笑みを浮かべ、そう市は応えた。

「御屋形様、申し上げたき儀がございます。御代様にはしばし外して頂けぬかと。」直経は渋面のまま深く頭を下げた。

「うむ、そうか...市、すまぬな。」

長政にそう言われて仕舞えば市に拒むことは出来ない。

『お願い、白夜...早く戻ってきて...』心の中で市は必死に叫んでいた。

「弾正忠殿を討つのは今を於いて他にはありません。」

市の気配が遠ざかると直経は圧し殺した声で訴えた。

「な?何を申しておるのだ?」長政は愕然とする。

「弾正忠殿は表裏が激しく、今は当家に好意をみせておられまするが、朝倉家に対しての防波堤としての当家の利用価値が無くなれば必ず滅ぼされます。」

「御代の...市の兄であるぞ...そのような讒言(ざんげん)許さんぞ。」長政は立ち上がり平伏する直経を睨みつけた。

「御屋形様の勘気に触れ、手打ちにされるのも覚悟の進言でござる。此度(こたび)の六角の説得、目的は交渉にあらず、武田、上杉、朝倉に公方様を奉じているのは織田であることを知らしめ、公方様には織田なくば幕府再建の大望は成し遂げられぬことを覚悟させるため。そう考えればあの気の短い弾正忠殿が六角ごときにこれだけの手間を掛けたのも道理とは思われませぬか?弾正忠殿の智略を巡らす早さはさながら猿が梢を伝い渉ようでございます。これより後に弾正忠殿と当家を対等な関係に保ち続けることは非常に困難、されど臣下として扱われては吾ら浅井家家臣団は承服致し兼ねます。しかし、(いくさ)ともなれば勝利するのは非常に困難。しかし、今ならばほぼ丸腰...何卒、討伐の御下知を下されよ。」直経は真剣だった。

「喜右衛門、其の方が浅井を思う気持ち、心より有り難く思う。しかし、この長政を信じて胸襟を開き、かように油断した態度を示す者を夜討ちで討ち取ることはまさに懐中に入りし鳥を殺す如きもの、浅井の弓箭の恥辱となるであろう。今は勝利したとしても諸将は浅井を軽蔑し、必ず天下の敵とみなすはずである。」

その時、馬の(いなな)きと大勢の人が騒ぐ声が庭から聞こえてきた。

「何を騒いでおるか?」

長政は庭に面した障子を勢い良く開け放った。

すると、庭先には一頭の見事な葦毛の馬が鞍も着けずに近づく者を蹴散らそうと跳ね回り、その裸馬の背には白夜が悠々と跨がっていた。

「喜右衛門様っ...某、飛び出していった主様が心配で追いかけて参りました。」白夜が大音声で告げる。

「後を頼むと申し付けたのに何をしておるか!」直経が嘆息する。

「申し訳ございません。しかし、ここまでの道中、多くの伏兵を発見致しましたことお伝え致します。」

「伏兵じゃと?嘘を申せ、儂が小谷に来るまでの間にそのような気配微塵もなかったぞ。」直経が怒鳴る。

「本当でござる。柏原の東に500、西に同じく500、国境近くに騎兵を含む5000の兵が集結しております。」

「バカな...それも其の方が見てきたと申すのか?」

「いえ、ひとり捕まえて口を割らせたのでございます。」

「むむっ!?織田方はそのような準備をしておるのか?油断して見せたり、兵を潜ませたり...義兄上は吾らを試しておられるのか?」長政は初めて語気を荒げる。

「そうではございません。もちろん、美濃国境に待機させた5000は正規軍です。しかし、伏兵は臣下の木下藤吉郎殿の私兵で弾正忠様が命じたものではないようです。さらに木下殿の兵は普通の兵ではありませぬ、真夏の夜の森に潜み、下されるかどうかわからない命令を待ち続ける忍耐力。そして、夜目が効き夜襲を得意とする集団。暗闇ならばひとりで10人を相手に出来るほどの手練れでございます。」

飛び跳ねる馬の背から白夜が大声で告げた。

「聞いたか、喜右衛門。下手に動いていたら織田を滅ぼすどころか浅井は壊滅的な損害を被ったやもしれぬぞ。」

「こ...このような幼子の戯言を信じてはなりませぬ。白夜...其の方、10人を相手に出来るような猛者の口をどうやって割ったというのだ?」直経が詰問する。

「ややっ?そのように疑われるのは御屋形様と思っておりましたのに、その時に喜右衛門様に某の言葉が真実であると説得して頂くつもりでしたが...仕方ありませんね...腕の立つ方々を10人くらい集めて頂けますか?」

「10人相手にしてみせると申すか?くだらぬ、おぬしら山の民は怪しげな薬草などを使うと聞く、大切な家臣にそのような得体の知れぬものを使われてはかなわん...」

そこで、長政はハッと気づいた。

「待て!その馬、義兄上の愛馬ではないか?」

白夜が跨がり、振り落とそうとばかりに飛び跳ねている馬は間違いなく昼間、信長が駆っていた馬に違いない。

「喜右衛門様が飛び出して行かれた後、追い掛けて馬小屋に参りましたところ、木下様も気付かれたようで宿老殿は何処に行かれたのかと詰問されました。」白夜はありのままに応える。

「うぬっ、気付かれておったか?」直経が唇を噛む。

「まあ適当に煙に巻いておきました。それで、この馬小屋で脚が一等速い馬はどれかとお尋ねしたところ、この馬と仰られたのでお借りしてきました。」

白夜は笑い、ひらりと裸馬の背から降りた。すると突然、馬はおとなしくなり白夜に首を擦り寄せている。

「なんと!わざと暴れさせておったのか...」直経が呆れる。

「とんでもなく利口な馬でございます。頼んでおけば弾正忠様を振り落とし蹴り殺してくれるかもしれませぬ、いかがなさいますか?」

その言葉が本当かどうかはわからないが、馬は間違いなく白夜に懐いていた。

「木下という者は浅井家中で織田討つべしと声が上がるのを見抜いていたようだな。」長政は納得する。

「すべて某の責任して下さって結構でござる。何卒、御下知を急襲すれば首を取れるやもしれませぬ。しかし、失敗した時は某を逆賊として成敗して下さって結構でござる。」

「其方のような真の忠臣を失っては浅井家は滅んでしまうではないか。」長政は聞き入れない。

「されど、されど、この機を逃せば二度と好機はありませぬ。」直経は男泣き泣いた。

信長が佐和山城を訪れたことは程なく知れ渡った。

「婿入りなき先の舅入りとはこのことよ。」このように京雀は皮肉を言ったのであった。

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